「読むことと書くことは同じ」

むかし、日記を書いていた。

初めは中学2年だったと思う。キャンパスノートの適当な行に日付を入れて、次の行から何があったか・何を感じたかを記していく。その日一日を忘れないように、できるだけ詳しく。はじめは数行で済んでいたが、日を重ねていくと数ページにもわたっても終わらなかった。一日の出来事なのに、文字通り書ききれなかった。そんな日は何度もあった。
いまでも、2つの光景を覚えている。

寮の自習時間に、寮監が見回りに来ているのに書く手が止められず、背中に気配を感じているのにノートに向かい続けていたこと。
県立高校を受験することを決めて、寮を出る直前の春休み、今で言う学習ブースが何十列にも並ぶ、多くが帰省して誰もいない自習室を眺めて、この感覚を日記に書きつけたいと胸の奥がざわめいていたこと。

ただ当時の中高生でさえ、それにかまけていられるほど暇でもなかったので、書く機会はしぜんと少なくなっていた。無性に書き付けたくなるときは、何時間でも書き続けていた。19歳の頃に父親が死ぬ数日間の出来事はついに書ききれず、放置している。

そうやって書き溜めたノートは、常に自分の書棚に収めていた。大学生の頃でさえ、何度も読み返していた。当時はとても情緒が不安定で、読むときは大抵なにかに苦悩していた。読むたびに、当時の苦悩の沼へとさらに身を浸し、沈み込んでいった。

日記の習慣は、ブログやメモアプリへとメディアを変えて細々と続けられている。ただ、それはもはや日記とは呼べない。自分の考えを書き散らす、メモ書きのようなものだ。

* * *
この「日記を書く」という行為が、自分の物書きへの渇望につながっている。そして自分のツボと呼べるような本に出会い、この体裁で書かれた文章にめっぽう弱いことにここ数年で気づいた。
ル・クレジオの『物質的恍惚』とサミュエル・ベケットの『マロウンは死ぬ』だ。

どちらもひとり語りをしている。
それこそ切れ目なく、ほとんど改行もなく。

ある人に言わせればベケットは「砂を噛む」ような読書体験らしいが、たしかに皮膚感覚に近い体験だとは思う。まるで自分の日記を読んでいるような、また、人には聞こえない小さな声で小虫がチイチイと鳴くのを聴いているような感じだ。それが言いようのない安心感をもたらしてくれる。

また、こういう指摘も膝を打つところだった。『ゴドーを待ちながら』についてだけど、当時の感覚にちかいと思っている。

――何かがおこってほしいという期待はことごとく裏切られ、それなら何もおこらないと見えたことは何だったのかが問われてくる。
――残り滓。持ちこたえられない中心。慰めにもならない断片。

松岡正剛の千夜千冊 1067夜『ゴドーを待ちながら』サミュエル・ベケット

いっぽうル・クレジオのほうは、自分の書いてきた日記にもっと似ている気がする。読むたびに「私の考えていることを他の人が代弁してくれている」という心地よさを感じる。

そういえばもう何年も昔に知り合いの知人宅を訪ねた時、書棚に所狭しと詰められた本を眺めていたく感動し、当人にそれを伝えると「君の好みに合った本がたくさんあったってことだね」とすげなく応対されたのを思い出す。書棚には、自分の大好きな人文学の書物が並べられていたことに後で気づいたのだった。

あの文体は、今読み返してもため息が出る。
このまどこっろしい表現も含めて愛しく感じる。

精神のいちばん恐るべき作用は、たぶんあの閉鎖である――内的な眼差が、あらゆるはっきりした狙いを棄てて、すべてこれ、あの唯一無二の壮挙、つまりみずからの意識を意識するという壮挙を目指すとき。完璧な行為、不毛に、かつ苦痛に満ちて完璧な行為というものがあるとすれば、それまさにこの行為だ。

ル・クレジオ『物質的恍惚』p275「意識」

* * *
「読むことと書くことは同じ」

上に書いたような理由からも、その通りだと思う。自分が読むこと、それは自分が書く行為と重ねながら体験しているのだ。そして自分が書く時、一番初めの読者は自分なのだ。

ただ、その循環には「他者」が入ってこない。ときどき、あくまで自分の声に耳を傾け続ける自分がいるだけだ、という思いにおそわれる。自分自身に近づくほど、なぜかその瞬間がやってくる機会が多くなる。

ここでジュリア・クリステヴァのいう「アブジェクシオン」を思い出す。

クリステヴァはこのような「おぞましさ」の根底にある作用をアブジェクシオン(abjection)と名付けた。たんなる嫌悪感ではなく、嫌悪しているにもかかわらず、その嫌悪が当人の感情や心に入ってくるぎりぎりのところで弾きとばされたり、隠されてしまうような、そういう「おぞましさ」がアブジェクシオンである。

松岡正剛の千夜千冊 1028夜『恐怖の権力』ジュリア・クリステヴァ

視界から遠ざけたいのに惹かれる。近くなるほどに目をそむけたくなる。この、どちら側にも付きようのない感覚を「アブジェクシオン」というらしい。

そう、日記を読み返すときの苦悩に沈み込んでいく感覚は、気分がよいときだと見るのも嫌なおぞましいものとして映ってもいたのだった。日記といった、自分の書いた私的な文章には「アブジェクシオン」としての側面もあるのだろうか。

だとすると、何かを「書かずにいられない」思いとは何なのか――書くことは排出行為なのか。書くことがおぞましさにつながるのはなぜなのか。
このあたりは、また別の機会にくわしく書いてみたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?