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はじまりとおわりを引き受ける

はじまるってことは、おわりがあるってこと。

あまりにも当たり前のことです。でも言葉にすると、とても不思議な感じがします。そもそも当たり前のことは、ふだん言葉にしないからです。

当たり前のことを言葉にしないといけないとき、たいていは、何か別のことが問題になっている場合が多いようです。たとえば、途方にくれているなかで、誰かに「真実」として当たり前のことを言われると、一切解決した感じがするものです。そういうやりとりを誰かとしたことがありませんか。

当たり前のことが、「問題」となって立ちふさがることもあります。とても大きくて、すでに手に負えなくなっていることでしょう。たとえば、人との関係、生そのもの…それらに終わりがあるということは、なかなか受け入れにくいものだったりします。

冒頭のことばを聞いたとき、私は、ごく当たり前のことだ、と文字通りにとらえてしまっていました。しかし今になってみると、まるで予言のように思いだすことがあります。本当に「おわった」ことに、半信半疑というか、とまどっているかのようです。

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物語を読んでいると、「ずっとこのまま読み続けていたい」と思うことがあるようです。とくに、長くて魅力的な物語を読み進んでいるあいだは、「物語を読む」よりも「物語を生きる」というほうがしっくりくるかもしれません。あなたならどの作品を思い浮かべますか。

もちろん「魅力的」の基準にもよりますし、挙げる物語は人それぞれでしょう。たとえば、休載を繰り返している人気マンガ、とくにアニメ化されたものも、読者のなかで「生き続ける」機会を得るような気がします。(忘れられることも多いでしょうが…)

ある人は、ハリーポッターシリーズを読み終わるのがもったいなくて、原書で読み始めたといいます。またある人は、たった一冊の本を毎日、本当に少しずつ読み進めては、そのたびに衝撃を受けているといいます。

ときに、読者から作者になる人もいます。手塚治虫のマンガ「火の鳥」はとても有名ですが、その続編を手掛けた方もいました。作家の桜庭一樹氏は、小説「大地編」を2020年に完結させています。

あるいは “IFもの” 、アナザーストーリーを作る方もいます。またほかにも、印象的なシーンやアイテムを「形見」のようにして、まったく新しい物語のなかで登場させてみたり。

設定や展開が似たりよったりの作品のなかにだって、もしかしたら “自分が作ったらどんな光景になるだろう” と思って始められたものが、まぎれこんでいるかもしれません。

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いとしい時間ほど、おわるのが悲しいと感じるものです。

私は「おわってしまうのなら、はじめなければよい」と考えることがあります。その中にとびこむのではなく、あるときは遠巻きに、ときに冷ややかに、あるいは名前のない入口から入ろうとします。

しかし、はじめなければ、その最中(さなか)も、おわりもありません。また、見ようによっては、どのように振る舞ったとしても、はじまっていることに変わりはないのです。

はじまってしまえば、その最中(さなか)に巻き込まれることもあるでしょう。だからといって中に入ってみないと、分からないこともあります。この板挟みに、私は「むずかしい」という言い方もよくしてきました。

「はじまり」と「おわり」を引き受ける――それはたしかにむずかしいことかもしれません。しかし「むずかしい」という言葉は、ものごとから距離を取ろうとして知的に処理する印象を受けませんか。これは、大事な部分にフタをする態度のあらわれかもしれないのです。

そんなに「おわる」のが悲しいのだったら、いっそ泣くしかない。泣けばよかった。
どんなに突きつめても、いや、そこまで突きつめるのだったら、まずはここから始めないといけないのかもしれません。

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そこで今夜は第43則にとぶことにする。これもけっこう有名な「首山竹蓖」(しゅざんしっぺい)という公案だ。首山という和尚が竹蓖を持って門下の大衆(だいしゅ)に、こう言った。「諸君が、もしこれを竹蓖だと呼ぶなら触れるぞ。竹蓖と呼ばないなら背くぞ」。さあ、どうする? どうする?
……無門は、ようするに「何かを言ってもダメ、何かを言わないのはもっとダメ」ということだと説明する。これはしかし、そのままに受け取ってはさらにダメになる。この公案はどんな日常も危機の真っ只中にあるということを示唆しているのである。

第1175夜『無門関』無門慧開


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