「死者の書」、あふれ出る物語
折口信夫の「死者の書」の冒頭です。
現代のことばづかいから、少し離れた言い方です。しかし声にしてゆっくりと読むと、からだに入ってくる感覚をいつも覚えます。
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「した した した」。
滋賀津彦(しがつひこ)が葬られた石室でゆっくりと目をさますなか、水のしたたる音を耳にします。無音のなか、湿った床に、高くない場所から一滴ずつしずくが落ちているのでしょうか。
本文には多くないけれど、独特のオノマトペが印象に残った人も多いでしょう。音や動きを言いあらわす表現が、この物語の情景をよりあざやかに想像させます。
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2006年、人形作家の川本喜八郎は「死者の書」を映画化しました。
その映像に、雨の降りしきるなか、主人公の郎女(いらつめ)が野をあるく様子を見ていたような気がしますが、よく覚えていません。
その年の4月頭、私は東京へ行き、10日間ほど映画ばかり見ていました。数十本は立て続けに見たと思います。記憶に残った映画はたくさんありましたが、なかでも「死者の書」はもう一度見たいと強く思い、夏にふたたび、汗をかきかき地元の映画館へ足を運んだのでした。
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しかし「死者の書」を実際に初めて読んだのは、ずいぶん最近でした。
大塚英志・森美夏の「木島日記」を読んで折口信夫を知り、ついで諸星大二郎の「奇談」が映画化され、当時のわたしのオカルト興味は民俗学へ向かったのがそもそものきっかけです。
同じ民俗学者の先達だった柳田國男の「遠野物語」を手に取り、そして「死者の書」の映画を見たのですが、そのとき私のなかで、とても腑に落ちるものがあったのです。
それは、ありようもない光景を掘りくり返すオカルト趣味を満足させるというより、もっと遠くの記憶を呼び起こす昔語りの幻想譚だった、と得心する感じです。近くの趣味から遠くの憧れへ、など、まだ色々にも言えるでしょうが、何より欲望の重荷が少し軽くなった気がしたものです。
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私は、この物語の文章をとても美しいと思います。
ときに誰のことを言うのか分からないほど主語を欠き、会話のカギカッコもなく、しかも話の筋が入り乱れているようにもみえて、とっつきにくいと思う向きもあるでしょう。でも、だからこそなのだと思うのです。
冒頭の滋賀津彦の、記憶が入り乱れて語る場面へ戻りましょう。印象的な光景や思いが先に、ぽん、と置かれます。そして連想は連想を次いでいきます。
これは、人が思いをめぐらし、言葉にするナマの形に近い気がします。
じっさい人の意識は、論理だててではなく、むしろ流れるように継ぎ足されるものでしょう。だから、この文章を口にすれば自分の体に入っていき、さらには滋賀津彦の見た光景にかさねることもできるのでは、と思うのです。
そして、このやり方こそが、折口氏のいう「昔の人の夢」をよみがえらせる方法の一つだったのでしょう。
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そういえば、ガルシア・マルケスの「予告された殺人の記録」も小さなエピソードがパッチワークのようにつなぎあわされて、とても密度の濃く、何かが立ちのぼる印象がありました。優れた物語とは、どうやら多くのエピソードをその内に秘めているようです。
またガルシア・マルケスが、その土地の幻想をみずからの技術で物語に仕立てたように、折口氏も民俗学で培った自身のまなざしで、独自に物語を編み上げたのでしょう。
だとすれば、この混乱ともみえる読みにくさは、そのままに読まれるのがただしいのかもしれません。口に出し、あるいはふとした瞬間に、内容がほどけ、自分自身のなかにあふれ出てくるときがやってくるはずです。
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