フリーダ・カーロ:自己表現と大乗
わたしはしっかり者なのよ、という声を電車でふと耳にしました。
気むずかしく見られて、誤解されやすいのだけど、と。
年配の方の声でした。ひとが自分自身をどう表現するのか、いままで何度も見聞きしてきたはずでしたが、その人の言葉はなにかちがう印象を抱かせるものでした。
耳にして「そうなんだろうね」と思いました。それは「あなたがそう思うんならそうなんでしょう」と突き放したふうでなく、「あなたはそんなところまでたどりついたんだね」という感心に近いものです。
そしてその印象は、私にとっては初めてのように感じられました。
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もっと以前に、近い年齢の人たちが「私って◯◯な人だから」というのをたびたび耳にすることがありました。自分を物語の主人公のようにキャラ付けして、周りに理解してもらいたかったのかもしれません。
自分をどう捉えるかは本人の自由ですが、それを他人へ向けて共有しようとするのは、当時の私にとって考えられないことでした。
だって、自分を捉えるのは簡単なことじゃないし、もしかしたら他人は自分をぜんぜん違うふうに捉えるかもしれない。「私はこんな人だ」と主張すれば、いまこの人間関係よりも、自分のキャラ立ちを先に選ぶ人だと思われるかもしれない。
そういう、おそれを抱いていたのです。
私自身も、その人たちと同じように、自分という「ただひとつのキャラクター」がある、という考え方に捕らえられていたのかもしれません。そして、それに加えて、なにかを始めれば、無数の可能性をせばめることになる、とも。
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なにかを始めることは、ほんとうに無数の可能性をせばめるのでしょうか。
映画『フリーダ』(2002)を観たことを時々思い出します。フリーダ・カーロは、事故の後遺症に苦しみながら、自画像を数多く作り出していった画家です。当時はこの画家について全く知らなかったのですが、なぜここまで痛みを描こうとするのかと、映画を観ながらずっととまどっていた気がします。
いま思えば、自画像とは自分自身であって自分自身ではない、ということだったのでしょう。むしろ自画像とは、テレビが番組を映すように、自分という姿を通して別の何かを映し出そうとするものなのかもしれません。
あるいは、まったく別の何かを通過しなければ、自分自身を描くことはできない。そういったこともあるのかもしれません。
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こういった例を挙げるだけでも、何かを始めることが無数の可能性をせばめる、なんて、とても言えなくなるのが分かると思います。
自分は、他の誰か・何かと関わりながら、テレビになったり・番組になったりもする。だとすると、電車のなかで聞いたあの言葉は、その人の数ある一つの姿でしかないのかもしれません。
そして同時にその姿は、切り開かれた可能性そのものなのかもしれない。
自己表現とは無数のうちのひとつであり、ひとつの到達点でもある――この考え方は、次の言葉も思い出させるものでした。