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ドサクサ日記 8/5-11 2024

5日。
ボイトレからのリハーサル。楽曲については、歌い込んでみると分かることがある。「ワールドアパート」はそんなにキツくなかった。後半のサビメロはどう考えてもヒステリックなので変えたいけれど。アジカンの曲のなかで最狂、敢えて狂うという字を当てたいくらい歌メロが高いのは、実は「ムスタング」であった。「う」という母音で高音を出すのは難しい。肺と声帯の限界みたいな歌だと思う。

6日。
この日もゴリゴリにリハーサル。まずはウミネコカレーにカレーを食べに行く。チキンカレーとキーマカレーの2種盛りセットを注文。相変わらず美味しい。想像力を排してしまえば、手の込んだ料理もただのアミノ酸としてカウントしてしまうくらい、感覚器官や脳はある意味で鈍感、ある意味で敏感に変容させることができる。想像力なんていうのは観念的で、生きるために身体が反応するみたいなこととは別の回路だと思う。生物的な、動物的な体内物質の躍動と身体の反応、それに支配されずに、魂の震えだとか生きる喜びだとか、祈りとか感謝とか、そういうものと食を繋げているのは人間だけなんじゃないかと思う。そうした人間らしさを全肯定するのも危ういけれど、生命や生体の反応に理由をつけることをやめてしまえば、人間は何度だって誰かの人生の上に核爆弾を落とすことができるのだと思う。そこにはツルツルの、顔のない「エネミー」みたいな観念が鎮座している。しかし、これもまた人間らしい考え方で、想像力をなくすという意味で、想像力の一部なのだと思う。想像力とは人間らしさであり、戦争で人を殺す理由を見つけるのにも想像力ががっつりと利用されている。だからこそ、私たちは想像力でもって、戦争や紛争に抗い、人を抱きしめ、カレーに感動すべきなのだ。想像せよと自分に。

カレーと音楽は違うようで似ている。潔が料理をするのにも、本当は理由があって、それは料理と音楽がある部分ではとても似ているからだと思う。『流水』にはガッツリ参加しているので、聴いてほしい。ウミネコカレーにもぜひ!

7日。
ネットでは何らかの私刑が常に行われていてしんどい。法というのはドライでありがたいなと思う。誰であろうとダメなものはダメで、情状についても考慮されたうえで、司法によって刑罰が決められる。その人の好感度や社会的地位によって、投げていい石の大きさや数が変わるのは恐ろしい。しかも、通りすがりの人が勝手に石を投げるのだからタチが悪い。まったく関係ないけど、空前の琵琶湖ブーム。

8日。
宮崎県を中心に大きな地震。南海トラフ地震臨時情報という報道にギョッとした。まずは今回の地震で被災された人たちの生活が無事に回復することの祈りたい。これでもかと兵器をアメリカから買うのではなく、税金は大災害に備えるために使ってほしいと願う。静岡県だけで10万人が亡くなるというシミュレーションがあるという。被災者の総数を考えると恐ろしい。自助も共助も必要だけれど、それだけでなんとかなる規模ではない。他国との争いは政府間で話し合ったり、経済や文化の分野で協力し合ったり、衝突を避ける努力はいろいろある。しかし、天変地異は私たちの都合を考えてくれない。話し合いの余地もない。例えば、能登地震は元旦に起きた。停戦はできても、停災はできず、日頃からの備えで防災と減災を目指す以外にない。いつでも支え合う準備をしておきたいと思う。政府も準備してほしい。

9日。
兵器というのは商品としては発明品だと思う。何しろ、破壊すること自体が目的なのだ。ぶっ壊せばぶっ壊すほど売れる。スマホだってパソコンだって、計画的陳腐化で一生は使えないようにデザインされている。壊れないとメーカーが立ち行かない構造になっている。こういう仕組みのなかでは、戦争も環境破壊も、おおよそ無くすことは不可能だろう。地球ですら、ぶっ壊れたほうが儲かるのだから。

10日。
古里おさむと風呂敷のアルバムの作業を進めている。ミックスの作業をしているときは、何度も同じ楽曲を聴く。世界中でもっともこの曲を聴いているのは俺なんだろうなと思う。ずっと聴いていると飽きてしまうのではないかと思う人もあるかもしれないが、毎回感動するのだから不思議だ。ミックスの腕前は大したことはないかもしれないが、何度も感動できる能力があってよかったなと思う。

11日。
何に疲れたのかは分からないが、昼からズシンとソファで昼寝。夕方にノンアルコールビールを買いに行って、早めの夕飯を食べたあとにまたズシンと来て、またしばらくソファに沈み込んだ。そういうえば「ぼっちざろっく」の総集編の公開に合わせて、ちょっとしたレコメンド記事を書いたのでリンクを貼っておく。映画についてのレコメンドではなく、そこから連想される音楽についての記事だけれども。