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ドサクサ日記 5/9-15 2022

9日。
天井の高いスタジオでドラムの録音。録音の技術というのはシンプルで奥が深い。世界中の音楽のスタイルが変わって、商用の大きなスタジオがどんどん減っていったとしても、マイクを使ってドラムセットの音を良く録る方法の基本的な入り口はそんなに変わったりしない。むしろ旧来の手法のなかに、新しいテクスチャへの接点が含まれていたりする。技術は引き継がないと滅んでしまう。

10日。
エレクトリックギターという楽器がとても好きだ。その理由を端的に説明せよと言われたら困るが、和音や単音を弾くなどして仲間と合奏したり、弦を叩いてキラキラとした金属音を作ってそのテクスチャに酔いしれたり、あるいはエフェクトペダルに繋いで破壊的なノイズを出したりできるところが好きだ。音が嫌いな人は聞かなくてもいいと思う。でも、俺は世界中のギタリストの音を楽しみにしている。

11日。
福島県の双葉郡と南相馬を巡ったドキュメンタリー映像が公開された。復興の歩みはそれぞれで、場所によって状況が違う。それを「複雑さ」と呼ぶわけにはいかない。現実は本来、複雑なものだ。それをシンプルに整理した側に立って「複雑さ」と呼ぶのは、失礼ではないかと思う。大きな世界的な商業イベントが踏みつけていった「復興」について、じっくりと考え続けたい。寄り添うというよりは、そのただ中に居たい。俺もまだその道の半ばにいる。2011年の3月11日から、傷ついたままでいる。自分の無力さについて、社会の後進性について、私がある種の貧しさの一部であることについて、ショックを受けたままだ。罪悪感を抱えたままだ。現状復帰させて、未来の世代に渡すわけにはいかない。せめて、今より少しでもマシな社会を引き渡したい。一緒に考えてくれる人が増えることを願っている。

12日。
赤坂の町を歩いていると、いろいろな国(地域)の料理に出会う。先日食べたパラグアイ料理は、トウモロコシ風味のパンが美味しかった。接客してくれたお母さんも優しかった。ランチで入店したロシアとウズベキスタン料理の店には、「私たちは平和を愛している」と大きな張り紙があった。今は無性にキンパが食べたい。弾丸と拝金と憎悪によって、世界中の文化が焼き尽くされないことを願う。

13日。
車の運転は難しいなと思う。都会の喧騒や欲望や悪意のなかを駆け抜けることも難しいが、風光明媚なところをドライブするのもまた難しい。運転していると景色がじっくり見られない。青く澄んだ海や空、みたいなことだけではなく、その土地にしかない変な中華料理店などを発見する機会も減ってしまう。かと言って、タクシーをチャーターして周遊するような金銭感覚もない。自走旅行の難しさ。

14日。
某企画の音源を片っ端から聞いた。上手にできていることは、そんなに魅力的なことじゃないんだなと思った。誰しもがナントカ風を上手にできてしまう時代だと思う。昔は参照点だけで、違いを見せられたかもしれない。今や、そうした着眼点ではなくて、「その人にしかできないこと」になっていないと、そこそこに良いアーティストの一群から抜けることは難しい。これはなかなか厳しいことだと思う。

15日。
ギターの音の良し悪し、みたいなことはさて置き、誰かがギターを鳴らしたときに響くのは、その人がギターと一緒に歩んできた歴史でもある。身体能力による上手さや下手さからは逃れられないが、ある種の愛着でしか広がらない領域がある。速弾きはできずとも、シンプルなAadd9のコードを美しく響かせることは可能だ。自分にできることとできないことの境目をしっかりと巡る。そうしているうちにできるようになることもあるし、できないことを別の美しさや豊かさで補うアイデアが見つかることもある。本当に好きなことなら、そうした境目で惚け続けてはいけない。時には自分にがっかりする。はっきり言えば、がっかりし続けている。しかし、そのがっかりの最中から「この世は生きるに値する」と思えるような美しい何かが現れて、去っていく。その瞬間を積み重ねながら歩んで行くしかない。