その社会を作っているのは他ならぬ「健全者」つまりあなた方一人一人なのです。
タイトルの文章は荒井裕樹さんの『障害者差別を問いなおす』のなかで引用された、横塚晃一さんの『母よ!殺すな』からの言葉。本文から、もう少し長めにここに引く。
障害者は現代社会において、被差別的で被抑圧者なのです。今までのボランティア活動は、このような人達を「かわいそうな人達」あるいは「不幸な人達」と呼び「だから私達が何かやってあげるのだ」ということだったと思います。しかし、これは大変な心得違いです。なぜなら我々を、不幸な、恵まれない、かわいそうな立場にしているのは権力であり、今の社会であります。その社会を作っているのは他ならぬ「健全者」つまりあなた方一人一人なのです。
(『母よ!殺すな』一四一〜一四二頁)
荒井裕樹 著『障害者差別を問いなおす』(p.92)
差別を語るとき、僕たちは自分を問題の外に置いてしまうことがある。差別自体が、この社会の構造(それは、僕たちそれぞれが差別についてどう考えているのかとは関係なく在る)に根ざしているにも関わらわず、だ。僕たちは社会の一員であるわけだから、差別が未だ存在する社会や、その構造や仕組みへの責任がないはずがない。
伊是名夏子さんへの「乗車拒否問題」と、そのときに起きたバックラッシュを思い出す。伊是名さんに投げかけられた言葉の数々に、ずっとモヤモヤしていた。厳しい姿勢で反論したかったが、どうやって言葉にするべきか悩んでいるうちに時間だけが過ぎてしまった。
https://news.yahoo.co.jp/articles/77e1a97830f867ddafaec1cc9cccaf042ba65523
そうした悩みを抱えるなかで、荒井裕樹さんの『障害者差別を問いなおす』という本に出会ったことは大きい(同じく彼の著書『まとまらない言葉を生きる』についても、いずれnoteに書きたい)。一冊丸ごとパンチラインのような本で上手にまとめる自信はないが、本書の障害者団体「青い芝の会」についての記述から、まずは引用したい。
青い芝の会に参加した脳性マヒ者には、障害者は世間に迷惑をかけず、他人から可愛がってもらったり、同情してもらったりすることが大事だと教えられてきた人が少なくありませんでした。当時としては、それが社会の「常識」だったからです。
しかし、青い芝の会は、そうした「常識」を問い直しました。障害者本人が街頭に出てはマイクを握って演説し、障害者本人との話し合いに応じない役所に押しかけては座り込みを行ない、障害児の入学・登校を拒否した学校に対しては抗議行動に出向いたりしました。
こうした「社会に歯向かう障害者」の姿に、多くの人が衝撃を受けました。当時、青い芝の会の運動家たちには、しばしば次のような言葉が投げかけられたといいます。
「せっかく可哀想だと思ってやっているのに、なんでそんなに生意気なことをするんだ」
「もっと穏やかに伝えなければ、世間の人からわかってもらえませんよ」
青い芝の会が闘ったのは、障害者に向けられた、こうした価値観そのものだったといえるでしょう。
荒井裕樹 著
『障害者差別を問いなおす』(pp.69-70)
太字の言葉は、1970年代に「青い芝の会」へ投げかけられた言葉だ。それから50年近く経って、街なかにスロープやエレベーターが増え、バリアフリーという考え方が浸透するようになっても、彼らに投げかけれらたこのような言葉が減っているようには思えない。
続く言葉がとても重要なので、引用したい。
青い芝の会は障害のある人とない人とが、「仲良くする」「互いにわかり合う」といった考え方も拒絶しました。現状の社会において、両者の関係性が決して対等なものでない以上、障害者の側に「わかってもらうように努力をすべき」「歩み寄って仲良くしてもらうために我慢すべき」といった圧力がかかることが明白だからです。
荒井裕樹 著
『障害者差別を問いなおす』(p.70)
社会生活のなかで、ありのままいるだけで不利益を受け、差別的な構造によって抑圧されたりストレスを感じたりしている人たちに対して、「差別的な構造を解消したいなら私たちに気に入られるような言動を心がけよ」と要求することの暴力性。僕が抗いたかったのは、これだと思う。
例えば、いま目の前の人から、「障害者差別についてどう思うか?」という質問が投げかけられたとしたら、皆さんはどう答えるでしょうか? こうした問いに対して、「マジョリティ」は往々にして「社会が成熟しなければ〜」「国が責任を持って福祉を整備しなければ〜」「人間の本質として〜」といった答えを言いがちです。
しかし、「社会」も「国」も「人間」も、きわめて「大きな主語」です。さしたる葛藤もなく、「社会」や「国」や人「人間」を代弁するかのような言葉が出てきてしまう人こそ「マジョリティ」だと言えるでしょう。
「マジョリティ」は、自分自身の価値観や考え方といった「個人的な見解」を、「大きな主語」に溶かし込むことができてしまいます。そうすることで、あたかも「一般的な見解」であるかのように語ることができるのです。
逆に「マイノリティ」とは、そうした語り方ができない(許されない)人たちのことです。「マイノリティ」は、自分自身に関わる「小さな主語」で語ることが求められます。
「差別についてどう思うか?」という問いは、「マイノリティ」にとって自分の日々の暮らしに関わる事柄です。買い物に行く、学校に行く、部屋を借りる、銀行口座を作る、誰かを好きになる、その人と共に暮らしたいと思う等々、暮らしの至るところで、「他ならぬこの私」に降りかかってくる問題です。
(中略)
「この社会には障害者差別が存在している」という言い方に対して、真正面から反対する人は、おそらく多くはないと思います。しかし、この「社会」という言葉は「大きな主語」の代表格のようなもので、「マジョリティ」はともすると、自分自身が障害者差別を残存させている社会の一員であることを忘れてしまいます。
その人自身は個別に責任を問われることのない安全地帯から、「社会」という抽象的な存在に責任を押しつけるような発想に対して、横塚晃一は釘を刺そうとしているのです。彼は「健全者」という言葉を使うことによって、<あなた方一人一人>へと呼びかけます。<あなた方一人一人>が、障害者と対立的な位置にいる「健全者」なのであり、そうした「健全者」がこの社会をつくっているのだと訴えているのです。
荒井裕樹 著
『障害者差別を問いなおす』(pp.94-95)
どこを引用しても、これでよかったのかという逡巡が残る。『障害者差別を問いなおす』には、決してデフォルメしてはいけない大切なことが書かれているからだ。できたら、本を手にして、全文を読んでほしい。
そして、長くなったが最後に、本文中に引用された横塚晃一さんの『母よ!殺すな』の一節を引用したい。どういう文脈で発せられた言葉であるかについては、『障害者差別を問いなおす』で確認していただきたい。
しかし、文脈を知らずに読んでも、僕たちの生き方にひとつの大きな問いを生じさせる、とても大切な言葉だと思う。
まず、介護人というのは特定の人がやるものであるという発想自体がまちがいであり、この社会を構成する健全者すべてが介護人であると我々は考えているし、そうした考えにたてば、街ゆく人も、バスの乗客も、障害者本人が介護を依頼し、それに手をかした人はすべて介護人であるはずです。
(『母よ!殺すな』三○一頁)
荒井裕樹 著
『障害者差別を問いなおす』(p.174)