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市場は、誰が、どのようなケアを受け取るかについて、倫理的な決定ができません。

 介護、看護、教育、育児、そして家事といった、多くのケアやケア労働(それは僕たちの生活や社会の維持に欠かすことができないこと)が、いかに新自由主義のなかで翻弄されているのか。

 わたしたちはケアが危機にあるとよく耳にします。すなわち、これまでになく多くのケアを必要とするであろう、これまでにない多くの高齢者たちの、これまで以上のケア需要に応えるだけの、ケア提供者の不足に直面している、と。しかしこの危機には、[よく言われているような] 単なる人口問題や労働市場の問題以上のものが反映されています。私たちみなが、この危機を、日々の暮らしのなかで経験しているからです。「ああ、もっと時間があったなら、わたしの愛するひとをケアできるのに、関心がある社会問題に時間をさけるのに、友人のために駆けつけることができるのに」といった具合にです。

わたしたちは、心から願ってもない任務にあまりに多くの時間を割き、他方で、わたしたちが本当に価値があると思っていることには、ほとんど時間を費やせていないのではないでしょうか。どうしてこうも、なにもかもが、逆転しているのでしょうか。逆転現象に加担しているのは、[時間をうまく作り出せない] わたしたち一人ひとりの個人的な失敗のようにも思えますが、実際はそうではありません。これこそが政治的問題なのです。

ジョアン・C・トロント 著
岡野八代 訳・著
『ケアするのは誰か −新しい民主主義のかたちへ』

 僕たちは、あらゆる問題を自己責任だと思い込まされている。何もかもが市場で売り買いの対象になるような社会のなかで勝ち負けを競い、まずは自助でなんとかしろという社会を生きている。そうした社会からの脱却をこの本は提案する。

 市場こそを第一に考える民主主義へのわたしたちの固執は、最も根本的に考えないといけない問題、すなわちケアを歪めています。市場は、誰が、どのようなケアを受け取るかについて、倫理的な決定ができません。にもかかわらず、わたしたちは、市場で高く見積もられる多くの事柄を、政治体から排除するように、民主主義を組織してしまっています。

ジョアン・C・トロント 著
岡野八代 訳・著
『ケアするのは誰か −新しい民主主義のかたちへ』

 ケアは社会の維持に不可欠だ。にもかかわらず、あらゆるケア労働が安値で買い叩かれ、富めるものから手厚いケアを受けられるような社会に突き進んでいる。多くの人に自助(自己責任)を要求しながら、富める者に富が集められている。

 ケアとは市民の相互依存であり、その価値を見直すことで、より包摂的で豊かな民主主義社会を実現させようとトロントは言う。

 民主主義は、人々がより人間らしく、よりケアに満ちた生活を送ろうとするのを支援するためのシステムなのだと再認識することが、わたしたちの不断の民主的革命における次のステップです。

ジョアン・C・トロント 著
岡野八代 訳・著
『ケアするのは誰か −新しい民主主義のかたちへ』