パートナーが植物人間になられたお客様のお話
お店を始めたころに知り合った若くないミュージシャンがアルバイトを始めたってね。彼は大学の時に介護系の資格を取っていたらしく、それを生かして音楽活動の傍らに、そんなような仕事をしていたんだ。
時々、大きいホールでライブなんかもやるもんだから、けっこう地元のファンが付いていた。
ある日、小さなライブが終わってファンの子数人とお店に来てくれたんだ。その中に少し背の高いN子がいた。この時が初めての出会いだ。
看護師のN子は割と上昇志向の高い女子。
「若い頃はね、お金があれば幸せになれると思っていたの。
だから国防の幹部候補だった彼と結婚したわ」
しかし15年経った今の夫婦生活は想像と違ったらしい。
「精欲を満たそうとする旦那から毎日逃げ回っているのよわたし…」
夫婦の内部事情をいつも俺に話してくれるN子の旦那様とお会いすることが一度だけあった。
N子を車で迎えに来た事があって、俺も外まで見送りに出た時に
「こんばんは、Nがいつもお世話になってます」
そう言いながら車から降りてきて礼を交わしてくれた。
その印象といえば、N子よりも10センチは背が低いだろうか、小柄で目は鋭く、何か身長に対するコンプレックスのようなものが伝わってきた。
自分に自信のないヒトは、なにか大きなものや大きな組織に依存したがる傾向にあると俺は思うんだ。
例えば気の小さい男は大きな車を所有したがったり、大きな組織に身を置いたり、その典型ではないかと勝手に想像していた。あくまでも俺個人の勝手な想像である。
俺の趣味でもある一眼レフを取り出して、この時に2人の写真を一枚取って差し上げた。2人の肩と肩の微妙な隙間が埋まらない写真が仕上がった。
東京特有の湿気が薄らぎ始めたと同時に北の方から冷たい風が吹く頃、N子は来なくなった。
夜の店で働いていると、時々「あぁ、あの人最近来なくなったけども、どうしているかな。」なんて不意に頭をよぎる事がある。
必ずじゃないんだけども、この誰かが不意に頭によぎる時って、気のせいかもしれないけど、その人に何かが起きている事が多いような気がするんだ。
でも、その何かが当たってしまった。
N子の旦那は仕事上、秘守義務も多いらしくそのストレスで毎晩酒に溺れる事が多かったらしい。
酔うといつも決まって「おれの仕事は殺人を犯しているようなものだ」と呟きながら酔い潰れ、失禁するまで飲んでいたという。
仕事を早期退職して長野の実家に戻って畑をやるのが夢だったらしいが、ある日の夜中、二階のベッドまで来ない旦那を不審に思い、長男が1階まで様子を見に行くと、酒を飲む姿のまま意識を失い、聞きなれないイビキのようなものをかいていた。
肩を揺すって起こすも全く目を覚ます事がなく、N子が近くにあったペンライトで眼球を照らすも、それを持つ手を変えて救急に電話し始めた。
その出来事から1年が経った。
女は強い。
2人の息子を抱えたN子は、昼は看護師の仕事と夜は介護の仕事の掛け持ちで働いている。
世田谷に建てた一軒家のローンはチャラになったらしい。
一昨日、N子は久しぶりに店に来た
「わたし、今まで仕事していたの」
疲れ切った顔と少し解けた髪を束ねながらレモンサワーを一気に飲み干すと、
「ねぇマスター、誰かいい男紹介して…」
あとがき
旦那様は今でも目を覚まさないらしい。
脳の血管が破れたとかで、もう目を覚ますことはないのだとか。働いていた国の機関からの給与も先月で切られたらしく、入院する病院からはひと月に10万円以上の請求が来たとかで、それをどうしようかと言うところで、今相談に乗っている最中だ。
でも、俺にできることは、あなたのお話を聞いてあげることしかできないんだ。
N子の未来がもっと幸せになりますように。
「N子、質問していい?もし生まれ変わりがあるとしたら、なにになりたい?」
「キャビンアテンダントになってドバイに住んでお金持ちと暮らしたい!」
「…」
次に転生しても、苦労は続きそうだ。
おしまい
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