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先入観を捨てる。
これはこうするべき。
いや、本当にそうなのだろうかと視野を広く見ていくとそう思う事がある。
視野を広く見ていると言って、じゃあ実際の行動は選択肢を狭めているだけなのかもしれない。だから、僕自身も視野自体狭いのかもしれない。
「視野を広く見たからこうするべきと自分で判断した。」
偏った先入観があれば、どれだけ視野を広く見ていると思い込んでも狭い世界のまま。成長もせずにただ立ち止まっているだけになる。
例えばだ、○○は悪だと思い込んで、視野を広げましたと認知してみる。
どれだけ考えを広げようにも○○は悪という考えの前提で思考が広がっていく。スタートが間違っていると本人が気付いたとしても、プライドや長年続けた癖等で後戻りできなくなり、軌道修正ができなくなる。そういう話もまたあると思うのだ。
勝手に○○は悪と自分で思い込んでいるだけなのではないのかと、そういう話もまた存在すると思うのだ。主語があまりにもデカいだけなのかもしれない。たまたま運が悪く、そういう出来事が多ければ確かに間違った認識で捉えてしまい、段々と進んでいる道がズレていく。どれだけ視野を広く見ようと外に出たとしても、その人が辛くなるだけだ。広すぎる世界を見るのも、また苦痛となりゆるからだ。
悪も立場が変われば正義となる。
悪にとって、正義は悪となり、置かれている立場で話というのはコロコロ変わる訳だ。たまたま、出目が悪ければ自分はそういう人間なのだと勝手に思い込んでしまう事もあるだろう。逆に出目が良すぎても慢心して、悪影響も及ぼすこともある。つまり、悪も正義もはたまた成功も失敗も見方によってはいくらでも変えようがあるという事なのだ。
必要な事は立ち止まる事。ほんの少しでも。
これって本当にそうなのかな?と一瞬でもいいから考えてみるのだ。
別に相手の立場になって考えろという訳ではなく、自分の気持ちも含めて考える事が大事なのだと思う。何より自分の心を優先する事。
八方美人というのは実行不可能という事。完全に自分を犠牲にするならばそれは可能ではあるかもしれないが、その人自身は幸せになれない。
だから、相手の立場になって考えるというのは危険性を伴う行動だと思う。
道徳として正しいのかもしれないが、自分を傷付ける行動は道徳として機能していない。自分に対して刃物を向けている状態に道徳が適用されているとは到底思えない行動だからだ。
心の余裕というのは、まず自分からしっかり満たさないと他人を幸せにすることができないのだ。自分を満足させることができない人間が、他人を幸せにすることはできない。決めつけている訳ではない、他人は貴方を幸せにするという保証はないから順序が逆という話でもある。
どこまで自分の先入観を崩せるのか、自分らしい人生を送る上で必要なのだと自分は思っている。