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少年たちの夏の死「夏の庭」湯本香樹美
私の父は急にこの世から旅立っていった。
当時、私は20代半ばで営業職の仕事をしており、休日にレンタルビデオを借りて家でゆっくり映画に勤しんでいた。
訃報の連絡が母からあったのは正午過ぎの長閑な晴れた際だったと記憶している。
母は、ひどく取り乱していた。
私はそれまで身近な人の「死」というものに立ち会ったことがなく、実際にその瞬間が来るとどんな感情が自分の中に訪れるのかと考えていた。
偶然にもこの日の前日にスマホの録音機能を利用して、「死ぬとはどういうことが」という見解を音声で自分なりに吹き込んでいたのだ。
しかし、こんなに急に来るものかと焦ったし、動揺したし、何も手につかなかった。
その日の夜、私はまだ父の安否がわからない中であったが、すでに父はこの世から旅立ったことを悟った。
なぜ、そう思ったのかはわからない。
でもなんとなくそう感じ、おそらくそれは間違っていないだろうと思った。
だからその日の夜に、夜道を散歩しながら嗚咽を抑えきれずに号泣したのを覚えている。
号泣する準備は、出来ていなかった。
夜道から帰り、家のトイレに篭ってからも涙が止まらず、父の死をひたすらに悲しんだ。
悲しんだ。
人が死ぬということは、どういうことなのだろう。
その年は、お盆に夏は5年ぶりに帰省した際に、久々に父と母と私とで、ボーリングに出かけた。
恥ずかしかったけど、父のストライクにハイタッチしてあげた。
シャイな父がとても楽しそうにしていた。
あとでスマホの写真を見返したら、嬉しそうにカメラに向かってVサインをする父の姿が映っていた。
帰省から戻る時に最寄りの駅まで送ってくれた車の中で、「じゃあ、またね」と言った私の言葉に「おう」と返事をして後部座席から外に出ようとする私を運転席から振り返る父の姿と声が、最期の瞬間になるなんてその時は思いもしなかった。
先ほどまで、あるいはそれまで生きて一緒に話をしていた人が帰らぬ人となる。
彼はどこへ行ってしまったのか。
死後の世界があるならば、それはどんなところだろう。
わからない。わからない。
幼少期に誰もが疑問に思うこの問いに、少年たちの夏は動き出した。
彼ら少年たちを見ていると、若い日の私と重ね合わせ、胸が疼く部分があるがその「好奇心」は誰にも止められない。
なぜこんなにも若い時分に「死」を目の当たりにすることにこれほどまでの好奇心が芽生えるのだろう。
それはやはり、死ぬということは生きている人間の誰1人としていまだに経験していないからだ。
死んでしまったら、「死ぬ」ということがわからない。
だから、死ぬ時まで、その時まで「死ぬ」ということに関しては全くわからないのだ。
何やら禅問答のようになってしまったのだが、おそらくはそういうことなのだ。
この小説の中の、家庭に大なり小なりの問題を抱えた少年トリオたちが行き着いた先は、あるボロ民家の「そのうち死んでしまう」とウワサのおじいさんの所だ。
この人が死ぬ瞬間を是非とも目撃したいという、怖さの多分に入り混じった好奇心を彼らは抑えることができない。
子供の純粋さや好奇心は、ある意味で狂気だ。
人を意図せずに傷つけもする。
初め彼ら少年たちを訝り、煙たくあしらっていたおじいさんなのだが、いつの間にかこのおじいさんと少年たちとの交流が始まっていく。
「死」を目撃したい、という言葉で思い起こすのは映画「スタンドバイミー」だ。
スティーブン・キングの原作で有名なこのストーリーの中にも、「人間の死体」を目撃したいという思いを抱えた少年たちが彼らだけで旅をする。
そして彼らは「それ」を目撃し、多難であった旅から帰った時、彼らの過ごす街を高台から見下ろして、その街の「小ささ」を感じたのだ。
しかし、街が実際に小さくなったのではない。
彼らの前途多難であった「死体探し」の旅が、その過程において彼らの精神的な成長を促し、相対的に彼らの見下ろす「街」を小さく見せていたのだと思う。
さて、話しは戻るがこの「夏の庭」のストーリーにおいて、少年たちはおじいさんの過去を知ることになる。
その苦労を、その過程を知り、自分たちの家庭や自分が抱えている「死ぬということはどういうことか」に向き合うのだ。
そして、これから生き抜いていく者たちと、喪失していくものとの狭間の中で、彼らの中でその思いが醸成され、変化を遂げるのだ。
平たい言葉で言えばそれが「成長する」ということなのだと思う。
「悲しみ」とは時に甘美なものなのかもしれない。
「甘美」という言葉のチョイスはその渦中にいる者にムゴイ言葉なのかもしれない。
だがそこから解釈できる「意味」には必ず価値があるのだと思う。
私の中に眠っていた父への思いと、彼ら少年トリオたちが感じだであろう思いが符合し、何か言葉では言い表すことのできないジワジワと温かい想いがゆっくりゆっくりと私の中で流れ続けていた。
そんな読後であった。