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私の追憶の『センスオブワンダー』レイチェルカーソン

こんなに透き通る感覚を持ち得た読書は久々な気がする。

なぜ、私はこの本をこれまでに幾度となく読む機会がありながら読まずにいたのだろうかと訝った。

否、読まなかったのではない。

この孤高で至福な読書体験をするために、時間を溜めていたのだと思う。

書店に行けば、この「センスオブワンダー」というタイトルは幾度となく目にしてきた。

パラパラと立ち読みもしたし、割と大きめの活字で詩的で素敵な文章であるということも認識していた。

しかし、もう少し「その時」が来てから読みたいという思いがあったのだ。

「その時」とは、どの時だろうか。

この本読みたいなぁ、と思って手に取る本がある。

しかし、あえてその時に読まずにそっと時間を置いて(時間を味方につけて)、ずっと後で巡り巡った機会に読んでみると、途方もないほど良質な読書ができる時がある。

サウナでいうところの「整う」時を待つ読書だ。

今回のレイチェルカーソン著の『センスオブワンダー』は、そんな至福な読書空間を用意してくれたように思う。

センスオブワンダーとは、直訳すると「驚く感性」だ。

本書の中の言葉を借りれば、

神秘さや不思議さに目を見はる感性

本文P33

ということになる。

詩的で透き通るような瑞々しい文章を読みながら、私も幼い頃に自然と戯れた記憶が蘇ってきた。

真夏に森の中で捕まえてきたカブトムシやクワガタ。

田舎の道路を悠々と飛行するオニヤンマを捕まえたいなと願ったあの気持ち。

野生のキジを追いかけて、本気で捕まえようとした無邪気な思い。

あの時あの日の全ての思いは、懐かしさの記憶となり、私の記憶の中に丁寧に仕舞い込まれている。

あの時のピュアな思いというのは生まれながらに誰もが備えている心の感性ではないかと思う。

この感性を、レイチェルカーソンは「センスオブワンダー」と読んだのだ。

だがいつしか、大人になるにつれて雑多で瑣末な様々な物事に縛られて、神経を削られてこの愛すべき「センスオブワンダー」の力を失ってしまうことが往々にしてある。

だから忘れないようにしたいとも思う。

「自然に帰る」ということを。

古代哲学者のエピクロスも、「隠れて生きよ」、「自然に帰れ」と述べている。

雀鬼で有名な桜井章一も、自然の流れに身を任せること、自然を感じることの大切さを著書の中で幾度も述べている。

泥んこで日が暮れるまで遊んでいたあの感性を、忘れることなく「今」の瞬間を生きていきたい。

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