見出し画像

「デザイン思考」は「鎌倉新仏教」だ

勘違いしないでほしい。デザイン思考を標榜し意味があるアウトプットを出している立派なデザイナーはたくさんいる。私が「デザイン思考」と書いたらそれは「通俗的デザイン思考」の略。それは何かといえば

「人間中心で設計します!ペルソナ作りました!ジャーニー作りました!インタビューしました!ワークショップファシリテーションして皆さんが出したアイディアまとめました!これでイノベーションが生まれましたね!はいX百万の請求書です!」

というプロセスを指す。(あなたがどう考えようが、現実としてこのプロセスはびっくりするほど頻繁に行われている)
そして「デザイン思考」は大ヒットした。なぜなら、ペルソナ、ジャーニー、インタビューをやってワークショップやって付箋を集め、それを適当にパワポにまとめるプロセスは誰でも簡単に習得できるから。そして「デザイン思考」しか知らない、実行できない「デザイナー」を大量に生み出した。

さて

ではここで言う「鎌倉新仏教」とは何か?浄土宗:法然、浄土真宗:親鸞、日蓮宗:日蓮の総称であり以下の記述のようなもの。

法然、親鸞、日蓮の関係性を簡単にまとめておきましょう。法然が「念仏さえ唱えてればオーケー。他全部やるな」で、親が「法然大好き!もう念仏も唱えなくていいかも!」。そして、日蓮が「法然ファック!法華経サイコー。題目だけ唱えてろ、あとは全部やるな!」という立場です。
法然、親鸞がナムアミダブツで、日蓮がナムミョーホウレンゲキョーです。三者に共通して言えることは、それぞれに排他的な傾向があり、また信者に要求する宗教実践(修行)が大変簡単なことです。単純化と排他性、この二つの要素から三者の姿を見ていきたいと思います。

もしパンクロッカーが仏門にはいったらp239

ちょっと待て!浄土宗or浄土真宗or日蓮宗はそのようなものではない!という意見もあろう。私がここで取り上げているのは「」つきの「鎌倉新仏教」であり、あなたの考える鎌倉新仏教とは別物である。

さて

「鎌倉新仏教」はとにかくナンマンダブ、ナンミョウホウレンゲキョー唱えれば極楽に行けると、と実践を単純化した。それゆえ(信じる気さえあれば)わかりやすく、誰でも実践できるね、ということで大ヒットした。

というわけで

「デザイン思考」と「鎌倉新仏教」(くどいようだが、両方とも「」つき)には以下の共通点がある。

  1. 努力・思考・繰り返しを必要とする「修行」を切り捨て、実践方法を単純にし「これさえやれば誰でもオッケー!」と主張する。

  2. その単純さがウケ、多くの人が取り入れる

「デザイン思考」が何を切り捨てたのか?私が言っても説得力がないと思うので、この言葉を引用する。

特にデザイン思考で使用される観察的手法では、特定の状況下になけるユーザーの行為や意味を深く理解することはできても、彼らを取り巻く社会的な文脈や文化に対する理解は抜け落ちる危険がある。したがって、広義の審美性の高さを再現できないという批判には、それなりの説得力がある。実際、優秀なデザイナーは様々なことにアンテナを張って情報感度を高め、社会的な文脈や文化に対する理解に努めている(Walsh, Roy, Bruce and Potter, 1992)。それにもかかわらず。デザイン思考では、それらの部分にほとんど触れられていない
(中略)
デザイン思考では、プロトタイプを使った試行錯誤型の問題解決が推奨されているからである。同様に、手を動かすことの重要性についても軽視しているわけではない。
ただし、手を動かす際の技術やスキルの高さなど(さらには、その結果として生み出されるプロトタイプの精度)については軽視している。例えば、空間の心地よさや品のある佇まい、何気なく触り続けてしまう素材感などの感覚的な価値をプロトタイプで疑似体験するには、それ相応の精度が必要になるが(池田,2020)、それらを生み出す手先の器用さについては枠外に置かれてきたのである。

デザイン・アート・イノベーションp30-p31

日頃からさまざまなインプットを行いそれに対する意味を考え続ける。良いプロトタイプを作るためにインプットとアウトプットとそれに対する容赦ない評価を行いさらに良いものを作る。これらはいずれも正解がなく、役に立つかどうかもわからず、時間と思考力を要する「修行」である。しかし「デザイン思考」がそれについて述べることはない。

では「鎌倉新仏教」は何を切り捨てたのか?

念仏を称えるほかには瞑想も不要、哲学も不要である。細かい儀式も、学問も、厳しい戒律や坐禅やその他の修行も一切不要である。

https://www.rinkaian.jp/column_archive/c201709.html

鎌倉新仏教は修行を切り捨てた。マインドフルネスとして仏教から切り離され、世界中で多くの人を救っている(私もその一人だ)瞑想を捨てた。

「これさえやれば誰でもオッケー!」はうまくやれば古今東西大ヒットを生み出す。ワンフレーズ・ポリティクスと名前もついている。理由はわからないが人間は単純化された断言に引き寄せられるようだ。

これが私が「デザイン思考」は「鎌倉新仏教」だ、と主張する理由。

しかし

類似性を指摘できるのはここまで。両者には大きな差異がある。

信仰というのは個人的なものである。南無妙法蓮華経だろうが南無阿弥陀仏だろうが唱えて救われたと思うならば他人がとやかく言うことではない。

それに対し

「デザイン思考」は本来複雑で、修行が必要なデザインという行為を単純化し「これさえやれば誰でもオッケー!」と主張した。結果としてペルソナ、ジャーニー作ってインタビューして、その場の思いつきを付箋に書いて貼ることが、結果をパワポにまとめることが「デザイン」だと考える「自称デザイナー」を大量に生み出した。

かつて日本の家電メーカーはスマートフォンを作っていた。当時Docomoの販売店に勤めていた人のブログに書かれていた言葉を思い出す。

「僕らは笑顔でゴミを7万円で売っていたという重罪があると本気で思ってます。」

https://iphonedocomoss.com/2013050479

私は自らの行為を「重罪」と顧みる「自称デザイナー」を見たことがない。



いいなと思ったら応援しよう!