【楽しいをつくる】日々の暮らしを鮮やかに楽しくする方法を考える、はずが、文章の羅列になったので、最後に文学作品のリンクを貼る俺
毎日の暮らしは、わりと平凡だ。
ただ、日々が繰り返され、日々が消費され、日々が訪れ、気づけば、日々が遠くはるか後方に去っている。
味気のない日々が、朝やってきて、夜去っていく。
ただ繰り返される毎日の中で、必死に出来る限りのことをする。
気づけば、ただ、茫漠とした時間の残骸の上に、自分が座っているのだが、ちっとも、遠くを見通すことはできない。
視界が広がることもない、ただ、体力は衰え、気力は萎え、視界が広がらなかったということに対しての失望が、絶望へと変わり、己の体内に蓄積する。
己を構築するものが、希望や期待から、どろどろとした闇のような絶望に変わっていき、茫漠とした過ぎ去った時間の山の中に、己の体が沈んでいく感覚を覚える。
視界は、闇に染まり、なにも見えない。茫漠とした過ぎ去った時間の山に沈んでいるのだから、当たり前ぢゃないか。
けれども、そんな状況に対する憐憫は己の中にしかなく、時間が己に同情をもって、では、時の進め方を緩めやうぢゃないか、などとそういったことはまったくなく、止まる気配などなく、毎日が過ぎ去る。いや、日々が過ぎ去るなどという言い方は、あまりにやさしい。
猛スピードで駆け抜けていく。日々が、もはや容赦はせぬぞ、ハハハ、とばかりに、時の流れを加速し、すさまじい暴風の中で、哀れにも、己の体を必死に抱きしめ、震えをもってして耐えているような状況なのである。
己自身は、すでに茫漠な過去の残骸の中で、目をつむっているというのに。時の流れだけが残酷にも容赦なく、遠慮もモチロンなく、茫漠な過去の残骸の中に手を突っ込んできて、弄ばんとするのである。
そうして、時間の残骸とともに、もはや残骸と化した己は、過ぎ去る容赦のない時間の冷酷さを前にして、やがて、己は、土へ還るのだと実感するのだ。
視界や期待や希望など、そんなものは、どうでもよく、ただ、土の冷たさに想いを馳せる。
願わくば、土の冷たさは、せめて、やさしくあってくれと。そういう期待をして、そういう希望をもって、そういう夢をもって、相変わらずの、絶望待ち。絶望に堕ちる前の、前振り。
けれど、土の中では、絶望を感じる必要もない。それは、茫漠な時間の残骸の中や容赦ない加速する時間とは、違う。だから、土は、きっと、やさしい。とても、やさしいと思うのダヨ。
おしまい
(やっぱり、文学作品がいいですよね。文学って、かっこいい! 上のリンクは文学作品の漫画系の本みたいですけど、良さそうですよね! よいね!)
( #熟成下書き として、昔の記事をアップしていってますけど、この記事はほんとに意味が分からんな。絶対に文豪の名作文学に影響を受けてるんでしょうけど。でも、内容がほんとにどういうことなのか、なにが言いたいのか、さっぱり分からんな。2年前の俺って、けっこう、隔世の感があるな。🤔)