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まさにこの背筋においてなのである

 朝にジム。『植物は〈未来〉を知っている』が読み終わる。

 一般に植物は、動物が特定の臓器に集中させている機能を体じゅうに分散させている。植物のモットーは、この”分散化”にある。すでに、植物が体じゅうで呼吸して、体じゅうで見て、体じゅうで感じて、体じゅうで計算しているということはわかっている。どんな機能もできるかぎり分散させること。それが捕食者の攻撃から生き延びる唯一の方法なのである。植物はそのことをとてもよく知っている。たとえ体の大部分を切りとられても、身体機能が失われることはなく、その状態に耐えらえる。植物の構造では、指令センターの役割を果たす脳も、脳の命令にしたがう単一もしくは一対の臓器も想定されていない。指令センターをもたない分散型のモジュール構造をもち、各モジュールが協力し合って、繰り返される捕食にも完璧に耐えることができる。トップダウンで指令を出すのではなく、”分散型”だという点で、植物はきわめて現代的であるといえよう。

ステファノ・マンクーゾ (著), 久保 耕司 (訳) 『植物は〈未来〉を知っている―9つの能力から芽生えるテクノロジー革命』NHK出版,p.160

”分散化”、”分散型”というキーワードが、この本を手にしたきっかけ。人類がインターネットを生み出すずっと前、いやずっと前どころか太古の昔から機能の”分散化”を取り入れていた植物。植物の知覚機能、周囲の環境からどのように情報を得ているのか、についてもっと知りたかったが、それはおそらく本書の前作にあたる『植物は〈知性〉をもっている 20の感覚で思考する生命システム』を読むべきか。

帰宅してさっとシャワーを浴び、青山のイメージ・フォーラムで映画『世紀の光』を観に行く。

緑豊かな地方の病院に勤める女医ターイ(ナンタラット・サワッディクン)は、新任医師ノーン(ジャールチャイ・イアムアラーム)の面接や寺の僧院長の診察などで忙殺されていた。そんな中、青年トアに突然プロポーズされ、さらに恋愛経験について聞かれたターイは、思い出に残っている話をすることに。一方、白々とした人工光あふれる近代的な病院で、ターイの面接を受けたノーンは先輩医師に案内された病院の地下で、2人の女医と出会い……。 

シネマトゥデイ 

前後半で舞台が変わる。緑の美しい田舎の病院から都市部の近代的な病院に。時の流れは感じない。輪廻転生を想わせる、似たようなやりとりの反復。しかしながら、その反復にはズレがある。後半部は、物語の推移より、前半部との差異に注目せざるを得ない。その俯瞰する視点が、なんだか神様になったよう。そもそも映画を観るという行為自体に、どこか神のような視点で画面を眺めるようなところがあるが、そうした感覚を鋭敏にする映画。ドキドキハラハラは皆無だが、ミニマル・ミュージックのような陶酔感があり、終始夢見心地で癒される。

前半の田舎の病院が美しい。病室の、廊下の、階段の、全ての窓が開放されている。まぶしい陽光と、外の緑をさわさわと揺らすそよ風。しかしながら、後半の都市の病院の、無機質な白、部屋や設備が整然とされた秩序だった空間、そちらもまた美しい。自然の素朴と都市の洗練が、等価に癒しをもたらすことも発見のひとつだった。

映画は2つのパートに分かれている。前半は地方の緑豊かな病院、後半は近代的な白い病院が舞台。登場人物の多くも重なり、医師の恋の芽生えなどのエピソードは2つのパートで反復される。「これは愛についての映画で、医者だった両親から着想を得たものです。この映画には母の記憶、亡くなった父の記憶、そして僕自身の記憶もミックスしています。この映画の2部構成には自分自身に起きた変化や故郷の町に起きた変化が反映されているといえます。そして現場では違う種類の人間が家族のようになって作りました。僕にとって特別な映画です」(アピチャッポン.ウィーラセクタン監督)

シアター・イメージフォーラム作品紹介より

定食屋でランチして、青山ブックセンターをふらついて、雨が降り出す。帰宅する。奥さんは友人とのランチに出かけているので、部屋には誰もいない。軽く部屋の掃除をする。久しぶりに雑巾を絞って床を磨く。図書館に行って、予約していた『ミメーシス―ヨーロッパ文学における現実描写〈上〉』と『古典文学レトリック事典』を受け取る。絶版本は、中古市場で高額化しがち。特に後者は1万円を超えるので、手が出せない。そうなると図書館で借りてくるしかないのだが(図書館にあるだけまだ感謝だが)、中身をパラパラと見た限りでは、手元に置いておきたくなる類の本で、困る。大日本印刷の絶版本製造サービスの今後に期待するしかない。

夕方、奥さんが帰宅。彼女が作ってくれたカレーを夕食に。食後、奥さんが、このあと図書館に予約資料の受け取りに行きたいと言う。なんだ、さっきひとりで行くんじゃなかった。雨脚が弱まる頃合いを見計らって、閉館間際の図書館に行く。トンボ帰り。部屋に戻り、先日購入した映画『大人のためのグリム童話 手をなくした少女』のパンフレットを読む。

 アニメーションは肉体を描けません。そこにあるのは、線と色だけです。でもこの技術によって、少なくとも、存在することと存在しないことの間を描き出せる。〈中略〉

 液体は、身体を描くときに重要でした。身体性は、アニメーションを作るときに常に興味を引かれるテーマです。というのも、アニメーションには、身体が根本的に存在のしようがないからです。身体は、描かれたものを通じて、なんらかの媒介を通じて、ようやく表象される。身体そのものを描くことはできない。だからこそ私は、身体をアニメーションでどのように扱うのかについて、興味を持ちつづけてきたのです。
 少女は映画の中で泣きます。おしっこもします。おしっこについては、原作にはありませんでした。授乳もそうです。授乳という行為は、液体のかかわる肉体的な行為の中でも喜ばしいものだと思いますが、そういう行為を描くことが、身体を描くことにつながる。液体は、身体を描くため(身体を観客に感じさせるため)に必要だったのです。

劇場用パンフレット,セバスチャン・ローデンバック監督インタビューより抜粋

昨日の日記を書いて、仮眠でもとろうかとベッドで横になり、そのあとは今日Amazonから届いたナボコフの『文学講義』を読む。しょっぱなからがつんときて、文字通り目が醒める。

本を読むとき、なによりも細部に注意して、それを大事にしなくてはならない。本の陽の当る細部が思いやり深く収穫されたあとならば、月の光のような空想的な一般論をやっても、なにも不都合はない。だが、既製の一般論からはじめるようなことがあれば、それは見当ちがいも甚だしく、本の理解がはじまるより先に、とんでもなく遠くのほうにそれていってしまうことになる。たとえば『ボヴァリー夫人』を読むに当って、この小説はブルジョワ階級の告発であるような先入観をもって読みはじめるくらい、退屈で、作者に対して不公平なことはほかにない。つねに心しておかなくてはならぬことは、芸術作品というものは必ずや一つの新しい世界の創造であるということ、したがって先ずしなければならぬのは、その新しい世界をできるだけ綿密に研究し、なにかまったく新しいもの、わたしたちがすでに知っているどの世界とも単純明快なつながりなど全然もっていないものとして、その作品に対することだ。このような新しい世界が綿密に研究された暁に、そのとき、そのときのみ、その世界と他の世界、他の知識の分野との関連を調べてみればいい。

ウラジミール・ナボコフ(著),野島秀勝(訳)『ナボコフの文学講義 上』河出書房新社,p.53-54
陳腐なことを飾りたてるのは、二流の作家に任せる。彼らには世界をふたたび作り上げることなど念頭にない。ただ既定の事物の世界から、慣習的な小説様式から、可能なかぎりの甘い汁を絞り出そうとするだけのことだ。二流の作家がこのような決められた限界内で生み出しうるさまざまな組み合わせは、かげろうのようにはかないが、それなりになかなか面白い。なぜなら二流の読者というものは、自分と同じ考えが心地よい衣装をまとまって変装しているのを見て、快く思うものだからである。しかし、本当の作家、惑星をきりきり舞いさせ、眠っている人間を造形しては、その眠っている男の鋤骨を熱心にいじくりまわすような人、そういう種類の作家には、自分の自由になるような既製の価値はなに一つないのだ。

同上,p.55
 文学は、狼がきた、狼がきたと叫びながら、少年がすぐうしろを一匹の大きな灰色に追われて、ネアンデルタールの谷間から飛び出してきた日に生まれるのではない。文学は、狼がきた、狼がきたと叫びながら、少年が走ってきたが、そのうしろには狼なんかがいなかったという、その日に生まれたのである。

同上,p.61
小説の質を試すのにいい処方箋は、結局のところ、詩の正確さと科学の直感とを結び合わせることだ。芸術の魔法にどっぷりと身を浸すために、賢明な読者は天才の作品を心や頭で読まず、背筋で読む。たとえ読むあいだ、少々超然とし、少々私心を離れていなくてはならないとしても、秘密を告げるあのぞくぞくとした感覚が立ち現れるのは、まさにこの背筋においてなのである。かくして、官能的でかつ知的でもある喜びを感じながら、わたしたちは芸術家がトランプ札で城を築くのを見まもり、そのカードのお城が美しい鋼とガラスの城に変貌してゆくさまを見つめる。

同上,p.63

そのあとは『英文読解術』でモームの英文を少し自分で訳してみたり、つげ義春の漫画や『大司教、死来る』の続き、図書館で借りた本をパラパラ読んで、眠りにつく。夜雨がばらばら降っている。

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