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よその家のベランダで洗濯物を干す

文句なしに涼しい朝。今度こそ、今年の夏も終わりだろう。酷い暑さに苦しめられた夏だったが、過ぎ去ってしまえばなんだか寂しい、と言う人もいれば、忌々しい夏が終わって、清々すらあと言う人もいる。

通勤と昼食の間、いつも通り夏目漱石『吾輩は猫である』。小説の中は夏だろう、迷亭君が苦沙弥(くしゃみ)先生の風呂場で水浴びをしている。家人の断りなく、勝手に他人の風呂場に上がり込んでいるのだから、この人はいつも通り絶好調である。

「時に御主人はどうしました。相変らず午睡ですかね。午睡も支那人の詩に出てくると風流だが、苦沙弥君のように日課としてやるのは少々俗気がありますね。何の事あない毎日少しずつ死んで見るようなものですぜ、奥さん御手数だがちょっと起していらっしゃい」と催促すると細君は同感と見えて「ええ、ほんとにあれでは困ります。第一あなた、からだが悪るくなるばかりですから。今御飯をいただいたばかりだのに」と立ちかけると迷亭先生は「奥さん、御飯と云やあ、僕はまだ御飯をいただかないんですがね」と平気な顔をして聞きもせぬ事を吹聴する。「おやまあ、時分どきだのにちっとも気が付きませんで――それじゃ何もございませんが御茶漬でも」「いえ御茶漬なんか頂戴しなくっても好いですよ」「それでも、あなた、どうせ御口に合うようなものはございませんが」と細君少々厭味を並べる。迷亭は悟ったもので「いえ御茶漬でも御湯漬でも御免蒙るんです。今途中で御馳走を誂らえて来ましたから、そいつを一つここでいただきますよ」ととうてい素人には出来そうもない事を述べる。細君はたった一言「まあ!」と云ったがそのまあの中には驚ろいたまあと、気を悪るくしたまあと、手数が省けてありがたいと云うまあが合併している。

夏目漱石『吾輩は猫である』[Kindle版]青空文庫,Kindleの位置No.3773

夕食のあとはジムで『ミメーシス』。第八章にして、ダンテ『神曲』が取り上げられており、ついに!と興奮する。

カヴァルカンテの「(息子の眼は)もう甘い光が見えないのですか」という叫びを聴く人ならば、あるいはまたピア・デ・トロメィが、地上に戻っても自分のことを想い出してくれとダンテに願う前に語る、美しく優しく、女らしい魅力にあふれた一行を読む人ならば、その内的感動は人間たちに向けられるのであって、彼らが成就を見出した神の秩序に直接向けられるのではない。その秩序の中で彼らの永遠の状況は、力を損なうことなく保持されている彼らの人間性の働きを、さらに高めるような一回性をもつ、一個の舞台としてだけ意識される。<中略>

そして、人間に対するこの直接的な、嘆賞を惜しまぬ関与において、歴史の中におかれた個としての人間の、神の秩序にもとづく不滅性は、まさしく神の秩序に抗う転回をなしとげ、この秩序を自らに奉仕させその光を奪ってしまうのである。人間の姿が神の姿の前に出現する。ダンテの作品は人間のキリスト教的・比喩形象的本質を実現しながら、その実現自体のうちにそれを破壊してしまう。強固な枠組みは、それが包括する形象のあまりの豊かさに圧倒されて砕け散った。

E・アウエルバッハ(著)篠田一士・川村二郎(訳)『ミメーシス 上 ヨーロッパ文学における現実描写』筑摩書房,p.343‐344

11時過ぎに床に就く。夜更かし常習の私には少々早すぎたのか、眠気の訪れる気配がない。寝物語に最適な小話はないかと奥さんに尋ねるが、そんなものは無いという。それなら、昨日見た夢の話でもしてくれと彼女に頼むと、昨晩は夢の中で洗濯物を干していた、夢で労力を費やすくらいなら現実で洗濯物を干したかった、なんだか損した気分だというので、そりゃそうだアハハハハと笑う。すると彼女は、でもその洗濯物を干した場所が知らない人の家のベランダだったんだよね、と言うので、え、どういうこと?と聞き返す。つまり彼女は、自分たちの洗濯物を脇に抱えて、見ず知らずの他人のベランダに勝手に上がり込んで、そこにある物干し竿に洗濯物を干していたらしい。夢の話だが。自分の留守中に、見ず知らずの他人が勝手に部屋に上がり込んで、ベランダで洗濯物を干す姿は、現実の出来事として想像すると、なんというか、とても不気味だ。まだ、知人が風呂場で水浴びしてるくらいがいい。そういえば、家人が留守の部屋を転々としながら生活する男の映画がたしかあったはずだが、なんて名前だったか、、

SmartNewsのトップに並んだ記事。

・大阪府警:不審車2台に警官発砲1人逮捕、1人逃走(毎日新聞)
・橋桁の撤去作業を開始=タンカー衝突の関空連絡橋(時事通信社)
・アベノミクス成果大げさ?計算方法変更GDP急伸(東京新聞)

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