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無理なものは無理

私は今、なんとか理由をつけて逃げようとしていることがある。それは大学の卒論発表会だ。

私は吃音持ちで、緊張すると絶対に吃る。
もうわかっているのだ。「心配事の8割は起こらない」と本で読んだことがあるが、これに関しては100%吃る。私がそう意識したなら尚更だ。これで吃らなかったことはない。特定の言葉で必ず吃るし、言いづらい言葉があれば何拍か置かないと話出せない。間が空くから聴衆は余計に私に注目する。いくら本番を意識して練習しても、ばっちり準備をしても吃るものは吃る。もうこの力は絶対で、かれこれ10数年抗えたことはない。
だからたくさん工夫をした。言葉の言い換えや文脈、息継ぎでどうにかできないかと。
決してよく思われたいなんて思っていない。「いかに印象に残らない発表ができるか」それが目標だ。私の吃り混じりの発表は人の記憶に残るのだ。そしてその失敗はトラウマというなの勲章のように私の心に刻み込まれるのだ。

では、いろんな場面で吃ってきて何を今更逃げたいといっているのか、それはこの研究室がすこぶる嫌いだからだ。単純だけど大きな理由だ。融通の効かない教授も、話が通じない先輩も、人任せな同級生も全部全部嫌だ。
人を慮る研究でもすれば良いのにといつも思っていた。
そんな抑圧された状況下の中で吃らない発表なんてできるわけがない。リラックスもくそもない。私の吃りは最大級を迎え、緊張も相まって過呼吸になって(前回なりかけた)、もはや最後まで喋れないんじゃないかと思う。きっと途中で投げ出してしまう想像だって容易にできる。そしてきっと過去1番のトラウマになるのだろう。

他人に何がわかるっていうんだ。
この「吃音」という文字を見るのも、予測変換にその言葉が残ると自分がそうであると改めて自覚させられているかのようで、その画面をまともに直視できないほど嫌なのに、
ただ人前で話すのが苦手であることと、吃音持ちであることは訳が違う。
「プレゼンで緊張しない方法」「うまく話せるようになるコツ」なんてものを見ると、調子のいいこと言ってんじゃねえよと思ってしまうのだ。そんなひねくれたことを思うほど、私の「吃音」に対する恐怖と逃げることの否定の板挟みになっている。

友達は今この時も発表に向けて資料を作って練習している。私はもうそれとも向き合えない。
もう全て捨てて逃げ出したい。無理なものは無理だ。できないことはできないし、苦手なものは苦手なんだ。わかってくれ。これ以上傷つきたくない。もうトラウマはいらない。自分を守りたい。



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