インターネットは現代の箱男 ~安部公房「箱男」を読んで~
安部公房の「砂の女」に続いて「箱男」を読んだ。
読んだ印象としては、
・難解
・物語に没入させることを拒否した作り
・筋が無いようである小説
といった感じ。
自分が読んだ作品の中で近い位置に感じるのは芥川龍之介の「歯車」。
あらすじや登場人物について書こうとも思ったが、話が入り組んでおり上手く書ける気がしなかったので断念。代わりに箱男とネットの共通点について思ったことを書いていく。
※以下にネタバレあり
◇ 箱男とネットの共通点
作中で複数の「箱男」が登場する。箱男達は似たような見た目をしているが、当然中身は同じ人間ではない。しかし、第三者が箱男を見た時に、箱男たちの個体差などを気にすることはない。個体差がないという事は、段ボール箱を頭から被ってさえいれば、それらは全て箱男として認識されるという事である。つまり箱男になるという行為は、匿名性を得て個人を脱却する行為とも考えられる。
現代において、匿名性を得て個人を脱却する例として「ネット上の書き込み」が考えられる。例えばニュース番組にて「〇〇というようなネットの声が話題になっています」のような文言が語られることがある。これは、紐解いていけば個人の意見なのだが、インターネットを介することで個人の存在が消え、集団としての意見にすり替わっているのである。
現代はネットを介することで、誰でも簡単に箱男になることができる。例えば酷く攻撃的な文言もネットであれば書けるというのは、無意識的に匿名性が担保されていると信じているからだろう。しかし、ひとたび事件が起きれば匿名性は崩れてしまう。最近では、ネット上での悪口に対して裁判が起きることは少なくない。
箱男になること、それが悪なのか善なのか。それは単純な二元論では決して推し量ることはできない。ただ、現代は誰もがネットを使って匿名性を得られるために、箱男と普通の人間の状態を併せ持つことができる。作中ですら描かれなかった箱男と普通の人間を併せ持つ、我々現代人は、いったい何を引き起こすのだろうか。個人情報を隠したネットの住人であり、箱男である自分には想像もつかない。
最後まで読んでいただいてありがとうございました。