【短編小説】概念と暮らす
何もない夜。
アパートの2階の天井を、鉄筋仕様であることをもろともせず易々と突き抜けて、熱い煙を噴射しながら頭大の何かが降って来た。電子レンジで解凍したうどんに昨日余らせていたカレーをかけただけの、カレーうどん未満の食べ物を夕食にしている最中の出来事だった。
何かが床にめり込んだ風圧でカレーを載せた皿がひっくり返って、私のシャツに飛び散った。でも、お気に入りのシャツが汚れたことよりも、目の前の不思議の方に動揺していた。
何か、は、形の所々から溶岩のようにボコボコと煙を噴出して、次第に弱まり、私が呆然としている内に止んだ。
恐る恐る近付く。
球体、とは違うし、アメーバ状かと言われればそこまで形がないわけでもなく、人型かと言うとそれ程はっきりはしていない。何と言うか、形容し難い姿で――一番しっくりくる示し方は、『概念』、というか。
取りあえず、さっき捨てたばかりのラップの芯でそれを突いてみる。
一度突くと、突いた部分が凹んで、すぐ元に戻る。反発する感触からして、柔らかそうだ。
もう一度突く。すると、ラップの芯に触手のようなものが伸びて、先で握った。驚いて咄嗟に私が手を引くと、するっと芯は抜けた。力はかなり弱弱しい。
降って来た時の煙から熱気を感じたので、本体も熱いのかと思っていたが、突いたラップの芯の先は焼き焦げるでもなく、触ったら僅かに温かいだけだった。
このくらいの温度なら、直に触れられるんじゃないか。
得体の知れないそれにゆっくり手を伸ばすと、触れる前にそれの方から握り返してきた。柔らかい。熱くはないが、かなり温度は高い。滑らかな温泉に手を浸からせているような感覚。力はやっぱり弱かった。しかし、手の平から伝わる微かに何度も握り直すそれの動きに意思のようなものを感じた。
これは、生き物なのだろうか。だとしたら、保健所に連絡した方がいいのかもしれない。でも、この非力さは元からなのか。もしかしたら、弱っているのかも。
見たこともない生き物に家で死なれては堪ったものじゃない。私は皿に僅かに残っているカレーうどんもどきをスプーンで、人間の一口大分掬う。口がどこにあるのか、そもそも口が付いているのかすら不明なので、適当に真ん中あたりにスプーンを近付けてみた。
また触手のようなものが伸びて、スプーンの上のカレーにそっと触れたと思うと、弾かれるように触手を引っ込める。その後、触手に僅かに付着したカレーを唾液らしきものと一緒に小刻みに震えながら吐き出した。
カレーの刺激が耐えられないのかもしれない。私はうどんのカレーがかかっていない部分だけをスプーンでこそぎ取り、プレーンの状態でまた与えてみる。
一度刺激を与えてしまったからか警戒している様子で、触手を伸ばす気配がない。
「もう辛くないよ」
そう言っては見たものの、伝わるわけないか。
私は少し考えて、目の前でそのスプーン上のうどんを食べて見せることにした。
「うん、美味しい、美味しい。小麦の風味がたまらないね」
一度で伝わるか不安だから、皿に残っている分だけ何度も大袈裟な動きでうどんを口に運ぶ。
体から突起物が小さく伸び縮みし始めた。触手を伸ばすかどうか迷っているように見える。スプーンをもう一度近付ける。
「美味しいから、食べてごらん」
怖々伸びてきた触手が、うどんを二度ほど突いて、手の中に包み込んだ。と思うと、素早く体内に引っ込めて、小刻みに揺れ出す。また吐き出してしまうのだろうか。
「☆※○△!」
それが音を発した。声、と呼ぶにはあまりに形のない、呻きに近い音。勿論、何を言っているのかわからないが、明るい返答だということは伝わった。
喜んでもらえたようで、再び伸びた触手はスプーンではなく、うどんの載った皿を示した。揺れていたのは、咀嚼していたから、みたい。
「いいよ、解凍すればまだあるから。好きなだけ食べな」
皿ごとそれの近くに持っていき、スプーンに乗る分だけうどんをこそぎ取っては、触手に渡す、を繰り返す。何となく、どこに口があるのかがわかった。
私はいつの間にか、形のあるようでない概念のようなものに対して、言葉をかけていたことに気付いた。コミュニケーションなんて取れるはずがないのに。
なぜだろう。相手が生き物だとわかったからだろうか。世の中には花に対して声をかける人だっているんだから、別に不思議なことじゃない。というか、何で花に話しかけるんだろう。その方が綺麗に咲くから、とかそういう見返りがあるからなのかな。いや、それは果物だっけ。ん? 果物も花咲くか。
この、何だかよくわからないものに話しかける見返りってなんだろう。
「☆※○△!」
それの声が私の頭の中の屁理屈を遮る。うどんを運ぶ手が止まっていたから、急かされたのだろう。
あれ、私いま、声、って思ったのか。やっぱり生き物だからなのだろうか。
色んなことへの答えが出ないまま、私は淡々とうどんをこそいで、それに与え続ける。
「美味しい?」
当たり前だけど、私の反射的に出た言葉への返答はなく、ただ咀嚼を繰り返すだけだ。それでも、何か、和んでいるような、綺麗な海にゆらゆら揺られているような気持ちになった。
5年前にただ一人の親類だった母親を亡くして以降、恋人を作ってみても、友人と酒を飲んでも埋まらなかった心の穴が、いまだけ、埋まっている気がする。
なぜだろう。なぜばかりだ。
取りあえず、私はこの概念のようなものと、少しの間暮らしてみることにした。
◆
「何、それ」
一週間の出張から家に帰って来た航太が、居間に入るなり、ただいまより先に目を丸くして言った。
「ガイネンだよ、ガイネン」
「概念って、何?」
「名前。概念っぽいから『ガイネン』」
「名前って、お前」と、ネクタイを緩める途中で止まっていた手を放して、正座した私の膝の上に乗るガイネンを指差す。ガイネンが家に降って来て三日、人の頭大だった体はサッカーボール大くらいにまで大きくなっていた。
「そのおもちゃが? 生き物じゃあるまいし」
航太は心配気に溜め息をついた。戸惑っている様子はない。私の頭がおかしくなったとでも思っているのだろうか。
膝の上のガイネンに、スプーンに乗せたすりおろし林檎を近付ける。パッと、丁度スプーンの幅が入るか入らないか程に口を開けるので、そこへ林檎を与える。口がどこなのか、はっきりとわかるようになっていた。
「生き物だよ」
「ええ」と叫んで、航太が背中を壁に貼り付ける。表情が明らかに引きつっている。半ば怒鳴るように声を震わしながら続けた。
「どこで拾ったんだよ、そんな変な猫。見たことねえぞ」
「絶対猫じゃないでしょ。どちらかって言ったら、犬じゃない?」
「どっちでもいいけどさあ、お前怖くないの。第一、ペット禁止だって知ってるだろ。大家に何言われるか。怒られるの俺なんだからな」
私は自分の家ではないことを良いことに、天井に目をやって彼に示した。ぽっかり空いた穴からは星空が覗いている。オリオン座の真ん中の三点リーダーみたいな部分だけが見えるくらいの穴。
航太はしばらくの絶句の後、「嘘だろ、おい」と蚊の鳴くような声で呟いた。
「私がやったんじゃないよ。ガイネンが空から降って来た時に空いたの」
私が言い終える前に、漫画のように彼が膝から崩れ落ちた。
「星見えてるよ」
「見ればわかるよ」
「違えよ、屋根ぶっ壊してんじゃん! 敷金でどうにかなるレベルじゃないって言ってんの!」
航太は悲痛の叫びを上げると、床に突っ伏して泣き出した。居候の身だけど、彼の気持ちはわからないこともない。でも、事故なんだからしょうがない。気持ちが穏やかなのは、他人事だからなのか、ガイネンがいるからなのか。私は、すすり泣く彼の背中を凪の心で眺めつつ、すりおろし林檎をガイネンの口元に運び続けた。
航太名義で借りている部屋で半同棲生活をし始めて、8か月ほどになる。私の借りている六畳一間のアパートは歩いて10分ほどの所にあるんだけど、時々物を取りに行くくらいで、ほとんど航太の家に入り浸っている。その内に居候するようになった。
航太とは友達同士の飲み会で知り合った。紹介なんてそんな品の良いものじゃない。友達が酔いの回り切った0時過ぎに、勝手に電話で酔っぱらった航太を呼んだのだ。私も酒が多めに入っていたこともあって、初対面にも関わらず当時の彼氏の愚痴を吐いている内に連絡を交換し合っていた。それから何度か二人で飲みに行き、航太にそそのかされて彼氏と別れ、航太と付き合い、三か月で振った。理由は、報連相をしない男だったから。航太は反対することもなく、それをすんなり受け入れた。
これが、1年前の話。それから結局また、友達と飲んでいる時に別れ話を面白がった友達が勝手に電話で航太を呼び出し、航太の家に行って飲み直し、ずるずると今まで居座っている。
復縁、は、していない。私自身、恋愛に向いていないことを、ちゃんと飲み込めてきたから。航太にもその気はないようで、ほっとしている。
やっぱり恋愛関係じゃない方が、航太と上手くやれている、気がする。
「☆※○△! ☆※○△!」
ガイネンが床に蹲る航太に向かって、口に含んだままだったりんごを飛ばしながら呼びかけた。
「ほら、ガイネンが事故なんだからしょうがないって言ってるよ」と、私はガイネンの頭を撫でる。
「え、それ鳴くの」
「だから生き物だって言ってるじゃん。口くらい利くよ」
「へえ」。航太が心なしか少し老けたような顔を上げて、ガイネンににじり寄る。
「この変な猫がねえ」
「私からしたら犬っぽいけどなあ」
ガイネンの目と鼻の先で、航太は珍妙そうに凝視する。その顔にゆっくりガイネンが触手を伸ばして、鼻を突いた。航太は逃げなかった。
鼻先がスイッチだったかのように、途端に航太の表情は砕けて、蕩けた。
「よく見ると案外可愛いかもな」
彼は慈しみの眼差しを向けながら、ガイネンを撫でる私の手の上に自分の手を添えて笑う。いつも私に向けている顔とは違う、柔和な表情で。
ガイネンを気に入ってくれて良かった。気に入ってくれると思ってた。
「私さ」と、航太の手の甲に目を落したまま呟く。
「ガイネンとしばらくここで暮らしてみたいんだけど、どうかな」
彼は依然ガイネンに温かい目を向けたまま、その眼差しと同じ温度の語調で返した。
「いいと思うよ。一緒に暮らすか」
その言葉に、私の表情も緩むのがわかった。
復縁したわけじゃないけど、航太との関係は良好だ。それでも、航太じゃどうにも埋められない心の穴があった。それが今、埋まっていく。
私と、航太と、ガイネンで、一つの運命共同体のような――。
「俺にもやらせて」
航太が私の脇に置いてある、すりおろしりんごの入った器と小さいスプーンを取ると、りんごを山盛り掬ってガイネンに差し出す。
「そんなに多いと食べられないよ」
「ああ、そうか」と、少しりんごを器に戻してから、再び差し出そうとする。すると、ガイネンの方からスプーンへと触手を伸ばした。
「おお」。彼が感嘆の声を上げる。ガイネンの触手はスプーンを舐めるようにりんごを包み取って、自分の口へ運ぶ。それを眺めながら、彼がまた一層大きく「おお」と感嘆する。
顔を私の方に上げた彼の目は輝いている。
「オスかな、メスかな」
「どっちだろうね。私は何となく女の子な気がするな」
天井にぽっかり空いた穴を、星々が埋め尽くしている。そのどれもが綺麗に見えた。
◆
釣竿を模したおもちゃの先に垂れ下がる七色の羽が、床に着くか着かないかのところで、釣り糸に引っ張り上げられて宙に舞う。その羽を何とかして掴もうと、ガイネンが飛び跳ねたり、背伸びしたり、触手を伸ばしたりする。
「☆※○△! ☆※○△!」
ガイネンがはしゃいでいる。それ以上に、航太が仕事帰りのままの服装で釣竿を上げ下げしながらはしゃぐ。
航太の足元には、エビフライの形をした手の平サイズのぬいぐるみが転がっている。その横にはスイカ柄のボールが、その横には通り抜けるとシャカシャカ音がするビニール製の小さなトンネルが、その横には猫の尻尾に似た猫じゃらし型のおもちゃが転がっている。その横には、その横には、その横には……全て、航太の買ってきた猫用のおもちゃだ。
ガイネンがおもちゃに飽きることよりも早く、航太がおもちゃに飽きて次々に新しいものを買い続けた結果、床の半分がおもちゃで埋まるほどにまで増えていた。
片付けは、できていない。
「ねえ」。中心が窪んでいる丸いクッションをシーツで包んだガイネンの寝床を整えながら、航太に呼びかける。キャッキャと騒ぐ、遊びに夢中な声がそれを打ち消す。
「ねえ」
声量を上げてもう一度呼びかけると、釣竿を持つ手を止めて航太は振り返った。表情が、私とは対照的に、綻んでいる。
「何? ああ、取られちゃった」と、すぐにやっと羽をキャッチ出来て満足気なガイネンの方へ視線を戻す。
ガイネンがやって来てから、10日。航太は今や、ガイネンにメロメロだ。私のエネルギーでは到底できないほどに、毎日ガイネンと遊んでくれている。彼がいつか言ったように、「遊ぶのも世話のうち」なんだと思う。それに徹してくれている彼に感謝もしている。おもちゃだって彼の給料から捻出したものだし、仕事で疲れた体に鞭を打って以前よりも動きが機敏になったガイネンに付き合ってくれている。おやつも時々与えてくれる。「あんまり無理しないでな」と私に毎日労いの言葉もかけてくれる。
でも、私は床の片付けすら出来ていない。
「防水シーツ買ってきてくれた?」
「何だっけ」
「今朝言ったじゃん、ガイネンのおねしょ用の」
「ああ。後で買ってくるよ」
航太は一向にこっちを見る素振りすらなく、ガイネンと遊びながら言った。本当にわかっているのだろうか。
ガイネンは排尿も排便もする。そりゃそうだ、食べるんだから、出るものも出る。初めは、床が不自然に濡れていたので何かと思った。トイレに行って行儀よく自分でするほどの知能は持ち合わせていないみたい。
多分、航太はそれを知らない。未だに妙な形をした猫だと言っているから、排尿、排便くらいはするとは思っているだろうけど、ガイネンの糞の色が何色かは知らないはずだ。
狭い居間ではしゃぎまわる航太が、床に転がるエビフライを模したぬいぐるみを邪魔っけに蹴った。
「邪魔なら片付けたら?」
言葉が、こぼれた。
「邪魔? 何が?」
「床のおもちゃ。ガイネンが吞み込んじゃうと危ないから片付けてって」
「いや、だから、邪魔って何のこと?」
「今おもちゃ邪魔そうに蹴ってたから」
「別に邪魔なんて思ってないよ。足に当たっただけ」
航太はしゃがんで、ガイネンの両頬に当たる部分を揺らしながら「主語がないとわかんないよねえ」と甘ったるく語りかけた。ガイネンは言葉の意味をわかってかわからずか、キャッキャと明るく返す。
おもちゃはそのままだ。私の伝えたかったことが、宙に浮く。
「そういやさ」と、やっと航太が私の方を向いた。
「ガイネン、そろそろ寝る時間じゃないの?」
ガイネンは二一時には眠りに就く。当然、私だってわかってる。
「そうだよ。だからクッション整えてたんでしょ」
「整った?」
「うん、もうとっくに」
「じゃあ寝させなよ。言ってくれなきゃ俺延々に遊んじゃうよ」
航太がガイネンを抱えて「今日はおしまいな」と微笑んで続ける。
意識とは別に、航太への口調が嫌味ったらしくなってしまう。わかってはいるのだ、仕事帰りでへとへとの航太よりも、仕事を休んで日がな一日家にいる私が床を片付ければいいってわかっている。防水シーツだって、ちょっと家を空けて私が買いに行っておけば済んだ話だ。
でも、家にいる時間が長い、は、時間が余っている、という意味ではない。そう航太に伝えたい気持ちと、それは甘えなんじゃないかと思う気持ちとが混ざり合って、こんがらがって、中途半端なまま感情がイライラになって言葉に出る。
航太がガイネンを寝床まで運んでそっと置いた。腕から離れた瞬間、ガイネンが携帯の発信音のような声を上げ出す。ピーピーピーピー。何を訴えているかはわからない。もしかしたら、私たちに何かを伝えたいのではなくて、降って来たその向こうの宇宙と交信でもしているのかもしれない。
意味はわからなくても、私たちの耳にその音が届いていることは確かだ。真夜中に声を上げることも、沢山ある。
「わがまま言うなよ、また明日遊んでやるから」
航太はガイネンの顔を撫でながら言うと、声を上げ続けるガイネンを尻目にネクタイを緩めながらそそくさと部屋を去ろうとする。
「こんな時間に遊ぶから、興奮してるんだよ」
私は団扇で緩やかにガイネンを扇ぎながら、航太の背中に投げかける。ほら、また嫌味。興奮してるかどうかなんて、私にはわからないのに。
「遊ばないわけにいかないじゃん。ガイネンがせがむから」。航太は振り向かない。
「そうじゃなくて、寝る時間直前に帰ってこないでってこと。10分くらいなら外で時間潰せるじゃん」
「お前、言ってることめちゃくちゃだよ」
振り返った航太は、私を多分、睨んでいた。ワイシャツのボタンを外しながら続ける。
「ひとりでガイネンの面倒見るの大変だから早く帰って来いって、俺、昨日言われたばっかだよ。だから無理して早く仕事切り上げて来たのに、今日になって帰って来るななんて言われても無茶だって」
自分の方がイライラを飛ばしているのに、航太のちょっとしたイラつきに当たっただけで、心が見えないところまで沈んでしまう。
どうしてこうなるんだろう。丁度いい時間に帰って来て欲しかっただけなのに。
「風呂沸いてる?」と、航太が背中で訊いた。
「まだ」
「そっか」
航太の一言が酷く落胆した声に聞こえた。私の勘違いかもしれないけど。
ガイネンは依然、声を上げ続けている。
団扇を持つ私の手はいつの間にか止まっていた。パチンコ屋が宣伝で配ってた安っぽい団扇。それすらも、重く感じた。
防水シーツを後で買いに行くと言っていた航太は、風呂に入った。彼は風呂から上がるとすぐに寝てしまう。
「あんまり根詰めすぎるなよ」
航太が脱衣所から、居間の私に大きな声で気を遣った。
何も、届かなかった。
◆
〈それでさ、チケットがちょうど二枚余ってるんだって! 友達に買ってくれないかってお願いされちゃってさ。来週の日曜日のライブなんだけど、どう? 私、払っておくよ〉
「来週は忙しいかな。ごめん」
〈あれ、日曜日休みじゃなかったっけ。誰との予定入れてんのよお〉
「誰ってわけじゃないけど、ちょっと、ね。落ち着いたらまた連絡するから誘って」
〈そっかあ。あ、じゃあ飲みは? 雰囲気いい牡蠣のお店見付けたの。しかも十八時までに入店すれば千円でワイン飲み放題! 呑兵衛二人で明日にでも突っ込もうよ〉
「明日も、ちょっと空いてないんだよね」
〈えー、明後日は?〉
「明後日も、ごめん」
〈じゃあ次いつ空いてんのよ。飲みなんて夜中だけ空いてりゃいいんだから〉
「まだ、わかんないや。ごめんね。最近色々バタバタしてて」
〈わかった。残念だけど、あんた今絶対病んでるでしょ。禁物だよ、我慢し過ぎは〉
「え、そう思う?」
〈思うよ。この電話ん中であんた、何回私相手なんかに謝ってんのよ。今まで私に謝ったことなんてないでしょうが〉
「そうかな、ごめん」
〈ほらまた! そこはいつもみたいに「謝ったことぐらいあるわ!」って突っぱねなきゃ、もう。ネガティブが口からダダ漏れ。病んでる証拠。また航太と上手くいってないの?〉
「そういうわけでもないと思うけど」
〈そういうわけ、なんでしょ。知ってるよ。今日航太、うちの猫カフェに遊び来て勝手なこと愚痴ってたもん。猫カフェ来たなら、猫と遊べよ〉
「何言ってたの?」
〈最近妙にあんたが不機嫌で気が詰まるとか何とかほざいてた。猫飼い始めたんだって? 猫に愛情いっちゃって俺の方に向いてないのかな、だって。喝入れてやったよ、「猫のせいにするな!」って。「どうせあんたが猫にメロメロになって彼女ほったらかしにしてるんだろ!」ってさ〉
「彼女って。付き合ってないから」
〈まあ不機嫌になる気持ちもわからんでもない。でも、あんたまた変な気起こして突然捨てたりしちゃダメだよ。今は一緒に住んでるんだから前よりか寂しくないわけじゃん。ちょっと猫に気がいってるくらい辛抱しないとさ。だからさ、要は自分で自分を病ませてるわけ。あんまり我慢できない時は彼氏蹴っ飛ばして「こっち見ろ」って怒鳴ってやんな!〉
「だから付き合ってないってば」
〈大体あんたは何でも頑張り過ぎ……あれ、キッチンタイマー鳴ってない? ラーメンでも作ってるんでしょ。こんな時間に食べたら太るよ〉
「ああ、うん、気を付ける。ごめん、明日早いからそろそろ切らなきゃ。じゃあね」
〈また謝ってる! もう私に謝るの禁止ね。ホント空いたら連絡して――〉
携帯電話越しの声を聞き終える前にそそくさと電話を切って、泣いているガイネンの元に駆け寄る。友達の耳には、ガイネンの泣き声はキッチンタイマーの電子音に聞こえるらしい。
23時半を五分ほど過ぎた頃。もう少しで明日になる。
夕方に友達からLINEで電話の誘いがあった。ガイネンが来る前は、何かにつけて頻繁に飲みに行っていた友達。航太を呼び出した友達だ。
気晴らしになるかも、と誘いを受けたが、ガイネンを寝かしつけている間に疲れて寝てしまった。私から、夜なら空いていると伝えて時間を調整してもらったのに。思えば、友達からのLINEの着信音で起きた開口一番、「ごめん、寝ちゃってた」と言っていた。初っ端から謝っている。
結局、気晴らしにはならなかった。それどころか、今まで何でも話せていた友達との関係性が変わってしまったような気がして、空しさを感じた。私はこの空しさが、孤独感から来るものだと、よく知っている。
当たり前だけど、友達は何も悪くない。私から勝手に壁を作ってしまったのだ。ガイネンの面倒を見るので忙しい、と一言伝えられれば、こんなことにはならなかったと思う。でも、この世の生物かどうかも定かではない生き物に情を傾けて熱心に暮らしている、と伝えたところで信じてもらえるだろうか。また、病んでいるせいで変なものが見えていると決め付けられはしないだろうか。航太が言うように、猫を飼っているから忙しいと伝えればよかったのかな。猫カフェで働く彼女にそんなこと言ったら、写真送ってとか、家遊び行っていいとか、せがまれるに決まっている。第一、熱烈な猫トークが展開されるに違いない。それは嫌だ。付いていけないからじゃない、ガイネンを猫として扱われたくないから。絶対猫じゃないもの。じゃあ犬だったらよかったのか……いや、もう犬にも見えない。私はまた、ガイネンの姿形が何にも似ていない、『概念』のようなものとしてしか認識できなくなっていた。
ガイネンは私の腕の中で泣き続けている。理由は未だにわからない。
ガイネンが来てから2週間余り。夜中、頻繁に声を上げるようになった。その度に、わからないなりに寝かせつけた。でも、2時間もしたら、再び泣き出すこともある。
いつしか私の中では、ガイネンが眠ってくれた安堵よりも、「次はいつ泣き出すんだろう」という不安の方が大きくなっていた。
不安なら、まだある。ガイネンがサッカーボール大になって以降、大きくならないこと。航太以外の人にガイネンのことを話せていないこと。ガイネンが来てから仕事も遊びも、何なら食生活の自分の意志一つでは決められなくなったこと。そして、それらの不安の出口が一向に見えないこと。
友達の言う通り、私は自分で自分を病ませている。自分で選んだんだから。そんなのは、そんなことは、言われなくても、わかってる。
「どうにか出来ないの」
頭の中の黒いモヤモヤに埋もれていて、航太が寝室から起きて来ていることに気が付かなかった。
言葉の意味が呑み込めずに、ただ航太を眺める。航太が頭を掻きながら言った。イライラしていた。
「もう長い間一緒に暮らしてるわけじゃん。どうにか出来ないの」
「え、航太と?」
「ガイネンと。泣き声。どうにか出来ないかって」
航太は溜め息交じりで答えた。うんざりしている。多分、ガイネンにじゃなくて、私に。最近、まともに会話のやり取りが出来ていない気がする。なぜだか、航太の言葉に理解が追い付かないのだ。難しいことは何も言っていないのに。
私はまた返答できなくなってしまった。前のように、伝えたいことがあるのに伝えられない、のとは違う。ぼんやりとして言葉が浮かばないのだ。脳はあるけど、形はない、みたい。
見かねた航太は、更に頭を強く掻き回して、私の目を見ずに提案した。まるで、私を見たくないかのように。
「そういや、今更だけど、保健所には連絡したの」
言葉は浮かばない。けど、反射的に言葉が続いた。
「してない」
「明日してよ」
「なんで。一緒に暮らすって言ったじゃん。あんなに可愛がってたのになんでそんなこと――」
「あのさ」。航太が遮る。私と目を合わせることはないまま、背中を向けて続けた。
「ここ俺ん家だから」
航太が、音を立てて寝室のドアを閉めた。
腕の中で泣いているガイネンの声は弱まることも、強まることもなく続いている。
心の中に雨が降って来た。真っ黒い雨。もう私の意志では止められない言葉の雨。
ガイネンが来てから生活がめちゃくちゃだ。自分の時間はなくなるし、夜もろくに眠れない。仕事もできないから、稼ぎもない。友達にも会えない。読み途中の本はまだ読めていない。数か月前からマークしていた映画の上映期間は昨日終わった。航太には辛く当たってしまう。ご飯も味わって食べられていない。洗濯機を回せる回数が減った。床は片付けられない。お皿は洗えない。もう何日も外の空気を吸えていない。
自分が自分だったものが、全部できていない。
私はいま生きているのだろうか。
私はいまここにいるのだろうか。
今更何を言っているんだろう。母が亡くなってから私がここにいる実感なんて、一度だって感じたことはないじゃない。
世の中に必要とされていない人間だなんてわかっている。いつだって判断を間違えて、何もかも上手くいったことがない自分が、世の中に存在したことなんて一度もない。世の中に存在しないでくれって何度も言われているんだ。わかっている。わかっているんだよ。
わかっているけど、それを認めてしまったら、きっと、私は死んでしまうから。
他人よりもずっと、私は多分、死ねるタイプの人間だから。
だから数え切れないほどの恋愛をしてきたのだ。恋人がいるってことは、恋人に、恋人の中の世界に必要とされているってことだもの。でも結局、私は必要とされていないことに敏感で、少しでも心が独りぼっちになると、「彼は自分を必要としていないんだ」って、「そろそろ私を捨てる気なんだ」って、自分から恋人を切り離してしまう。それの繰り返し。だって、彼に捨てられるなんて不必要宣言を言葉に出されちゃったら、死んでしまうから。
私は恋愛に向いていない――違う、何にも向いていないのだ。
生きることにも、向いていない。
「私、ガイネンと一緒に死んじゃおうかな」
ピーピーピーピー。ガイネンは返答なく、泣き続けている。
一緒に、なんて口走ってしまった理由は、わからない。
◆
天井の一部分に集中して貼り重ねられたガムテープの端は剥がれかけていて、それを隙間風がひらひらと揺らしている。天井に空いた穴を応急処置で埋めたものだ。航太が言うには、来月に修理業者が来て補修してくれるらしい。
剥がれかかったガムテープを眺めながら、雨漏りでもしたら大変だと思うが、航太がいないと直せない。私の身長では、机に乗っても天井に届かないから。
いつの間にか、航太は家に帰って来なくなった。連絡も取れていない。猫カフェで働く友達にも聞いたけど、行方は知らないらしい。本当かどうかは定かではない。
寂しくて航太を探していたわけじゃない。ここが航太の家だからだ。だから、どうせ穴の空いた部屋をほったらかしにして困るのは航太だし、と、捜索は途中でやめた。
私は今日も変わらず、毛布の上に寝転がるガイネンに蒸かした芋を与えている。
「あっつくない?」
「☆※○△!」
相変わらず、何を言っているのかはわからない。でも、喜んでいることは伝わった。
「そう、良かった。牛乳も飲まなきゃダメだよ。喉つっかえないようにね」
ほんの少しだけ電子レンジで温めた牛乳の入ったプラスチックカップにストローを差して、ガイネンの口に向ける。喉があるかも不明なのに、言葉をかける。私はガイネンと出会った当初と比べて、日常的に話しかけるようになっていた。
ガイネンが降って来てから1か月が経とうとしているけど、まだ、話しかける見返りが何なのかはわかっていない。何なら、愛情を向ける見返りも。もしかしたら、見返りなんてないのかもしれない。でも、結果的に私はガイネンに愛情を向けている。少なくとも、形としては。苦しいことの方が多いのに。なんでだろう。
もし航太がいれば、航太に訊いていただろうか。いや、きっと訊いていない。というか、訊いてくれなさそうだ。もしかしたら、今、航太がいなくても寂しくないのが答えなんだろうか。
ああ、私の場合は、ガイネンに尽くしていれば必要とされているって思えるからかもしれないな。ってことは、自分の心の穴を埋める為に尽くしていたんだ。空しいな。
それじゃあ、恋愛と一緒じゃん。自分で自分を病ませて、自分で埋めて。
独りじゃん。結局、どこまで行っても、独りぼっちじゃん。
ダメだ、航太に戻って来てほしくなってきた。これが果てしない負のサイクルだって、何回も何回も味わってわかってるのに、全然学習しないじゃんか、私。
ほら、また私をどんどん嫌いになる。ほら、また死にたくなってくる。
涙がこぼれた。何回も同じ理由で流したはずの涙なのに、慣れない。泣くことが心の嫌な部分を流してくれるって話を、私は信じていない。それは、泣ける映画を観たりとか、誰かに嫌な話を聞いてもらった時に流す涙だけで、独りで流す涙は、自分自身を更に惨めに感じさせるだけだから。
だから、今、泣かない方がいい。でも、私の意志で簡単に止められる涙なら、今までの人生こんなことになっているわけないじゃんか。
ガイネンはとっくにストローから口を離しているのに、そのまま手を動かせない。動いているのは、涙だけ。
ガイネンが、私の頬に伝って床に落ちる涙を目で追った。私はガイネンの前で泣いている自分をやっと理解して、急に恥ずかしくなる。
「ごめん、ごめん」と、ガイネンに謝っても仕方ないのに、袖で目を拭う私の口から勝手に言葉がこぼれる。
涙を呑み込んで、ガイネンに笑顔を作って向ける。泣いていない風を装わなきゃ。
その時だった。
視界は濡れてぼやけているのに、ガイネンの顔だけははっきりと見えた。それはガイネンが示してくれた、言葉でもなくて意味でもない、愛情を向ける答え、だと思った。
やっぱり、ガイネンは猫じゃなかった。もちろん、犬でもなかった。
ガイネンの顔は、私そっくりだった。
それが、世界一、掛け値なしに世界一、愛しかった。
私は、知らない間に独りじゃなくなっていたんだ。ふたりだったんだ。
私は、知らない間に独りで頑張っている気になっていたけど、ふたりで頑張っていたんだ。
私は、こんなに、愛しかったんだ。
「頑張ろうね」
ガイネンにそう呟いた私の声は、初めて聞く声色だった。私にも優しい声が出せたんだ。
私は小さな私を腕になるべく優しく抱えて、家を出た。久しぶりの外の空気を胸いっぱいに吸い込んで、吐き出す。そして、家の中からは見えなかった綺麗な夜空を辿って、自分の家に向かって、歩いた。
私は、生きることに向いていない。
でも、ガイネンと暮らすことには、きっと、向いている。
終
☆※○△☆※○△☆※○△
【罪状】賃貸物件の修繕義務違反
アパートの大家が航太に取り合わず、天井の穴の修繕に応じなかったため。(結局航太は修繕業者を自分で手配した)
追記
収監が随分遅くなって申し訳ありません。
その間に、我が掌編刑務所が開所より1周年を迎えたそうです。
1年間も牢獄の不届き者どもを嘲笑してくださり、
誠に有難うございます。
先日、初めての出所者
(『ねむるどろ』という小説)も出て、
看守として誇らしく思っております。
ちなみに、ついこの前、
空華文学賞受賞の副賞として、
『ねむるどろ』の紙本、電子書籍がAmazonにて出版されました。
物語の内容はnoteに記載したものとほぼ変わりません(尚、現在はAmazonの規定によりnoteでの公開を停止しています)が、
あとがきと、空華文学賞の主催する文藝同人無刀会の大坪命樹さんより
解説文を書いて頂いております。
ご興味のある方は是非に。
さて、この1周年の折に、
今後について情けない報告がございます。
収監されている作品の大体は、
小説を書き始めてから今までの既存作なのですが、
そのストックが切れかかって来ました。
今残っている作品と言えば、
寒い季節の作品か、
収監するには余りにも下品な作品か、
収監するには余りにも長い作品か。
なので大変申し訳ないのですが、
11月より収監を毎週から
『隔週』
に変更させて頂きます。
では、11月まではどうするのかと言いますと……
1周年を記念して、というわけではありませんが、
既存の長い作品を6話に分けて、週に1話づつ収監したいと思います。
タイトルは『初夢なんて見ない』。
とある農家さんの中で繰り広げられる純愛サスペンス小説です。
追記なのに長くなってしまいました。
1年間も来所してくださった皆様への
感謝で結びたいと思います。
本当にありがとうございました。
これからも、
作品への天誅を見守って頂けますよう、
何卒宜しくお願い致します。
杜崎まさかず
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