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【小説】先談④ 

「私も聞いた話なんやけどね、あかねちゃんのお友達ってツグミちゃんしかおらんかったらしいんね。何かと言うとツグミちゃん、ツグミちゃんって物凄い懐きようやったみたい。それを利用して、チョウジロウさんは茜ちゃんにあめを渡したんよ。お母さんの朱子あやこに断固拒否されとった治験薬を混ぜ込んだ飴を」
 言葉が、ただの文字として、流れていきました。
 何も頭に入って来ません。何の意味もわかりません。
 茜ちゃんの声が何度も繰り返されて、脳をいっぱいに埋め尽くしていましたから。
「もう少し遡ろうかね。漢方医なんてもっと人がいる所でやった方が稼げるのに、チョウジロウさんはわざわざこんな僻地に越してきよった。その理由は2つ。ひとつは栴檀せんだんが何不自由なく大量に手に入るから。もうひとつは、漢方医界から嫌われて恨まれて、追放されて逃げてきたから。
 チョウジロウさんは栴檀の成分にようわからん可能性を見出しとった。鎮静剤に活躍する脳神経を麻痺させる成分を使えば、人が自分の感情とは別に疑ったり、不安になったり、嫌なことを思い出してしまう脳の勝手な働きを抑えられるんやて。それを薬にしたかったんよ、チョウジロウさんは。
 つまり、飲んだ人が素直になるっちゅう薬。言ったことを呑み込みやすくなる薬。物騒な言い方すりゃあ洗脳薬よ。
 漢方医でもあり精神科医でもあった彼は、患者のトラウマ治療に活かしたかったみたいやね。んで、それを実現しようとする過程で彼は漢方医界、ううん、一般社会から追放されたんよ。当たり前やんね、有志で集めた患者いえど、自己判断で治験しとったんやから。早い話が人体実験を繰り返して、追放されたんや。
 勿論、成功しとったら、精神医療の革命やからね。こんなことにはならんかったよ。でも、患者の治験結果は散々。効果は一時的なものやったのに対して、副作用が大き過ぎた。運動神経の一部が麻痺してしまったんよ。
 患者が治験を望んだことを証明する誓約書が見付かったから犯罪にはならんかったものの、医学界にはいられんくなった。それでもチョウジロウさんは、人目に付かない皮頭かわず村なんて、都会の人が誰も知らない山奥まで来て、懲りずに栴檀を研究し続けよって、完成に近いものを生み出した、らしいんね。
 そんなこと言っても、本当に効果があるかどうかは、人間が飲んでみないとわからん。そこで、なんよ。治験のターゲットになったんが、茜ちゃんやったわけ」
 思考が止まっていた私の頭が、茜ちゃん、の名前で再び動き出しました。
 ありとあらゆる負の感情が、私の目から血にも似た涙を止めどなく流させました。
「どうしてですか、茜ちゃんじゃなきゃいけなかったんですか、もっと悪い人だとか世の中にいらない人なんていっぱいいるじゃん。そいつらで実験したらよかったじゃん」
 地団駄を踏み、泣きじゃくりながら、訴える醜い私。女将さんに駄々をこねたって仕方ないのに。
 女将さんは悲しい目をして、言いました。
「世の中にいらない子だったんよ。茜ちゃんは。少なくとも、皮頭村では」
 そんなわけない。あんな無邪気な笑顔で遊んでいた子がいらないわけないじゃない。
「茜ちゃんはね、朱子あやこ紅一こういちの間に生まれた子やったから。おうちと楝の間に生まれた子やったから」
 感情のままに動く私に対して、女将さんは静かに、心の中に何もないように続けました。
「朱子と紅一は、村で唯一の理解者であるお互いを愛し合っていたんよ。姉弟やもん、嫌われもんの楝の運命を生まれた瞬間から背負わされたお互いを唯一慰め合える関係やもん、そうなるんが自然やと思わん?
 朱子と紅一は、祟りだのなんだのと、江戸時代の作り話のオカルトで村八分にされる運命を断ち切って、普通の家族になりたかったんよ。姉弟やけど、子供と家族3人、平凡な暮らしをしたかったんよ。
 でも、子供として認められなかった。人間として扱われなかった。捨てないと神社を、栴檀を燃やすとまで言われた。茜ちゃんは誰の子にもなれんかったんよ」
 誰の子でもない。
 記憶が呼び覚まされました。でもそれは、忘れていた子供の頃の記憶ではなくて、数時間前、介護施設の迎えを待つ間に母に言われた言葉の記憶。『誰の子でもないと思って』。
「だからチョウジロウさんは、誰にも迷惑をかけない被験体として茜ちゃんを見とったんよ。精神科医であるチョウジロウさんは、楝として疎外される朱子の孤独感に付け入って、近付いた。悩み聞いてもらったり、励ましてもらったり、そん時は朱子にとって心の拠り所やったかもしれんね。そんな恐ろしい下心があるなんて思ってもなかったから。
 治験の話を切り出された時は、身の毛がよだったでしょうね。勿論、それまでのチョウジロウさんの寄り添いなんて吹き飛んで、断固拒否したんよ。娘を差し出すわけにはいかんって。
 嘘ばっかり。山ほど甘い言葉垂れ流しといて、本心では楝を下に見くさってたんよ。人間だと思われてなかったんは、茜ちゃんだけじゃなくて、朱子もやったんよ。
 やけん、唯一茜ちゃんと仲良うしとった、何も知らん余所者よそもののツグミちゃんに、治験薬を混ぜん込んだ飴を渡したわけやんね。思えば、ツグミちゃんだってその頃は、どうだか。チョウジロウさんに治験のことを言われて、茜ちゃんと嫌々仲良うしとったんかも」
「そんなわけないじゃないですか」
 私は反射的に叫んでしまいました。私の中にある唯一の友達との記憶を否定されたからです。嘘だったとしても、茜ちゃんからの手紙を読んだ時に湧き上がった感動は、毒を飲ませるための魂胆があってはなり得ないものですから。
 そう、手紙。私には女将さんの唱える説を否定できるものを持っていました。治験は事実かもしれません。しかし、父は朱子さんを、茜ちゃんを人間として見ていなかったなんてことはないのです。
 私はポケットから父が『とんがらし』宛てに、いえ、裏手の楝神社宛てに送った手紙を出して、女将さんに広げて見せました。
「父が神社宛てに送った手紙です。これって朱子さん宛てに送られた手紙ですよね。どうして封筒に住所は書いてあっても宛名が書いていないのか、疑問だったんです。茜ちゃんからの手紙も、封筒に送り主は書いていませんでした。でも、話を聞いていてわかったんです。楝の名前を封筒に書いてしまうと、郵送されないからですよね。村八分にしている事実を村外に漏らしたくないから、かつての郵便局と結託して、楝が外界と連絡が取れないようにした悪習の名残ですよね。
 受け取り拒否をしたのも、朱子さんが父を恨んでいたから。でも、読んでみてください。父は朱子さんのことも、茜ちゃんのことも心から心配しています。初めに読んだ時はラブレターかと思ったくらいに、丁寧で愛のこもった文章です。これでも、父は朱子さんと茜ちゃんを人間扱いしていなかったと言えますか」
 捲くし立てて肩で息をする私の手から、女将さんはそっと手紙を取って、しばらく文に目を落していました。噛み締めるよう、一文字も読み落とさないよう、目に焼き付けるように読んでいるように私には見えました。
 どれだけの時間が経ったでしょうか。きっと、本当は長くなかったんです。でも、女将さんが手紙を読んでいる時間は、その時、永遠にも感じて。
 空いた窓から栴檀が香って来ました。甘い香り。父がまた拝みに伺いたいと書いた、楝神社の栴檀の香りです。
 女将さんは目を瞑って、僅かに手紙を持つ手を震わせて、何かを堪えました。
 そして、目を開けたのと同時に私に言ったのです。赤い目でした。
「だから何?」
 女将さんは私を睨んで繰り返します。
「だから何やの? だから許してって?」
 私は返す言葉を見付けられませんでした。
「こんな上っ面の気遣いされたって、何も変わらのんよ。半身不随になった茜ちゃんを車椅子で押して病院から帰って来た朱子の前にあったんは、村人に滅茶苦茶にされた神社よ。3日3晩泣き叫んで潰れた喉も、顔中体中掻きむしった傷も、茜ちゃんも、神社も、何も戻って来んやんか。全部医者だった紅一がいればこんなことにはならんかったんよ。でも、なった。だって紅一はあんたに殺されとったんやから」
 手紙は、女将さんが言っている最中に、丸められて、ゴミとして床に捨てられました。
 許されようなんて思っていませんでした。ただ、父は朱子さんのことを、村の偏見に囚われた楝の人間としてではなく、ちゃんとひとりの女性として接していたと伝えたかっただけで。
 そんな想いを言葉にすることはできませんでした。女将さんの言うことの方がずっと正論だから。
 女将さんが話す内に、語調は怒気を孕んで強まっていきました。
「自分のこと、情けないと思わんの? 自分から興味本位で訊いてきたくせに、話聞いたら勝手に傷付いて、泣き喚いて。良くない方向に話が行くことなんて、主人が話してた時からわかり切ってたことやないの。それでも、教えろってせがんで。そういうの、何て言うか知っとる? 自傷行為って言うんよ。傷付いた痛みで、忘れた記憶の中であんたが生きていたことを確かめたいんよ」
 そんなこと、言わないで。私だって、聞かない方がいいってわかってる。わかってたんです。
「そんなに知りたいんなら、教えてやるわ」
 女将さんは私の耳元に顔を近付けて、声量を変えずに言いました。汗でマスクのゴムの匂いが際立っていました。
「あんた紅一に何度もレイプされてたとかほざいとったね。何度もって何? レイプなら何で一度目で逃げんかったの? 答えははっきりしとるやろ、あんたが紅一を誘ったんやろ」
 私が。紅一を。誘った。その言葉は、私の農機具倉庫での記憶の感情とは一致しませんでした。だったらーー。
「だったら、殺すわけないじゃないですか」
 私の声は震えていました。
「あんた、自分が頭おかしいことに、まだ気付かんの? あんたは紅一に犯されることで心の穴を埋めてたんよ。股を開けば簡単に愛される、そのカップ麺みたいな即席の愛情で寂しさを紛らわせてたんよ。ろくな親やなかったんやろうね、娘を愛情不足の果てにバイタにしよるくらいやもん。頭のおかしいあんたは、満たされたら、それでポイなんよ。本心では楝を気味悪がってたんやろ。紅一で穴が埋まらんくなったら、カルト教のおっさんとしか見えんようになったんやろ」
「違います!」
 考える前に、言葉が放たれました。私の中の何かが、違う、と言わせたのです。
 しん、と空気が張り詰めると、そのまま時間が凍って、女将さんは動かなくなりました。マスクの穴から見える眼光は、私を捕らえて離しません。
 ウーロン茶が結露したその水滴が溜まって、カウンターから滴りました。
 ご主人のいびきが、感情を乱暴にかき混ぜたその轟音に聞こえました。
 自分が何に対して涙を流しているのか、わかりませんでした。
 女将さんは強張った肩を下ろして、言いました。
「冗談よ」
 緩やかにカウンターに身を任せて、腕を枕に顔を私に向けたままうつ伏せになる女将さん。長い溜め息をついて続けた女将さんの表情は、マスク越しにも穏やかなものだとわかりました。
「長い冗談よ。ごめんね、ツグミちゃん。田舎じゃこんな遊びしかできんのよ。ぜーんぶ冗談。だって、私、余所者よそものやもん、知らんもん」
 女将さんはうつ伏せのまま、皿から冷め切った串を取って、食べることもなく回して遊びました。
「全部作り話やけん。でも、退屈しのぎにはなったでしょ」と、串を見ながら笑いかけました。
「あ、でも、串が鶏肉なのはホントよ。蛇なんか焼いとらんからね」
「じゃあ、あなたは誰ですか」
 私は女将さんが言うところの冗談の中で、女将さんに対して思うところがありました。本当は、女将さんは余所者ではないんじゃないかって。
「私? 私は『とんがらし』の主人の妻よ」
「そうじゃなくて、名前です」
「名前なんて聞いてどうするんよ」
「教えてくれませんか」
 私は意図せず問い詰める口調になってしまいました。それを聞いたからって、安心できることは、何一つないんだけど。
杜崎もりさきです」
「え」
「杜崎まさ子です」
 それってーー予想と異なる名前を返されて戸惑う私を尻目に、女将さんは身を起こして、窓の外の方を向きました。
「雨、降っとるね」
 女将さんはゆっくり立って、遅い一歩一歩を踏んで、窓を閉めました。
「夜の山道で雨に降られたら危ないけん、ぼちぼち帰った方がええかもしれんね」
 女将さんがそう背中で言うと、換気扇も止めました。具合の悪そうな音を鳴らして、換気扇の羽が止まります。
「古い店やけん、雨が換気扇から吹き込んで来るんよ」
 私が訊く前に、女将さんが言いました。
 一刻も早く店から出たいと思ってはいましたが、女将さんも私を帰らせたかったようで「会計はいらんからね」と言ってウーロン茶と串の皿をカウンターの向こうへ置きました。
 血圧が上がったからか立ち上がるとよろけましたが、女将さんが支えてくれてそのまま二人で、私は杖を片手に、女将さんは懐中電灯を片手に店から出ました。
 引き戸をぴしゃりと閉め、鍵をかけます。
店を出ても、夜の色は変わらず黒のまま。栴檀の香りは店の中に長くいたせいで、一層濃く感じました。
 変だったのは、雨が降っていなかったことです。一滴も。降った形跡すらありませんでした。
 女将さんが先導します。私はゆっくり着いて行きますが、鷹の剥製に足を取られてしまいました。「大丈夫?」と咄嗟に私を支えてくれたお陰で転ばずに済みましたが、私が「すみません、大丈夫です」と返しても女将さんは動きませんでした。
 ボロボロの、鷹の剥製の取れかかった首を見つめています。そして、何かを込めるようにゆっくりと、鷹の頭に手を乗せ、掴み、ぐいぐいと何度も引っ張り回して、千切りました。
「ご主人に怒られますよ」
 あれだけ奇怪な光景を目にした後だったのに、私はそんな忠告をしてしまいました。脳が疲れていたんだと思います。
めくらやもん、わかりゃせんよ」
 女将さんは千切れても尚鋭く虚空を睨む鷹の頭を地面に放り投げました。
 盲。女将さんは、盲、とそう言いました。ご主人が朱子さんに対してカタワと罵ったように。
 懐中電灯の光を先に、神社の脇道を通って、駐車場に向かいます。
 やっぱり、耳を澄ますと声が聞こえました。唸り声のような、人ともつかないような声。
「茜ちゃんが薬を飲まされたって話も嘘だったんですか」と、女将さんに確認したかったのです。でも、声に出す勇気が出ませんでした。返答の次第では、私が茜ちゃんを壊したことになってしまうから。
 他の言葉を探している内に、女将さんが歩きながら小さく言いました。
「主人が言ってた祟り、全部嘘やからね、気にせんでね」
 振り返った女将さんの表情は、黒いマスクが更に暗闇に隠され、何も見えませんでした。
「一度も祟りなんか起きたことないんよ。主人が言っていたんは、ただの老衰とか、猟の事故死とか、持病が悪化したとか。祟りやないんよ。全部楝のせいにされていただけなんよ。元々限界集落やったけん、村人は十何人しかいんくて年寄りばっか。急に何人も亡くなってもおかしくない村なんよ」
 そう言われて気が付きました。そういえば、この辺りには人家らしいものは見当たらず、他の村人も見ていません。
「今、村には何人くらい住んでるんですか」
「私と主人だけよ」
 皮頭村は何年も前に廃村になったそうでした。私が村から出て10年も経てば、元々限界集落だったとしたら、村人がご主人と女将さんだけになっていても不思議ではありませんでした。
 店から駐車場までの長い道のりは、店での嵐のような出来事を踏まえると、一層応えました。ようやく車にたどり着いた時にはへとへとで。
 運転席のドアを女将さんが開けてくれました。「ひとりで駐車場から出られるかしら」との気遣いを単に優しいとは、もう取れませんでした。
「平気です」と、答えて私は目を見ずに車に乗り込みました。
 ドアを閉めると、レンタカーの車の匂い。栴檀の香りから逃れた匂い。
 疲れが心に重くのしかかり、紅一にレイプされかかり撃ち殺した記憶、茜ちゃんに治験薬入りの飴を渡した記憶、母が「誰の子でもない」と言った記憶、全てがごちゃ混ぜになって脳の中で蛇のようにとぐろを巻きました。そして、それら全てが冗談だと否定された感情が降りかかります。
 何も食べていないのに、胃から熱いものがこみ上げる感覚。
 私は、店に来た時に女将さんが渡してくれたお守りの包みを開きました。中に胃に効く漢方薬が入っていると聞いていたからです。
 何も考えていなかったのでしょう。何も考えられなかったのでしょう。今だったら、あんな話を聞かされた後に、お守りを開けて薬を飲もうなどとは絶対にしません。でも、思考が停止していたんです。
 包みを開けた途端に、濃厚な甘い香りが車中に充満しました。それは、バニラにも似た香りで、外の香りを何倍も濃くしたようなものでーー。
 粉薬の下、包み紙に黒字で書かれた文字が目に入りました。
 女将さんが本当は誰だったのか、その答えを示す言葉です。
 女将さんは、闇と同化した顔で、私に手を振り続けていました、さよならと。
 
 紙に書かれた言葉は、たった一言。

『死ね』。



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