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これからの失語症友の会のことを考えています-その2

 かつては全国規模で活動していた失語症友の会ですが、今は元気がありません。元気のない理由のひとつは、2000年から始まった介護保険にあると言われています(「失語症友の会の加盟団体数の推移とその関連要因の検討」原山 秋・種村 純, 2020)。

 介護保険自体は、将来の高齢化社会を見据えて導入した国の制度です。高齢化社会の面倒を社会全体でみようというのです。何も悪くありません。第一わたしは面倒をみてもらう年齢ですから、納税者に感謝こそすれ、この制度を悪く言う筋合いではありません。しかし「失語症者」というもうひとつの立場に立って(わたしはマヒと失語が残る障害者です)介護施設や介護サービスを見てみると、言語聴覚士の数が圧倒的に足らない(日本失語症協議会, 2020「循環器病対策推進協議会付属資料」)という事実が見えてきます。あるいは「数が足りない」ということはないのだろうが、言語聴覚士の存在が有効な言語リハビリテーションに結びついていないのかもしれません――当事者としては、どちらでも同じことです。

 なぜ介護施設や介護サービスの場で言語聴覚士が足りなくなるのでしょうか。それは介護保険点数が付くためには1対1の対応、つまり言語聴覚士ひとりに対して、リハビリテーションを受ける人も一度に一人でないといけないと決めてあるからだそうです。集団でおしゃべりをする言語のグループ・リハビリテーションでは、いくらその場に言語聴覚士がいても、介護保険からお給料は支払われないのです。

 なぜ集団で行う言語リハビリテーションがだめなのかは不思議な気がしています。たぶん点数の計算に支障が出るからなのでしょう。理学療法士や作業療法士は1対1で訓練するのが基本です。言語聴覚士もそれに倣(なら)えということだと思います。言語リハビリテーションなどと大袈裟に言わなくても、おしゃべりなんて仲間内で勝手にやればよいではないか……、この制度を考えた人はそう感じたのかもしれません。

 でも集団でやるおしゃべりは、いろいろな効果が期待できるのです。思い付くままに挙げてみます。それは (1) いろいろな人のおしゃべりを聞いていれば、おのずと理解する訓練ができる。(2) 自分のおしゃべりが皆に伝わるかどうかを確かめることができる。(3) 伝わっていないと感じたら、言い方を変えてみることができる。それに、 (4) 皆、失語症なのだから、言葉が出て来なくても臆することはない。その上、 (5) ノドや唇など発声の訓練にもなるといったことです。

 そのため介護保険とは関係のない市民団体「失語症友の会」の存在はとても大きいのです。集団でやるおしゃべりが誰に気兼ねすることなくできるのですから。

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 失語症というと片マヒのある方が結構います。片マヒになるとお風呂が大変です。湯船につかるのが大変なのです。ひと仕事になります。ひとりで湯船につかるために、どんなテクニックがあるのかは人によって違うでしょう。ここでは、わたしの入り方を紹介します。

 まず湯船の外にある手すりにつかまって自由に動く方の足を湯船につけます。続けて手すりを持ったままマヒした側の足を湯につけます。そして自由に動く方の手で湯船の側の手すりを掴み、その腕に力を入れて身体を沈めます。こうして全身がお湯につかります。

 十分暖まったら、今度は湯船を出ないといけません。湯船から出るときは、まず自由に動く方の足で湯船の壁を蹴って足を縮めます。そしてもう一度自由に動く方の手で湯船の側の手すりを掴み、その腕と縮めた足に力を入れて身体を浮かせます。自由に動く足が正座のような状態になっていれば、力を入れることができます。こうすれば立ち上がることができるのです。

 この「技術」は、自由に動く手や足の側に手すりがないと成立しません。わたしは右側の片マヒですので左の手すりで用は足ります。しかし、一般の方が利用する共用のお風呂ではどちらのマヒか分からないので、結局、両側に必要なことになります。

 わたしが介護施設に勤める看護師から聞いた話です。片マヒになって自由にお風呂に入れなくなったために、風呂代わりに介護施設を利用する女性がいました。

 その人は大変重い片マヒ――脳梗塞や脳卒中になると、ダメージを受けた脳の反対側がマヒすることがよくあります。そのようなマヒを「片(へん)マヒ」と言います――があります。施設には入浴のサービスを受けるために通っているようなものです。女性には言葉の障害もありますが、その施設で言語リハビリテーションは受けられません。それでしかたなく、入浴のためだけに通っているのです。

 その施設に言語聴覚士がいたら、きっと言語リハビリテーションも受けていたでしょう。でも言語聴覚士は配置されていません。もしかしたら言語聴覚士が配置されていない施設の方が多いのかもしれません。

 言葉のリハビリテーションは、多くの人が想像しているよりも年月がかかります。それは何か月で終了などという問題ではありません。何年もかかるのです。その上、継続的にリハビリテーションを続けていないと、言葉の能力もあっという間に衰えてしまいます。「廃用症候群」というやつです。

 元気な失語症者なら、失語症を気にせずの社会に出て、いろいろな場面に遭遇してみればよいのです。しかし、すべての失語症者が元気なわけではありません。

 さあ、どうする。

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 ことによったら「失語症友の会」という呼び方は変えた方が良いのかもしれません。

 今までの「失語症友の会」は、まず言語聴覚士が核となって失語症者が集まり、ボランティアの言語聴覚士が補助をすることで成り立っていました。失語症者ばかりが集まれば、集団のおしゃべりのところで書いたように、気楽に「(4) 皆、失語症なのだから、言葉が出て来なくても臆することはない」のです。「失語症なのだから、言葉が出て来なくても臆することはない」というのは、元来、社会に備わっていなければいけない余裕のはずです。相手の言葉が出にくくても、言葉を待ってから、ゆっくりと会話を続ける。そういうゆとりが必要なはずなのです。ところが世の中には、言ってみれば「ギチギチに巻いたバネ」ばかりが目立ちます。そんなシステムでは、いつか壊れて、はじけ飛んでしまいます。さらに言うと地域社会には「競争社会」のような苛酷な非人間性が、本来、求められているわけではないのですから、「社会に備わっているはずの余裕」も取り込んでいく時間はたっぷりとあるはずです。

 「失語症友の会」という呼び方を変えてみたら、どんなことが起こるでしょうか。

 まず(医師などの医療者が「失語症」と呼ぶことにした、その実、多様な存在である)「失語症」以外の障害者も参加するようになります。すると一緒におしゃべりが楽しめるようになります。もともと失語症者には高齢者が多いのですから、高齢の認知症者も一緒におしゃべりを楽しみましょう。そう言えば自閉スペクトラム症といった発達障害の人も喋ることが苦手です。発達障害者も入ってくれたら嬉しい。

 聴覚障害者の参加には、もともと失語症者には聞いて理解する認知能力の低い人が多いので、違和感は感じないでしょう。視覚障害者も完全に見えない人は耳の感覚で、少し見える人なら配るプリントの字を大きくする気配りで、同じ席に着けそうな気がします。

 障害者とは違うのかもしれませんが、高齢者にも参加を促してみたらどうでしょう。だいたい高齢者になったら、(大っぴらに言わないだけで)何かの障害を持つ人は多いのかも知れません。

 「失語症友の会」で失語症の人だけで集まっていると、つい他の障害者に対する気配りが疎かになりがちです。わたしは列車に乗っていて、後から来た失語症者が優先席に座っていた他の障害種別の人を追い出した場面を見たことがあります。この時、わたしは何ということをするんだと怒ってしまいました。その失語症者は、自分に非があるとは夢にも思わず、日常的に同じようなことをしていたのかもしれません。

 失語症の人に限らず、同じような属性を持つ人が集められると、同様のことは起こり得るのでしょう。

 世の中には女性であったり、LGBTQであったりで不当な差別を経験している人は数多くいます。シングル・マザーやシングル・ファーザーが苦しい立場に追いやられている例もたくさんあります。そして外国人だからといって不当な扱いを受けている人も多いのです。せっかく「失語症」という、失語症でない人には思いもつかない能力――失語症者でなければ文章を簡単に表現する技法は思い付かないかもしれません――を身に付けたのだから、それを社会に活かす方策を考えましょう。例えば行政文書や学級通信が小難しい言葉で書かれていたら、それを直すのが我われの役割です。それには、どのようなことがされて嫌なことなのかを想像する、他者に共感する力が必要なのです。

 その意味でも「失語症友の会」という呼び方は変えた方が良いと思います。


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