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抗がん剤治療への疑問、あれやこれや

 最初に書いておきます。2クール目の3週間に及ぶ抗がん剤治療は、思いの外、うまく行きました。テセントリク、カルボプラチン、アブラキサンをプログラムに従って点滴していくのです。このまま3クール目以降もうまく行くことを祈っています。しかし、この「プログラムに従って点滴していく」というのは、わたしにとって、スムーズの受けるには難しいところがあるのも事実です。それは、わたしには肺がんと肺炎が共存しているからです。肺がんと肺炎が共存していたらどんなトラブルが起こると考えられるのでしょうか。今回はそれを説明します。

① 痰や咳は出続けているのに白血球数は正常値の不思議

 最初は肺がんなどとは想像すらできませんでした。それでもコロナ・ワクチンを打ったり、東京に出張しただけでコロナ陽性になるのです。そんな時はしかたなく肺炎で一週間ほど入院したり、少しきついレボフロキサシンという抗生剤を処方されたりして直していました。しかし「コロナ陽性」とはいうものの、現実にはウイルスが悪さをしているのではなく、コロナとは関係ないのに陽性の反応が出てしまう擬陽性のようなものでした。病院では、何か他の感染症の可能性もあるので、それを見極めるために一週間ほどの入院が求められるのでしょう。そして肺炎の症状がなくなった時、入院解除となるのです。肺がん(わたしの場合は肺腺がん)と指摘されるまでの生活です。

 ところがバイオプシー(生体組織採取検査)で肺がんが見つかり、覚悟を決めて抗がん剤の治療を受けるようになると、一番最初に感じたのは、がんに対する薬効ではなく抗がん剤の副作用でした。髪の毛が抜け始め、お腹の調子が悪くなり下痢をする、しゃっくりが出続ける。そしてベッドから立てなくなった顛末は「わたしの抗がん剤治療は皿田キノコちゃんの三輪車を漕ぐ音から始まった」に書いたとおりです。

 抗がん剤を受けるには、白血球や、中でも白血球の一種、好中球が健康な人と同じように生産されていることが前提となります。肺炎は細菌に感染してなるのが普通ですから、白血球や好中球が増えるそうです。そのために「健康な人と同じ」ようには見えないのです。ただ、わたしは咳が出るからといって、白血球や好中球の値が基準を外れることはあまりありませんでした。咳き込んでいても、血液検査の結果は肺炎の症状とは無縁のようなのです。どうしてなのでしょう。不思議です。

 わたしは医療関係者ではありませんから理にかなった説明はできませんが、肺炎のように見えるレントゲン写真の陰も、実は肺がんがそう見せているだけかもしれません。実際にレントゲン写真ではそう見えてしまう腺がんがあるそうです。ということは、出ている咳は肺がんのせいなのでしょうか。

 この疑問は担当してくれている医師にも聞いてみましたが、医師も肺炎のせいなのか肺がんのせいなのかは、何とも言えないようでした。

② 白血球数や好中球の値が基準を外れないように抗生剤を使うのは反則行為?

 これはわたしの方から提案しました。以前、肺炎の治療でレボフロキサシンという少し強い抗生剤を一週間ほど服用し、その後続けて、クラリスロマイシン(クラリス)という抗生剤を一か月ほど服用したことがあります。その結果、一年ほどは肺炎の症状が出なかったのです。この時の経験がありましたので、わたしは単純に、一週間ほど抗生剤を飲んでみて白血球数が基準値になったところで抗がん剤の点滴を打ってはどうかと提案しました。

 この案については、当初、担当医は渋っていました。というより、今まで肺炎と肺がんが共存する患者を診る経験がなかったので何とも判断がつきかねるというところでしょうか。困ってしまったというのが本当のところかもしれません。担当医はレボフロキサシンが耐性菌、つまり特定の細菌に薬が効かなくなることがよくあるので注意が必要ですよと答えました。

 この答えを聞いて、それでは一か月ほどかけて徹底的に肺炎を直してから、がんの治療を始めるという案はどうでしょうと重ねて聞いてみました。しかし、この案は即座に却下されました。わたしは肺炎と肺がんが共存しているので、肺炎を単独で直すこと自体が難しいと言うのです。

 それなら仕方がありません。一週間ほどの間、念のために少し強い抗生剤を出してもらっておいて、風邪か何かで細菌の感染が疑われるのならすぐにその抗生剤を飲み、白血球数が基準値になったことを確認してから抗がん剤を点滴してもらうというのが現実的だと思います。

 わたしは肺炎と肺がんが共存するやっかいな患者です。何とか対処する方法を見つけてくれるものと信じています。

③ 抗がん剤の治療は始まって脈拍が100 bpmを越えるようになったが大丈夫?

 抗がん剤の治療が始まるまで、わたしの脈拍は一分あたり70回より少し多いという程度でした。70 bpm+アルファということです。わたしが血栓を予防するためにシロスタゾールという抗血小板剤を毎日服用しているために脈拍が高めに出るのです。シロスタゾールを服用する前は60 bpm+アルファが普通でした。ところが抗がん剤の治療は始まってからの脈拍は、常に100 bpmを越えるようになったのです。

ゾウの時間ネズミの時間』という本があります。本川達雄さんがお書きになりました。この本によるとハツカネズミの脈拍はとても早くて、600 bmp~700 bmp、つまり0.1秒で一回打つが、ゾウは20 bmpほどで3秒に一回と遅くなるそうです。そして、生涯、どれほど脈を打つかはハツカネズミもゾウも変わらない。脈拍に合わせてゾウの時間はゆっくりと流れ、ハツカネズミの時間はすばやく流れるというのです。一生の心拍数が決まっているならば、物理的な時計の刻む時間よりも自らの体内が打つ心拍数が大切なのです。ゾウもハツカネズミも一生の心拍数を打ち終わったときに満足して死を迎えるのかもしれません。

 そう考えると、わたしの脈拍が抗がん剤の治療と共に100 bpmを越えるようになったのは、物理的な時間が短くなったわけですから、何だか損をしているような気もします。でも一生の心拍数を考えると、60 bpmでも100 bpmでも、どちらでも同じだとも言えます。ちなみに人間が一生の心拍数を打ち終わる時というのは、物理的な時間でいうと26年だそうです。わたしなど、とうの昔に一生の心拍数を打ち終えているわけです。この事実を知って、あまり文句は言うまいと決心しました。

 それにしても抗がん剤の点滴と脈拍の間に関係があることは間違いなさそうですが、いったいどういう関係にあるのでしょう。これもよく分かりません。

3クール目以降の抗がん剤の点滴

 不安です。まず今回、抗がん剤は打てるのかという不安があります。打てたら打てたで、今度は、はたしてこの抗がん剤は効いているのかという不安が頭をもたげます。しかし、その不安はわたし自身の「死」に対する不安の表現です。ここでひとつ大事なことを思い出しましょう。それは「生き物は死を避けられない」「人は死をまぬかれない」という事実です。

 井上平三さんという、朝日新聞で学芸部の記者をやっていた方がいらっしゃいました。今、過去形で「いらっしゃいました」と書いたのは、もう亡くなっているからです。がんでした。

 井上さんは岩波書店から『私のがん患者術』というブックレットを出しています。そして内容に学芸部記者の力量が現れています。がんになってからも家族の間の約束事は、厳しく自分に課していました。例えば、朝食のコーヒーは井上さんの担当でしたし、朝のゴミ出しも井上さんの担当でした。そればかりではなく、排尿に失敗して下着とズボンを取り替える話や、夜寝るときに紙おむつが欠かせなくなった話が書いてありました。井上さんの日常を具体的に晒しているのです。でも、ごく自然に読めます。一読者としては読んでいて安心です。この「日常を具体的に晒」すという行為は、訓練を積まないとなかなかできるものではありません。実はわたしの「成人用おむつ」のくだりも、井上さんの真似をしたのです。

 その井上さんの『私のがん患者術』の中に「私のがん患者術 十か条」がありました。次の十か条です。

1 人生観を変えて治療にのぞむ
2 がん告知されたら再発を覚悟する
3 気持ちのコントロール術を覚える
4 医師や医療を過信しない
5 痛みや苦しみは大げさに伝える
6 治療記録を克明に付ける
7 治療法や薬の情報を得る
8 高価すぎる民間・代替医療には注意する
9 家族や周囲への気兼ねは禁物
10 あしたへのささやかな目標をつくる

この十か条は、どれも自分の命と向き合ったものです。そして自分の命の有限さを知り、それを受け入れたということです。ノンフィクション作家の柳原和子さんが書いた井上さんへの追悼文「『患者であること』の力・意味」という一文があります。その中の抜粋です。

「いかに死という異文化と出会い、受容していけばよいのか? 残していく家族、恋人、友人たちへどう交流していけばよいのか? という患者がもっとも求めている実用記事はきわめて少なかった。そこに、井上さんの長い学芸部記者歴が、活きた。」

『私のがん患者術』p. 69

 柳原さんは1997年にがんが見つかり、寛解と再発を繰り返して2008年に亡くなりました。普段、自分が死ぬことは忘れて生活しているのだが、がんに罹るということは、例え寛解していても再発の可能性が常にあるのです。井上さんや柳原さんが辿ったように、自分のがんに驚き、何とか平常心を保ち、自分の命の有限さを知り、それを受け入れる。受け入れるまでの過程は誰も同じようなものだと思います。

 柳原さんの文章でわたしが気になったのは、「いかに死という異文化と出会い、受容していけばよいのか?」のところです。「死」は誰にとっても未知の経験です。その「死」に出会うというのは、どういうことでしょう。それを表すのが井上さんの言い方では「がん患者術」であり、柳原さんの言い方では「がん患者学」です。そして、わたしの目の前に広がる地平では「医療人類学」ということになります。これらはどれも同じものだと思います。何故かと言うと、皆、同じものにこころを奪われ、皆、同じものから真理を捜そうとしているからです。

 だとすると、わたしは決して「死」を恐ろしいものなどと考える必要はないのです。

わたしの抗がん剤治療は皿田キノコちゃんの三輪車を漕ぐ音から始まった
https://note.com/gorilla0907/n/nfa74971c31d6
心情的には「死ぬ」と「生きる」の狭間をうろうろ
https://note.com/gorilla0907/n/nefaffe40654f
『がんばれカミナリ竜』
https://note.com/gorilla0907/n/n782c65ab641d


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