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あくまでポジティブに「死」の前の「生」を考える
免疫チェックポイント阻害剤は利かなかった
メメント・モリ(mementō morī)という言葉があります。ラテン語の警句で「死を忘れるな」という意味です。「どうせ人はいつか死ぬのだから、生きている今を目一杯楽しもう」と解釈することもできます。しかし、何年先になるのか分かりませんが、歳からいってもわたしには死のカウント・ダウンが視界に入ってきました。「今を目一杯楽しもう」などと脳天気なことは言っていられません――少なくとも、わたしには脳天気に聞こえます。「今を目一杯楽しむ」よりも、いかに「死」までの時間を充実した「生」にするか。これがわたしにとってのメメント・モリなのです。
わたしは免疫チェックポイント阻害剤に効果があるらしい(「わたしには免疫療法が効きそうだ」)と書きました。テセントリクという名前の免疫チェックポイント阻害剤で確かに一時はがんが小さくなり、効き目があるかに見えました。しかし、その後、わたしのがんは増悪(ぞうあく)したのです。増悪とは病状が悪くなることです。これには参ってしまいました。
以前も書きましたが、わたしは肺がんと共に肺炎を併発しています。ですから、がんのようすを見ようとしても、肺炎の陰が邪魔をして見えないことがあるのです。そのため、今回は主治医と相談して抗生物質を服用し、肺炎の陰が写らないようにしてみました。その上で、もう一度見てみました。それでもやっぱり陰はあったのです。がんの増悪に間違いありません。
わたしにはテセントリクが利くのではないか。そう思っていた間、免疫チェックポイント阻害剤で対処した人の長期生存曲線を調べてみました。すると高齢者では、多くの人がかなり長く生きたことが分かりました(「肺腺がんについてのありがたいニュース」)。わたしも免疫チェックポイント阻害剤で長く活動できるのではないか。その期待がありました。しかし、がんは増悪してしまいました。塞(ふさ)ぎ込んでしまいました。
しかし、いつまでも塞(ふさ)ぎ込んではいられません。次の選択肢を考えましょう。
わたしの場合、免疫チェックポイント阻害剤はだめだと分かったので、差し当たっての標準治療では、もう一度、抗がん剤を化学療法から選ばなくてはなりませんでした。主治医が提示した複数の選択肢からわたしが選んだのは、ペメトレキセド、通称アリムタという抗がん剤です。抗がん剤は普通の細胞よりも細胞分裂が活発なことを利用してがん細胞を見つけます。がん細胞を見つけたらDNAやRNAの合成を妨害したり、細胞分裂の邪魔をしてがん細胞を狙い撃ちにします。アリムタは葉酸代謝酵素を阻害することによってDNA合成を阻害するのだそうです。
葉酸はビタミンB群の一種で、体内ではアミノ酸合成に必要な物質です。葉酸が不足すると血球合成に障害が起こります。またビタミンB12が不足しても同じことが起こります。わたしはアリムタを点滴する1週間前からビタミンB12の筋肉注射を受け、毎朝、黄色い粉薬の葉酸を飲むように指示されました。
新しい抗がん剤アリムタが点滴できるかどうかは、今までの抗がん剤と同じです。血液検査の結果で決まります。抗がん剤の点滴を受けると白血球数、中でも好中球の数が減少しがちなのですが、この数が一定以上ないと点滴は受けられません。わたし自身が副反応が強すぎて異常な経験をしたこともありました(「わたしの抗がん剤治療は皿田キノコちゃんの三輪車を漕ぐ音から始まった」の中の「わたしの骨髄が自前の白血球を生産できなくなった」を読んでみてください)。副反応が強すぎて死んだ人がいるそうです。血液検査は重要です。
血液検査の結果、一回目のアリムタは、無事、前に作っていただいたCVポートから体内に治まりました。CVポートというのは「皮下埋め込み型ポート」のことです。安全に点滴をするための医療具です。わたしの白血球数や好中球数が一定以上あったのは幸運でした。しかし、アリムタの経験は、まだ一回しかありません。どんな副反応が出るでしょうか。薬剤師の話によると、アレルギーや消化管の反応に注意しなければならないそうです。
その後、脳への転移も調べてもらいましたが転移はありませんでした。ただアリムタの点滴ではしっかり副反応が出ました。しかし、今回は入院するほど重大な症状は出ませんでした。
サバイバー生存率
がん患者がどれくらい生き残れるかは、5年生存率で判断することがよくあります。5年生存率というのは「大勢のがん患者の中で、5年間、生きていた人の割合」という意味です。もちろんがんは種類によって生存率に差があります。ですから、その人がどういったがんに罹っているのかを知らなければなりません。そして通常の5年生存率ではがんと診断を受けたときからの5年間を調べます。すると、どうしても生存率は低くなります。なぜなら、診断を受けたときにはすでに症状が重くなっている人や、高齢でがん以外の病気がある人も含まれているからです。
その人たちを一緒くたに調べてみて意味がある場合もあるのでしょうが、ほとんど意味のない場合もあります。もっと意味のある統計は採れないものでしょうか。
ということで、サバイバー生存率という数値に注目してみました。
サバイバー生存率というのは、「例えば2年目や3年目に生きていた人の、その後の5年生存率」という意味です。各年には、それからの5年生存率をプロットしていきます。つまり5年目のサバイバー生存率では、実質的に10年間の生存率を測るという意味になるのです。大阪府立成人病センター がん予防情報センターの「がん情報道しるべBOOK」というパンフレットによい例がありました。下に挙げておきます。
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「がん情報道しるべBOOK:知ることで希望が見えてくる」
サバイバー生存率も、がんの種類によってずいぶん違います。例えば胃がんや大腸がん、甲状腺がんは、5年目のサバイバー生存率、つまり10年間の生存率では、ほぼ100パーセント治癒しています。ところが肝臓がんの治癒率は低く、男女どちらも40パーセントにはいきません。
わたしの罹っている肺腺がんはというと、ここでは肺がんで纏(まと)められているので詳しくは分かりませんが、5年目のサバイバー生存率では70から80パーセントとなっています。わたしの場合、タバコの影響はないはずですから(男性が少し低くなっているのは、女性よりもタバコを多く吸ったせいだと思います)、女性の80パーセントに近いのでしょう。
このサバイバー生存率は、わたしも2、3年生きていれば飛躍的に生存率が上がるということを示しています。免疫チェックポイント阻害剤はだめだったが、今はアリムタに希望を託していれば、数年もしない内に、また別のがん治療法が開発されるはずです――わたしが期待している別のがん治療法を次に書きます。
抗体薬物複合体(ADC)
それは抗体薬物複合体(Antibody-Drug Conjugates: ADC)です。以下、ADCと略記します。
ADCはがん細胞の表面にある構造を識別してがん細胞に取り込まれ、がん細胞の中で抗がん剤を放出して死滅させます。抗体と抗がん剤を人工的に結びつけたバイオ医薬品です。今までの抗がん剤と違い、理屈の上では普通の細胞に害を与えません。そして、がん細胞だけを攻撃することが期待できます。
ただし、大部分は実験室での開発段階です。もう厚生労働省に認可されたものもあるのですが、わたしの肺腺がんに利くADCは、まだ認可されていません(いないはずです)。それに実験室での開発ですから手間が掛かります。コストも膨大なものになるでしょう。商品として市場に出回るようになるには、もう少しコストを下げなければなりません。
がん細胞の中で抗がん剤の放出がうまくいかない場合も問題です。抗がん剤ががん細胞の外で放出されると、血流に乗って全身に広がります。その場合、重篤な副反応として肺毒性が報告されているそうです。これは怖い。それ以外にも血小板の減少や貧血、下痢などの報告があるそうです。
しかし、コストの問題や重篤な副反応はあるのでしょうが、これらは近日中に解消されるはずです。そう思う明確な根拠があるわけではありません。しかし、これまでの治療薬開発のスピードを見ていますと「近日中に解消されるはずだ」と期待できるのです。
わたしにとってのメメント・モリ
わたしは肺腺がんの前に脳血管障害があります。脳塞栓(のう・そくせん)症(=脳梗塞の一種)のため失語症と右の片マヒがあるのです。そのため極端に疲れると聴覚失認(=脳が音を把握できないこと)を起こすことがあります。ですから、脳梗塞や失語症、聴覚失認といった症状は、わたしにとって身近な問題なのです。その意味で、わたしが脳梗塞や失語症、聴覚失認を取り上げて議論することは「当事者研究」だと言えます。
今度、日本障害理解学会の学会誌「障害理解研究」に新しい査読付き論文「失語症者であり聴覚失認者である女性の生活世界――稀な後遺症と向き合う女性の語り――」を公開しました。失語症者で聴覚失認者である女性のインタビューという、今までは不可能だったやり取りに挑戦して、新しいICT(Information and Communication Technology: 情報通信技術)の力を借りて実現したものです。
失語症者であり聴覚失認者である女性の生活世界――稀な後遺症と向き合う女性の語り――
https://researchmap.jp/read0189214/published_papers/49217277
http://jsrikai.no.coocan.jp/img/NO_J25-4.pdf
失語症などの高次脳機能障害は、脳血管障害や頭部外傷によって発症することがある。まれに、失語症に加え、聴覚失認も併発すると、音声で話すことができず、聞いたことを理解できないという二重の障害を抱えることになる。この二重障害を持つ女性の生活世界を記述し、医療人類学的観点から論じる。調査は、2023年6月から2024年1月にかけて行われた4回の半構造化インタビューからなり、約9時間にわたってICレコーダーで録音された。インタビュー対象者が失語症であり、聴覚失認を呈していることを考慮し、女性の負担をできるだけ少なくするために、音声文字変換装置、電子メモパッド、紙のA4ノートを用いてインタビューを行った。録音は逐語的に行われ、誤った発言や事実誤認がないかを確認するために、女性本人が確認した。聞き取り調査の結果、失語症や聴覚失認の症状を十分に理解していないために、医師や言語聴覚士、あるいは一般の人々から差別を受けていることが明らかになった。地域コミュニティや市民団体は国や県のルールに縛られないため、女性の参加によって市民団体内での扱いが包摂的になる可能性がある。女性は障害を気にすることなく、ICTやその他の補助手段を積極的に使って社会に参加しようとしている。今後、女性と市民団体の相互包摂も可能だと思われる。
わたしが初めて書いた医療人類学の論文です。読んでみてください。わたしにとって重要なメメント・モリです。