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堀越喜晴さんの『世界を手で見る、耳で見る』感想

 毎日新聞出版の八木志朗さんが、堀越喜晴さんの『世界を手で見る、耳で見る』を贈って下さいました。ありがたく受け取り、拝読いたしました。ひじょうに読みやすく、一気に読んでしまいました。

 この本の副題は『目で見ない族からのメッセージ』とあります。コミュニケーション手段の差異は異文化を生きる異民族との会話を連想させます。「目で見ない族」という異民族が「目で見る族」にメッセージを送ってきた。墨字、つまり印刷された文字で書かれたこの本は、「目で見る族」が読むべき心得(こころえ)を、「目で見ない族」のお一人である堀越さんが届けて下さったのだ。この本からは、そんな思いが伝わってきました。

 堀越喜晴さんは非常勤講師として、いくつかの大学で言語学や英語、そして点字を教えておられます。

 え、点字?

 言語学や英語というのは科目名としてよく聞きます。しかし、「点字の講義」って何のこと?

 実は『世界を手で見る、耳で見る』というのは堀越さんが「点字毎日」という週刊新聞に連載した記事を再編してできた書籍なのです。そして堀越さんは全盲の研究者です。堀越さん自身が全盲ですから、小さいころから点字には親しみがありました。それで、せっかく詳しいのだからということで「点字」の講義を受け持ったとおっしゃるのです。言語学の専門家に点字の講義とは、ちょっと場違いな気がします。合理的なようでもあるのですが、もっと他の専門の課題に才能を発揮してもらえば、いい研究に結びついたような、何とも複雑な心境です。

 「点字」というのは、ぽつぽつと空いた穴の位置を指先で、時には舌さきで読み取り、意味を理解する文字の一種です。基本的には表音文字で、文節ごとに分かち書きをします。点字で書かれたプリントは、点字自体がある程度の大きさがないと読みにくいので、どうしても大きくなります。普通に印刷された文字でA4サイズに収まっているとすると、同じことを表すのに、点字ではA3サイズでないといけないということになります。

 その堀越さんは、ご自身の障害というものを次のように語っておられます。

私たちは自分の身体の障害を何と表したらよいだろうか。ある人は「個性」だと言う。またある人は「恵み」だと言う。ある人は「不自由なれど不幸にあらず」とうたう。「いやどう言ったって不幸は不幸だ」と反論する人もある。「持ち味」という、とても味わい深い言葉で語る人もいる。いずれにしても、障害はそれを得た以上は私たちにとっての常態となる。ならばそれを受けて立ち、さらに言えばそれを手玉に取って、考えられる限り最良の人格を完成し、最良の生き方を作るのに利活用しなければ損だ、ということにならないだろうか。現にそうやって、古今東西多くの人が障害を得なければ思いも寄らなかったような自らの内なる才能を開花させ、障害者でなければ得られなかったかもしれない名声を受け、障害者でなければなしえなかった社会への貢献をなしてきたのである。(「第3章_何か変だぞ_7_障害者ゼロの世界」、p. 85)

『世界を手で見る、耳で見る』

 残念ながら、障害者でありながら「考えられる限り最良の人格を完成し、最良の生き方を作るのに利活用」することのない(怠惰な?)人はいるものです。その人も、「社会への貢献」がないままに同じ障害者として扱われるという、理不尽にも思える社会のルールがあるのでしょう。いや、この理不尽なルールが「見えた」からこそ、堀越さんは「考えられる限り最良の人格を完成し、最良の生き方を作るのに利活用しなければ損だ」とおっしゃっているのかもしれません。

 そんな堀越さんを嘆かせたのが、「障害者への授業外し事件」です。わたしは迂闊にもこの事件を知らなかったのですが、ウエブで調べてみるととんでもなく有名な事件でした。

 岡山短期大学の山口雪子准教授は網膜色素変性症という病気で、少しずつ視力がなくなっていきました。それまでは山口さんの目となって講義を支えていた教務補佐員ですが、わけあって退職をされることになりました。2014年、学長からは視覚障害の支援に当たっていた教務補佐員が退職するので、山口さんも退職を考えるようにと言われたそうです。また学生の書いたレポートや試験の解答の読み上げを学外の知り合いに頼んでいたことが「個人情報漏洩」だとされました(教壇復帰をめざした山口雪子さんの裁判のその後)。障害のある人を補助するのが補佐員の役割です。補佐員を付けるのは雇い主である短期大学の義務のです。しかし、短期大学側はそのようには理解していなかったようです。実質的な障害を理由とする退職勧告です。

 さらに短期大学は「授業中の飲食、教室から抜け出すなど、学生の不適切な態度を見つけて注意することができない」ことを理由に挙げ、山口さんへの退職勧告は視覚障害者への差別ではなく、山口さんが教員としての資質と能力を欠いていたから授業を外しただけだと主張しました。

 山口さんは岡山短期大学を相手に裁判を行いました。勝訴したそうです。当然だと思います。それにもかかわらず、短期大学側からは「山口さんが担当する授業の開講はない」と通知があったそうです。

の後、裁判をしても埒が開かない障害者の就労環境について、山口さんは「障害者雇用促進法に基づく調停」を岡山労働局に申し立てました。この時は「授業をめぐって双方の主張の隔たりが大きくて調停は付きそうにない」と岡山労働局が判断し、授業以外は岡山短期大学が合理的配慮をするようにという調停案が出て、双方が折り合ったということです(視覚障害を理由に授業外し_岡山短大と准教授が調停案を受諾「授業以外では合理的配慮」)。

 「授業をめぐっては双方の主張の隔たりが大きくて調停は付きそうにない」とはどういうことでしょうか。短期大学側はあくまで山口さんに対して「晴眼者」的な授業態度を求めたということでしょうか。決着は裁判でついたはずなのに?_よくは分かりません。しかし、山口雪子さんの_researchmap_を見ると、同じ短期大学で「山口雪子准教授」ではなく、2020年5月6日付けで「山口雪子講師」となっていました(「山口雪子」)。降格ではないでしょうか。今どき、そんなことが現実に起きるんだということです。堀越喜晴さんは本の中で「『またか』と思ってしまった」とお書きです(「第7章_近頃の事件から 3 担保――壁と卵」、p. 189)。

さらに堀越さんは:

「もったいないことを!」この話を聞いて、まず私の口をついたのが、この言葉だった。この大学は、またとない教育の好機を、みすみすごみために捨ててしまったのだ。このことを通して学生たちに、人として恥ずべきことを、また守るべき最低限のモラルを、身をもって学ばせることができたはずだ。それこそが学生に担保すべき良質の教育というものではないか。しかも彼ら、彼女らの中からは、人間の心の基盤を形成するのに極めて重要な時期である幼少期の子どもたちを導く保育士が、多く育っていくのである。(「第7章_近頃の事件から 3 担保――壁と卵」、189–190)

『世界を手で見る、耳で見る』

ともお書きです。堀越さんのこの本全体に漂うユーモアと、社会的少数者の置かれた厳しい現実のギャップが、わたしにはどうにもストレスです。


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