他人による厭世観の払拭
私はどちらかというと厭世的な人間だと思う。
『こころ』の「先生」ほどではないが、明るい話題の少ない今の世を憂いているし、何より全て消去法で人生の選択しているのもその特徴だと思っている。
大きな幸せを選択するよりも小さな不幸を選択しないことに重きを置き、悲観的に人生を捉えては最悪の選択肢が現れないように行動するのが最善だと信じきっていた。
でも私はどこかでこのような特徴は、関わる人間で改善されると思っていた。
劇的な意見や経験で、楽観的になって目の前が開けるような気持ちになるのだ、と。
紆余曲折を経てハッピーエンドに向かうような、そんな漫画のような劇的な変化を自分の精神にも求めていた。
私にとってその望みは前職の先輩だったように思う。
私とは正反対の人間だった。
特別楽観的な人間だとは思ったことはないが、健全な精神を持ち、他人を思いやる心があり、柔軟な思考を持っていたが我を通す強さもあった。また社交的でもあった。
なので話す度に、先輩の意見は私にとって耳障りの良いものではなかったが、貴重な意見だと思って聞くのが好きだった。
きっとこういう人間を何人も集めて、意見を繰り返し聞いていけば、どこかのタイミングで天啓のように心に響く瞬間がきて、真っ当な人間になれると信じていた。
厭世的な自分を殺してくれると信じていた。
何度か先輩やその繋がりの会社の人間とのご飯に足を運んだ。
その繋がりで会う人すべて、積極的に物事に関わり嫌なことを乗り越えようとするパワーがあった。
皆が皆、幸せになる努力をし幸せになれると信じてやまない人達であった。また現状自分が概ね幸せであると信じている人達でもあった。
誰一人として卑屈でなく、自分の力も他人の力も信じているような人達だった。
きっとこれで私も変われる、この繋がりが私に前を向かせてくれる。
楽観的で溌剌とした人間に、世が美しく見える人間に、あらゆる善性を信じられる人間になれると思っていた。
結果的に私は何も変わらなかった。
そもそも私には「私が憧れる真っ直ぐさの根源」がどこからきているのか理解できなかったのだ。
出典の記載がない論文のように、根も葉もない噂話のように、根拠のない自信のようにしか見えず納得ができなかった。
そのため何を話しても「なぜこの人達は常に真っ直ぐ問題に向き合えるのだろう」「何を根拠に困難を打開できると信じているのだろう」「どうして自分や周りの人間を信用できるのだろう」とただ疑問が湧くだけだった。
誰の話を聞いても私のねじ曲がった思想が真っ直ぐになることはなく、むしろ眩しさの前に薄暗い感情がより一層暗さを増したように思った。
常に鬱屈した感情が横たわって頑として動かず、屈折した持論は重くぶら下がったままだった。
私の歪さが浮き彫りになるだけだった。
引っ張ってくれる人間がいれば変われると思っていた。
眩しく、憧れる人間がいれば、変わる努力をすると思っていた。
実際は話を聞けば聞くほど自分の悲観的な感性とのギャップに驚き、憧れを理解できないまま苦しむだけだった。
なんとなく『こころ』の先生の自殺を納得した。
「私」では救えない。
他人では救えないのだ。
いくら正しく眩しくあって前を照らしてくれても理解ができない。
人の本質の部分は一生変わりえない。
他人が自身の本質を脅かすことはありえないのだ。