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連載小説「Maestro(マエストロ)」①
NovelJam2024という執筆大会で描いた小説「Meister(マイスター)」と対となる小説で、稀代のバイオリニスト「ディルク・ドルン」について描かれた「Maestro(マエストロ)」。お楽しみください
「Maestro(マエストロ)」①
「あ」
天地が二回逆転した。青くて高い空と萌黄色(もえぎいろ)の芝生が交互に二度視界に入った。最後に目に映ったのは芝生の上に立つママの赤いパンプス。「ディルク!」ぼくの名を呼ぶママの声を聴いたのちに目の前が真っ暗になる。
どれくらいの時間が経ったのだろう。首と左肩の痛みで目が覚める。上半身を起き上げると、ぼくの部屋のベッドの上だった。首と左肩には湿布が貼られていた。ああ、またやられてしまったか。乗馬練習の最中に愛馬から放り出されてしまったのだ。これで三回目。基礎学校(グルンドシューレ)への入学祝いでパパに買ってもらった仔馬は、一年経った今でも、ぼくの言うことをまるで聞いてくれない。
「ノア」と名付けた栗毛の美しい仔馬。バイエルンの厩舎に預かってもらっていて、そこは自宅からは少し離れた場所にあるけれど、ぼくは毎日通って世話を欠かさなかった。でも、どうしてもぼくの言うことを聞いてくれない。またしてもその背中から思い切り放り出されてしまったようだ。頭をさすってみるがヘルメットをしていたおかげで痛みはなかった。
ドアノックが鳴り、ママが部屋に入ってくる。
「ディルク、お医者さんに診ていただいたけれど、打ち身だけで大事はないそうよ」そう言って、グラスに入ったアプフェルショーレをぼくに手渡してくれる。のどが渇いていたのでぐいぐいと飲む。リンゴの酸味と細やかな炭酸が染みわたる。人心地ついた。「ノアはキレイな仔だけれど、あなたとは相性が悪いのかもしれないわね……。もう飼い始めて一年でしょう? 手放して他の仔馬を飼ってもいいのよ」
この台詞を聞いたのは初めてではなかった。
「……うん、でもぼくはノアが大好きなんだ。ぼくがもっと乗馬をうまくできるようになればいいでしょ」
「……また、怪我したでしょう。バイオリンの練習にも支障が出るのだから、少し考えてちょうだい」
ママは落ち着いた声でそう言ったけれど、表情は暗かった。
ノア以外の仔馬なら、ぼくの同級生たちよりも上手に乗りこなせるのに……。
それから一週間後、チェリストのパパがコンサートツアーを終えてオーストリアから帰国した。演奏が成功したことで大層ご機嫌だった。ウィーンの工房で手に入れたというバイオリンをお土産にくれた。家には何十本も弦楽器があるというのに。
「ディルク、しっかり励みなさい」
パパはぼくの頭を優しくなでながらそう言った。
さっそくバイオリンの調音をして音を試してみる。軽くショスタコーヴィチの楽曲を弾いてみると、パパが穏やかな笑みを浮かべる。
「うん、ずいぶんと深みがある音が出せるようになったな」
様子をうかがっていたママが「お話があります」と、パパに声をかけ、ふたりは二階へと上がっていった。
その翌日の夕食後、ぼくはパパの書斎に呼び出される。ノックして入ると、パパは普段ほとんど観ないテレビの画面を眺めていた。振り向いてぼくの顔を見る。咳払いをしたのち言う。
「ディルク、ノアのことが好きなのはわかる。世話をするのは赦す。ただ、今後いっさい乗るのは禁止だ。理由はわかるだろう?」
ぼくは言い返そうとしたけれど、パパの目が真剣だったので何も言えなかった。ママから落馬のことを伝えられたのだろう。ぼくは音楽家の両親のもとに生まれ、将来は一流のバイオリニストになることを望まれている。裕福な家庭だけれども、望みがなんでも叶うわけではないのだ。
ぼくがノアのことを好きな理由。それは見た目の美しさももちろんあるけれど、もっとも大きな理由は「思い通りにならないこと」なのかもしれない。家庭環境のおかげでなんでも与えられるし、バイオリンも抜きんでて優秀だと言われている。乗馬もノア以外の仔馬ならば誰よりもうまく乗りこなせる。与えられたなにかではなく、ぼく自身の力でいつかノアを思い通りに乗りこなせるようになったら、どんな気持ちになるのだろう? そんなことも考えていた。
書斎のテレビから大きな歓声が聞こえる。ニュースキャスターが「ベルリンの壁崩壊」を声高に伝えている。1989年11月。まだ七才だったぼくには何のことなのかよくわからなかった。
第二話へつづく
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