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K SIDE:PURPLE 09

著:鈴木鈴

「三輪一言さん、ですか?」
 首筋の汗を拭きながら、紫は小首をかしげるようにしてそう聞き返した。
 稽古場として使っている、いつもの空き地でのことである。日が暮れて、その日の稽古もそろそろ終わりにしようかという頃合いになって、長谷が切り出したのだ。
「ああ。いつか話したことがあると思うが、俺の剣友なのだ。ひとつ、あいつに会ってみんか?」
 長谷はにこにこしながら言う。にこにこしすぎたかもしれない。紫はちょっと目を細めると、長谷に背を向けて帰り支度をはじめた。
「な。どうだ、紫?」
「特に、興味はありません」
 重ねて問うた長谷に、紫は振り返りもせずに答える。長谷の笑みがややこわばり、脇の下を流れる汗が稽古のそれとは異なるものになった。が、幸か不幸か、紫は背を向けたままなので気取られる心配はなかった。
 もっとも――紫は鋭い。長谷の真意に、すでに気づいているかもしれない。
「そうは言うが、俺ひとりが教えていたのではそのうち行き詰まってしまうぞ? 剣というものは、多くと交わってこそより広がりを得るものなのだ。おまえだって、もっと強くなりたいだろう」
「…………」
「俺も、おまえの剣才がこのまま萎びていくのを見るのは忍びない。一言は、俺の――信頼する友なんだ。ぜひともおまえの剣をあいつに見てもらいたいんだよ」
 いつの間にか、懇願するような口調になっていた。そのことをみっともないと自嘲する心は、今の長谷にはない。『マッシヴボーイズ』で飲んで以来、彼はある考えに囚われるようになっていたからだ。
 三輪一言と御芍神紫を、引き合わせる。
 そのために――自分はここに、『二番街』にやってきたのだ、と。
 紫の剣才は、長谷のそれを大きく凌いでいる。今はまだ長谷のほうが強いかもしれないが、それは積み重ねてきた経験と体格の差があるからだ。紫はこれからどんどん成長していく。遠くない将来、長谷が紫に教えられることはなにもなくなってしまうだろう。
 だが、一言は違う。あの底知れぬ男には、紫の剣才を受け止めきるだけの度量がある。長谷はそのことを確信していた。自分の人生で出くわした、2人の剣のバケモノ――三輪一言と御芍神紫は、出会うべきである。それが、長谷の出した結論だった。
 しかし、言葉を尽くして語りかけてみても、紫の背中はかたくなに動かなかった。荷物をまとめて立ち上がった紫に、長谷は半ば諦めかけたが――
「あいつの剣は、美しいぞ」
 ダメ元で口にした言葉に、紫の肩がぴくりと揺れた。
「俺が今までに見た中で、もっとも美しいものが、一言の剣だ。俺のものなど比べものにならない。あれを、おまえに一目でいいから見て欲しいんだ。たったの一目で、おまえならわかるはずだから」
 すがるような言葉に、嘘はない。真実、それはこの世界でもっとも美しいものとして、長谷の脳裏に焼き付いていた。
 あの夜、剣道場で、ただひとり舞うように剣を振るう一言の姿。
 それがあまりにも美しかったからこそ、長谷は出奔するしかなくなったのだ。
「だから、紫、ぜひ――」
 紫が、ゆっくりと長谷のことを振り返った。その表情を見て、長谷は思わず言葉を呑んだ。
 怒っている。
 言いしれぬ怒気が、不満が、苛立ちが、紫の美しい顔立ちに現れていた。この少年が、これほどまでに感情を露わにしたのは、初めてのことだった。それがなにに由来するものなのかわからず、長谷は戸惑うことしかできなかった。
「何度も、同じことを、言わせないでください」
 声を震わせながら、紫は言う。
「興味がないんです。私は。先生のもとで剣を学べれば、それで十分です」
「しかし――」
「先生も」
 紫は目をそらした。眉間に皺を寄せ、なにかを押し殺すように唇を噛む。
「先生も、私がどこか遠くに行くと、行けばいいと、そう言うんですか」
 一瞬、なにを問われたのかわからず、長谷は狼狽して聞き返した。
「な、なに?」
「みんなそうです。私がそうするのではないかと思っている。タカさんも、セイヤさんも、ミッちゃんも――サユリお姉様も。私が、いつか、どこかに行ってしまうのだと。ここからいなくなってしまうのだと」
 その言葉には、聞き覚えがあった。
 まさしく、タカさんがあの晩に言っていたことだ。紫のように美しく、才能に溢れた少年は、『二番街』などという薄汚れた場所には相応しくない。もっときらびやかな世界に歩んでいけるはずだと。
「まるでそれが当然みたいに言います。私は、そんなこと望んでいないのに。いつかきっとそう望むはずだからって、頼んでもいない先回りをして」
 それは希望だったはずだ。可能性への、未来への祝福だったはずだ。だが――
「私がそう思うのが当然だって、それがいいことなんだって、みんなが言うんです。私がここに相応しくないって。ここから、いつか、出て行けばいいって」
 紫は顔を背けている。潤んだ瞳を見られるのを恐れるかのように。
 それを見て、長谷の胸に、すとんと理解が収まった。
 ああ、なんだ。こいつは――
「紫。おまえ、自分が厄介払いされるって思っているのか?」
 紫の顔が、さっと赤くなった。図星を突かれた少年がそうなるように。
 長谷は笑い出しそうになって、慌てて己の表情筋に力を込めた。いくら朴念仁でも、真情を笑われた人間がどれだけ惨めになるかはよく知っている。そんなことをすれば、紫は自分を一生許してはくれなくなるだろう。
「違うぞ、紫。それは、違う」
 自然と、長谷は紫に歩み寄っていた。ぽん、と肩に手を置くと、思いのほか紫の肩は小さいということに気がついた。それは当たり前の、15歳の少年の肩だった。
「みんな、おまえのことが大事だからそう言っているんだ。俺だってそうだ。おまえを厄介だとか、どこか遠くに行ってしまえばいいなんて、そんなことは欠片も思っていないぞ」
「…………」
 紫は信じ切れないというように目を伏せる。
 そう思うのも、無理はないのかもしれない。
 紫は『二番街』にとっての異物だ。美しく、気高く、あらゆる才能に満ちあふれている。他の住人から好意をもって受け入れられているとしても、異物であるという目はどうにもならないだろう。サユリたちは紫のことを愛しているが、それは同胞としてではなく――翼の折れた小鳥を遇するような、そういった愛ではなかったのだろうか。
 それを、この明敏な少年がどう受け止めてきたか。理解しきることは長谷にはできない。だが、おぼろげながらも想像することはできそうだった。
「タカさんもセイヤもミッちゃんもサユリさんも、おまえに遠くにいってほしいなんて思っていない。ずっと傍にいてほしいと思っているさ」
 紫は不満げな目で長谷のことを見上げた。
「……それなら、どうして」
「傷つきたくないからだ」
 その言葉は、考えるより先に長谷の口を突いて出た。
「そうしないと、おまえがいなくなる寂しさに耐えられないからだよ。前もって準備しておかないと、いつかいなくなってしまうと覚悟していないと――いざそのときが来たときに、どうしようもなく傷ついてしまう。それを、みんな怖がっているんだ」
 言いながら、長谷は自分が微笑んでいることに気づいた。かすかなその笑みは、己に対する苦笑でもあった。
 要するに。この町の人間は、みんな長谷ほど鈍くはなかったということだ。
 憧れを抱くほど美しい誰かが、自分の傍にずっといてくれる。そんなものは夢物語に過ぎないということに、みんな気づいているのだ。
 夢が美しいほど、現実との差は激しくなる。そこから落ちたときの痛みも想像できる。だから前もってクッションを敷いておきたくなる、その気持ちは、長谷には痛いほど理解できた。
「……私は、どこにも行きません」
 絞り出した声は、少年らしい意地に震えていた。長谷は大きく、何度も頷いた。
「そうだ。おまえはどこにも行かなくていい。でも、どこに行ったっていいんだ」
「…………」
「俺たちはそれを邪魔したくないんだ。わかるな、紫?」
 しばらくの時間をおいて、紫は小さく、ゆっくりと頷いた。
「よし!」
 長谷は破顔して、自らの荷物をまとめはじめる。紫はそれを、所在なげな目で見つめていた。
「帰るか! 帰ってシャワーを浴びんとな、風邪を引いてしまうからな!」
「……はい」
「またサユリさんに飯を作ってもらうか! サユリさんの飯はうまいからなあ!」
 わざとらしい大声に、それでも紫は、くすりと笑った。
「そんなこと言ってくれるの、先生だけですよ」
「む? そうか? しかし、うまいものはうまいからな。こればっかりは曲げられん」
「もともと、曲げるところなんてほとんどないでしょう、先生には」
 そんな会話を交わしながら、2人は『二番街』を歩いて行く。なんだか憑き物が落ちたようだった。紫は15歳の少年であるという、それだけのことを思い出すのに、ずいぶん長い時間がかかってしまった。
 それでも、歩く途上で、長谷は最後にそのことを持ち出した。
「一言のことだが、な」
 紫の目が一瞬だけこわばり、しかしそれはすぐ解けた。さすがに明晰だと感心しながら、長谷は続けた。
「無理に引き合わせることはしない。おまえが望まないのなら、そんなことをしても意味がないからな。さっきの俺の言葉は忘れてくれ。だが――」
 脳裏によぎるあの夜の光景は、不思議なことに、今の長谷にはそれほど苦い記憶ではなくなっているようだった。
「これだけは、覚えておけ。一言の太刀筋は、美しいぞ」
「――――」
「美しいものを見たくなったときは、いつでも言え。紹介状は書けるぞ」
 紫はゆっくりと瞬きをする。その瞳の奥に、ある種の炎が灯ったことに、長谷は気づいた。
 にやりと笑い出すのをこらえながら、長谷はゆっくりと歩いて行く。

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