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きっと"子を成した"という感覚のような。
ある時、母がこう言ったことを覚えている。
「あなたを生んだ時に生物としての役割を全うした気がしたの。」
「子はいらない」と伝えたときに寂しげな顔をして見せた母は、確かにそう言っていた。
生物学的には男性である自分が生理痛に苦しむことはない。
お腹を痛めることも、胎児が腹を蹴ることを感じることもない。
現状では「子を持つ」という気がない自分にとって、それはなおさら未知の感情だ。
事実として矮小だ。人間一つの命の煌めきなどは。
「世界」という圧倒的な外的環境に、ぽつんと一人佇んでいた自己。
だから私たちはきっと時折に考えてしまう。
「存在の意義や意味」とやらについて。
「なぜ生きるのか?」
ー「生きているから、生きるのだ。」
「なぜ生きるのか?」
ー「増えるために、残すために生きるのだ。」
進化論も哲学も、
”わかるようで、やっぱりよくわからない”
その隙間を行き来してばかりで
だからこれまでずっと、どこかで他人の顔をしていた。
そんな自己から"何か"がまろびい出て、
世界と自分が再度繋がり直すような。
再度、構築されるような感覚なのだろうか。
創った映画の感想を書いてもらったんだ。
このタイミングでこの映画を観ることが出来て本当に良かったと思う。周りの環境も相まって立ち止まるきっかけをくれました。
映し出されるのは人と動物と大地の物語。
朝と昼と夜が繰り返されてそこには無限の時間があった。
生きとし生ける生き物たちが生きていました。
人という生き物の弱さを見つめながらケアの眼差しをひらいていくことができるのならば。
生き物のこと、植物のこと、森のこと、水のこと、大地のこと。
五感を使って感じて、感性をひらいていく。感受性を育てていく。
気が付けば涙が伝っていた。
「マルガーシ」には観察映画と呼ばれる手法を使った。
脚本を書かず、事前調査をせず、費用のすべてを自費で賄う。
参与観察に徹し、カメラを常に回す。
直観のままに編集し、ナレーションを入れない。
主観性をできるだけ排除していく。
こう感じてほしい、こう思ってほしい。
それはできるだけ映像の中に押し付けないようにしてきた。
人々に目を凝らし、耳をそばだててほしくて。
感じるものに多義性を残したくて。
でもやっぱり「自分」は消し去れなくて。
動物目線のアングル、
生業の中で、生と死の間に人がたたずむシーンへ帰結していく構成。
エンディングの「Horizon」、
そしてエンドロールの「Care For」。
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この人に観てもらえたことで、
この映画は、きっと初めてちゃんと生まれ落ち、
そして一つの役割を終えたのだと、
そんな気がしている。
そしてきっと自分は自分にしかできないことをしたのだ。
自分にしか残せない何かを この生の中で、宇宙に対して。
ちっぽけで壮大な人類史の中で。
奇跡的に生まれた変数の中で。
自分にしか創造し得ない、
自分がいなかったら生まれていない、
それはきっと 自分の存在理由に足るもので。
やりがいや経済性などどいう枠を超えた、
もっと哲学的で根源的ななにか。
きっと生物として親が子を成す瞬間に感じる達成感のような。
それはそんな崇高で生物的なものに近いのかもしれない。
轢かれて潰れた肉塊になり果てたずぶ濡れの子猫を埋めた日から、
裸足の裏を切り傷で満たしながら川のごみを拾っていたあの日から、
獣医という夢から逃げ出した日から。
肯定しようがなかった人間としての自分が、
少し肯定できる、明日を肯定して生きていこうとする
そんなエネルギーをもらうことができたような気がした。
すばらしい感想文をありがとうございました。
もっとたくさん、出会って、笑って、泣いて、残していくよ。
新たな家族を得た旅は、
人生にどんな広がりと奥行きをもたらしてくれるだろうか。
お腹の底をカリカリと掻かれるような
寂しい気持ちを押し込めて、ふっと思いを馳せるのは
予想もつかない自分の「これから」。
草の大海原で、大地をしかと踏みしめて、
全力で今を駆け往く彼らから僕が受け取ったものは、
明日を肯定していうエネルギーだった。
頑張って歩いていくから、
なぁ人生よ、一緒に予想外を生きていこうよ。
子どもたちいつしか大人になったとき
確かにそこにあった心の故郷にいつでも帰ることができるような、
童心に立ち返り、あの夏の草原を思い熾すことができるような、
そんなひととときのためにこのビデオを捧げたい。
これは、まだ見えぬ明日への
ケアであり、
祈りであり、
讃歌なのである。