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彼女たちの場合は。

※江國香織さんの「彼女たちの場合は」のネタバレを含みます。

「本」というものは、非常に不思議な存在で、ただのインクの染みが点々とついた紙の集合体というだけなのに、「言葉」と「物語」という人類史上最高の発明品によって、人の心を動かし、人生にすら、さざ波や台風を引き起こすことがある。

読みたいと思う本や、気になる作者というのが数えきれないほど存在していることに、煮え切らない、消化不良な気分になることがよくある。でも、本というのはかなりタイミングを選ぶもので、「読み時」というものが存在していると自分は考えている。それは生活の余裕だったり、経済的なものだったり、仕事やプライベートのバランスだったり、季節や天気、気候、自分の気分によるものだったりする。しかし、その理論化できないリズムの中に「読み時」は確かに存在している。今はその本を読まなくてはならない時、というような、何か。

ビジネス本、ハウツー本が好きになれないのは、この考えがあるからかもしれない。必要だから読む、インプットのために読む、今月は何冊読むー-----。
そういった「実用性」の名のもとに、効率化を求められてタスク化してしまう読書は、自分にとっては読書ではなく、作業になってしまう。自分にとって「読書」とは、非常に精神的な営みで、不可侵で排他的な表情さえ見せるある種の聖域とも呼べるような、かけがえのない瞬間だから。

久しぶりに読んだ小説は、趣味が合う友人がお勧めしてくれていて、その表紙やタイトルのセンスの良さから伝わる世界観に、「きっと大好きな部類だろう」と自分でも根拠なき自信を持っていた、それでもなかなか読むタイミングが来なかった江國香織さんの本で、アメリカという、一つの国なのに実に多様な表情を見せる土地を旅する、二人の少女を描いたロードノベルだった。

冷めていく夕飯を横目に感想を殴り書いている。
言葉は刹那的なもので、一度思いついた表現や構造は二度と出てこない。というよりかは、正確には、今その瞬間に記しておかなければ、たとえ同じ記号の羅列でも「全く意味の違う何か」になり果ててしまう危うさを持つ、というニュアンスだ。一方で、夕飯は電子レンジで温めれば同じものが帰ってくるから現代は便利だ。

端的な感想と簡素に述べるのならば、旅に出たくなる本だった。

ニューヨークに暮らす従姉妹の逸佳と礼那。
17歳と14歳という二度と帰ることのない時間を生きている二人は、親に置き手紙を残して「家出ではない旅」にでた。

ストーリーを語りすぎてしまうと、これから読むかもしれない人の大切な瞬間を奪ってしまうし、要約も面倒だし、、、、
それに、気に入ったシーンを引用することが一番言いたいことを伝えてくれる気がする。

「寒いね。それに、なんだかよそよそしい匂いがする」
と。
「よそよそしい匂い?」
訊き返すと、礼那は帽子を目深にかぶり直して、
「冬の匂い?」
と語尾をあげてこたえた。
「よその街の、冬の匂いがする」

ぽってりと厚いカップに入った二杯目のコーヒーを前にして、逸佳は、これは雨やどりだ、と思うことにする。事実、雨が降っているのだし、傘を持っていない逸佳は、いまおもてにでれば濡れねずみになってしまうのだから。

クリスーーーという名だということは、さっき知ったーーーは、編みかけの何かを無造作に袋につっこみ、おもしろそうに逸佳を見ている。
「じゃあ、二人きりで旅をしてるんだね」
そう、とうなずいて、コーヒーを一口のむ。なんとなく甘くしたくなって、一杯目には使わなかった砂糖とミルクを加えた。

「オーケイ」
その沈黙を破ったのは、でもクリスの方だった。両手を一瞬ハンドルから離し、小さなバンザイみたいに上にあげる。
「白状するよ。僕はただ、グッバイを言うのが苦手なんだ。」
前を向いたままそう言った。
「だから?」
礼那にはわからなかった。お別れを言うのが苦手で、だから黙って編物?
「でも、まだお別れの場面じゃないよ?」
クリスはひっそり笑った。
「そうだね。でも、準備がいるんだ。」

逸佳にはそれは痛いほどよくわかった。逸佳自身、クリスがいなくなったあとーーーもうすぐだーーーに備えて、クリスに会う前の自分に戻ろうと努力しているところなのだ。

「雨、やまないね。」
沈んだ声で、いつかちゃんがいった。
「うん」
礼那はこたえ、さらに書く。全部書いておきたかった。ミセスパターソンがすこしずつ回復していることも、”グッド”なご近所さんのミラベルがほんとうにいい人で、会社の帰りによく病院に立ち寄ってくれることも。ここに泊まるようになってからずっといつかちゃんが料理をしてくれていることも、それがけっこうおいしいことも。書いておかないと消えてしまう。大事なことかどうかは関係なかった。むしろ、大事なことなら憶えているだろうから書かなくてもいいのかもしれず、だから大事じゃないことの方が大事で、ともかく礼那は、事実にひとつも消えてほしくないのだった。

百四十両!
ヴィクトリーパークの中腹にある階段で、礼那は目を瞠った。きょうの貨物列車は、全部で百四十両あった。凍えそうな寒さにも負けず階段の途中で立ち止まって、真剣に数えたから確かだ。

アメリカを旅した時に、貨物車両の長さに仰天した瞬間が鮮明によみがえる。
二人の経験していくすべてに、感じたこと、言ったことの瞬間すべてに、懐かしさと戻らないあの瞬間のもどかしさを思い出す。
帯の「あの日の自分に出逢える」とはよく言ったものだ。

逸佳が旅の終盤の夜行バスで熱を出した時のシーンは、ローマで体調を崩しながら深夜列車に乗ってスイスまで移動した日のことを思い起こさせた。

帰る時が迫ってくる、あの茫漠とした虚無感ですら、鮮やかに表現がなされている。

違和感、という言葉が正しいのかどうかわからなかったが、逸佳にはそれが(あるいは何かそのようなものが)あった。ニューメキシコ州に来てからというもの、どういうわけか、自分がここにいるのにいないような気がするのだ。(中略)そのせいで風景も人々も、礼那さえも遠く感じた。自分だけが時間の外側にはみ出してしまったか、逆に自分以外のすべてが現実離れしてしまったか、のどちらかであるように思える。(中略)立ち止まった逸佳は違和感の正体に気づく。ニューヨークだ。自分たち二人はまだここにいるのに、ニューヨークがはるか遠くからここを侵食しているのだった。

「ねえいつかちゃん」
礼那は従姉の腕をつかんだ。
「れーなたち、ほんとうに帰るの?」

自分が何を訊こうとしているのか、自分でもわからなかった。だって、返事はわかっているのだ。わかっているけれど、なんだか急に信じられなくなった。

20歳の時にヨーロッパを旅した。
今でも、最高でこれからも塗り替えられない旅。
ドイツの動物保護施設を見に行く、という理由をこじつけに始まったあの2週間は、自分の人生に大きな大きな存在感を残している。一瞬一瞬のすべてが愛おしくてたまらないあの旅。

あれ以降も、いろんなところに行った。今もだ。
長野までのチャリ旅、アメリカ、香川の猫島、北海道、鳥取、奄美大島ーー-ー。
でも、あれ以降の旅は旅ではなかったんだとも思う。
あれ以降の旅は、道中が目的と予定に溢れた、大義と目標のための「移動」だったのだ、と。

お金と時間の制限の中で、自分の行く先ややりたいことを探す中で、旅もいつしか慣れ親しいものになり、「手段」という何かになり果てていた。それはきっと素晴らしいことなんだろうけど、だからこそ、あの20歳の時の五感で感じたことはもう味わえないのだなと、現実社会に揉まれて賢く聡く醜くなった自分の感性が悟っている。

永遠に19歳と20歳頃をループしていたい。


動物保護の活動にも、環境問題の活動にも、仕事にも、日常にすらも戻りたくない。
この今抱いている感情と感想を抱いて閉じ込めたまま、あてもなく慌ただしく、ただどこかに出かけてしまいたい。
誰も自分を知らない土地へ。自分も何も知らない土地へ。知らない自分が見つかる土地へ。逃げて、逃げて、逃げていきたい。

しかしそれはもうできない。
もう、あの年齢のあの瞬間には帰れない。

慌しくあの街を出た日が、ひどく遠く思えた。旅をしていると、出来事があっというまに過去になる、と逸佳は思い、旅をしていなくてもあらゆる出来事はもちろん過去になるのだから、そんなのおかしな感慨だ、ともまた思い、でも、たとえばこうしてここにいるのはいまなのに、すこしずつ青白くあかるくなっていく冬の空気も、安っぽいプラスティック製の白いテーブルと椅子も、すでに半分過去になりかかっている気が逸佳にはした。自分がこの風景ごと、未来の自分の記憶のなかに閉じ込められているような気が。

「また来ればいいじゃん」
逸佳は言ったが、それは違うとわかっていた。いつか、また来ることは可能だろう。可能だろうが、物事は全然違ってしまっているはずだ。きのうの遊園地はきのうにしかないのだし、それはもう通り過ぎてしまった。

これが一つ、大人になっていくことなのかもしれない。
ともすれば、何とも大人になっていくというのは味気ないことなのかもしれない。


年の取り方って難しい。

冬頃に、あてもない海外旅行でもしてみようか。
それこそ、ずっと行ってみたかった北欧や、アイスランドあたりを目指して、目的もなく、ただその景色を目にするためだけに。



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