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1990年代、バブル崩壊後のニューヨーク買付旅行記
超売り手市場の就職活動を経て、希望した企業に就職したのは1989年のことであった。当時、日本中がバブル景気で賑わっていたようだが、貧乏大学生で株や不動産などとは無縁の生活をしていた私にとっては、景気が絶好調だと言われてもいまいちピンとこなかった。就職直後の1990年代前半、バブルが弾け、次第に仕事にも影響が出始めた。特に大きく影響したのが、残業がゼロになったことである。安月給だった若手サラリーマンにとって、毎月の残業代は唯一の頼りであった。それがなくなったことで、初めて「バブル終了」を実感したのである。
すでに結婚して家庭を持っていた私は、大黒柱として家計を支えるため、なんとか副収入を得ようと努力していた。もちろん会社には内緒である。大学生時代の経験を活かして家庭教師などをする一方で、妻と趣味で始めていた個人輸入を本格的な代行業として副業化することにした。海外の通販業者から取り寄せたカタログを顧客に見てもらい、その中から希望の商品を代行して発注し、僅かながらの手数料をいただくというビジネスモデルを考えたのである。業務用にとMac (カラークラシックII)を買ったがインターネットはまだなく、クレジットカード決済すらも一般的ではなかった。見積もりや注文は国際郵便(エアメール)で行い、支払いは国際郵便為替(International Postal Money Order)で送金する必要があった。輸送も船便が主流で数週間かかり、数がまとまらないと送料が高くついてしまう。そのため個人でやろうとしてもなかなか難しく、それを私たちが代行して一括で引き受けましょうという仕組みである。
このサービスは口コミで広まり、円高の影響もあって海外の商品を安く購入したいという顧客が増えてきた。特に人気があったのは、海外ブランドの化粧品や洋服などで、個人輸入すると当時の国内販売価格の半額以下で購入できたのだ。たとえば、フランスの有名デパート「ギャラリー・ラファイエット」からもメールオーダーが可能だった。他にも、フランスの「フォーション」やイギリスの「フォートナム&メイソン」から紅茶やクッキー、「L.L.ビーン」や「バーバリー」の本店などもからの衣類などを仕入れたりしていた。
手数料は5〜10%程度だったが、大量注文される顧客も多く、まずまずの利益が得られた。そしてついに、買付を兼ねてアメリカ旅行をするまでになったのである。ほぼ空の大きなスーツケースを持ち、意気揚々とニューヨークに到着したのである。
しかし、途中乗り継ぎのデトロイトで、早速トラブルに見舞われた。国内線の飛行機に乗り込み、いざJFKへ出発!というその時、「プン」という不気味な音とともに機内の電気が消えた。修理まで2時間以上も薄暗いデトロイト空港の国内線ターミナルで待たされ、深夜遅くにようやくニューヨークJFK空港に到着したのである。幸い、初日のみ空港送迎付きの個人旅行プランを利用していたので、旅行会社の現地駐在員の方が迎えに来てくれていた。当時はネットで空港の情報を得ることもできなかったので、何時間もずっと空港で待っていてくれたとのことだった。
宿泊先は、エンパイヤステートビル近くの35丁目付近にある韓国街のホテルだった。結婚前に一人でバックパッカー旅行していた頃とは違い、妻が一緒だったため、それなりに配慮して予約したつもりだったが、それでも1泊60ドル程度というニューヨークとしては格安のホテルだった。部屋の入口のドアは非常に薄く、昭和のトイレの引き戸にあるような真鍮製の引っ掛け鍵には驚かされた。この件については、今でも妻から嫌味を言われることがある。ただし、ホテル前の韓国レストランで食べた本場の参鶏湯(サムゲタン)は絶品だったと、こちらはお褒めをいただいている。
このホテルを拠点に、私たちはマンハッタンを北へ南へと歩き回り、買付を行った。当時、日本でまだ知られていなかった自然派化粧品ブランドKiehl’s (キールズ)本店にも足を運び、仕入れを行った。古ぼけた調剤薬局を改造した、質素な店舗が印象的だった。また、有名デパートのMacy’sや5番街の大型コスメショップなども訪れ、顧客から事前に預かった注文メモを手に、多くのブランド化粧品を買い漁った。購入のたびにたくさんのサンプル品が貰え、それらを全部合わせると膨大な量になった。
そんな買付の合間に、観光を楽しむことも忘れなかった。一番印象的だったのは、当時麻薬所持で服役していたジェームス・ブラウンが出所後初めて行ったステージを、ハーレムのアポロシアターで観られたことである。空港送迎を担当してくれた旅行会社の方を通じて、ハーレム観光とセットのコンサートチケットを申し込んでいた。コンサートの前には、ハーレムのレストランで伝統的なケイジャン料理を味わい、アポロシアターでジェームス・ブラウンの迫力あるステージを堪能した。麻薬中毒の後遺症から彼の最後のコンサートになるかもしれないと言われていたので、とても良い体験となった。
当時のニューヨークは、1980年代後半に訪れたときと比べて徐々に治安が回復していた。ソーホーの裏通りを歩いても特に怖い目に合うことはなかった。それでも、デパートなどで大量のブランド化粧品を購入してホテルに直行する道中は、今振り返るとかなり無防備だったと思う。怪しい東洋人に見えたことは間違いないだろう。最近日本で見かける爆買い中国人観光客と同じようなことを、30年前に私たちもやっていたのである。
旅の途中、たくさんの日本人とも交流した。まだブームになる前のアメリカの寿司店で働いていた方や、自宅オフィスで勤務していた個人旅行手配会社の方、大量の買付品を日本に発送してくれた宅急便会社の方など、それぞれが夢を持ち、生き生きと働いていたのがとても印象的だった。今でも彼らはニューヨークで頑張っているのだろうか。
ニューヨークの街角には、エリック・クラプトンの「Unplugged」のDVD広告があふれていたのを覚えているので、1992〜93年頃の話である。あれから30年以上が経過した。あの頃の思い出をたどりながら、またいつかニューヨークを訪れてみたいと思っている。