【映画レビュー】牯嶺街少年殺人事件 闇の中で微かに灯る光について
1.はじめに
どうもグッドウォッチメンズの大ちゃんです。
近年、往年の名作のリマスター上映が続いていて様々な作品との出会い直しや出会いが続いているわけですが、今年は中でもジョン・カサヴェテス特集と『エドワード・ヤンの恋愛時代』(以下恋愛時代)のリバイバル上映があります。
当ブログでも何度か話題に上がるこの2人の映画作家は私としてもお気に入りなので嬉しい限り。
地元のミニシアターでは来月上映される『恋愛時代』に先駆けて『牯嶺街少年殺人事件』を再見。
何度か鑑賞している作品ですが何度見ても衝撃を受ける映画です。
『恋愛時代』のリマスター上映という貴重な機会ということもあり、改めて自分が受けた衝撃を書き留めたくなり、本記事を投稿するに至りました。
2.あらすじ
3. 台湾の歴史
海外留学の経験もあってか、台湾という国の風土をフィルムに残してきたエドワード・ヤンの映画を読み解くにあたって簡単にでもこの国の歴史を触れないわけにはいきません。
映画は冒頭に40年代後半に中国本土から台湾に数百万人が移住したことと子供たちが大人の不安を感じ取り、徒党を組んだことが字幕で示されます。映画は1961年の台湾を舞台にしていますが、それ以降の緊張感がどこか安定しない大人たちの情緒からも感じられます。
また、登場人物たちが住んでいる住宅が旧来的な日本家屋であったり、ラジオから流れてくる音楽が日本歌謡であったりと台湾という国自体のアイデンティティが希薄でありどこか地に足つかない雰囲気漂うこの作品は台湾が舞台ならずして作り得なかったのではないでしょうか。
歴史的にもあらゆる政権による統治下に置かれてきました。
少年たちがよく聴いている音楽がエルヴィス・プレスリー。映画館で鑑賞する映画がアメリカ西部劇(濱口竜介監督曰く『リオ・ブラボー』)であることから遠い国に対する憧れも確かにあるようです。思えば、キャリアのほとんどをアメリカで過ごすしかなかったエルヴィスをモチーフとして挿入するのはただの時代背景の説明だけではなさそうです。
4.闇と光
本作で1番最初に映るショットは何か。
それは、暗闇の中で光る裸電球です。それ以降、懐中電灯、映写機、蝋燭などなど暗闇の中を照らす灯がモチーフとして頻出します。
主人公の小四が建国中学の昼間部の試験に落ちて夜間部に入学するところから物語が始まるところも示唆的です。
受験の失敗という挫折の暗闇から微かに灯る希望を追い求めていくのが本作の主題と言えるのではないでしょうか。3時間56分という膨大な時間を使う中で暗闇でほとんど画面が見えづらいシーンが頻出してきます。これだけ長尺の映画でしかも画面が見づらいというのは観客の立場からするとあまり親切とは言えません。それでもそんなシーンが頻出するのは、暗闇の中で光を灯して物語を鑑賞する映画というフォーマットとの親和性が高いからだと思います。残念ながら私は自宅での鑑賞ですが、暗闇で体感する3時間56分の旅は、視力が落ちつつある小四が見ている世界とどこか通じているようです。
実際に映画のかなり序盤でスタジオで映画撮影を覗き見するというシーンがあります。
そんな作品だからこそ、光がとても重要なモチーフになるわけですが、あらゆる暴力性を持ってそのモチーフが少しずつ消失していくのがこの映画の見どころ。
タイトルに「殺人事件」とは入っているので当然ですが本作はとても悲劇的な結末を迎えます。
まさしく裸電球をバットで叩き割ったり、危険を察知し蝋燭を吹き消したり、重宝していた懐中電灯を撮影所に置いてきて持ち替えたものが短刀だったり...。
光が消失して本作は絶望を迎えます。
シーンごとにどれくらいの明度で画面が保たれているかに刮目するとこの映画がさらに味わい深いものとして感じられそうです。
そういえば本作のヒロインの名前も小明ですね。
5.フレームに映るもの、映らないもの
先ほどの闇と光に通じますが、今作ほどフレームに映るものと映らないものに対して意識的に取り組んでいる作品はそうそうありません。
本作のタイトルが出た直後のシーンは、小四の試験結果に対して学校へ抗議する父親から始まります。なかなか居た堪れないシチュエーションですが、被写体から引いたアングルとそれを遮るようにそびえ立つ扉のせいで会話をしている様子はほとんど見えてきません。
こんな調子で本作は肝心なところは観客にははっきり見えないように画面が構成されています。
タイトル通り殺人事件が起きるシーンでさえ直接的な描写は抑えられています。
未成年による殺人事件というスキャンダラスな題材でありながらドラマ性はかなり抑制された作りです。説明らしい説明は時代背景を示す冒頭の字幕くらいでかなり能動的な読み取りが必要な作品と言えるでしょう。
ただ、時折挿入される戦車や拳銃、日本刀など暴力性を伴ったモチーフは比較的はっきり示されていきます。これにより観客にまだ何も起きていないけど不穏な緊張感を感じとることができるのではないでしょうか。
暗闇から突然投げ込まれるバスケットボールも恐ろしかったですね。
6.本名とあだ名からなる二面性
本作は歴史的な背景や対立するグループの絡みもありどうしても登場人物が多い群像劇ですが、複雑さに輪をかけるのが本名とあだ名がある人物がいることです。
日本映画と違い外国映画は我々が普段慣れ親しんでいるわけではないキャストも多くいることから容姿への印象と字幕から得る名前が登場人物の認識のため重要な要素になります。
しかし、小四は張震、王茂は小猫王と状況によって呼び名が異なります。
この2人は主人公とその友人という立ち位置や容姿も印象に残りやすいため識別にそこまで苦労するわけではないですが、唐突に違う名で呼ばれると正直に言えば混乱しそうになります。
(ちなみに張震は俳優自身の芸名にもなりました)
わざわざそんな複雑なことをするのはなぜか。
これは個人的で強引な解釈ですが、ふたつの呼び名登場させることで人間の二面性を示しているのではないでしょうか。
物語ではお人好しとなじられていた小四が最終的に至る行動は暴力性の極致にあります。
意図的にわかりづらくするような画面構成やこの呼び名など、ただ単に見えている情報がすべてではないという意図があるように思えてきます。
事実、小四は小明の男性との関わりを見聞きして彼女に対する不信感のようなものを募らせていきます。これを持って小明をファムファタールと呼ぶことはできるかもしれませんが、それは単に見る側の都合のいい解釈でしかないのかもしれません。ミステリアスな小明はその雰囲気ゆえ男性を虜にしますが、そのような事実を明かすと疫病神だなんだと避難される。そんな理不尽な世間からの目線が小明をときに苦しませて、誰も側にいなくていいというセリフを言わせたのではないでしょうか。小四によって僕があなたの未来を照らし守ってあげると言われたときには絶望的な気持ちになったことでしょう。撮影所に懐中電灯を置いてきて、短刀に持ち替えた小四には未来を照らすような明るさはほぼないのですから。
そんな悲劇的な出来事で終わる今作を微かに照らす希望は小四の友人である王茂ではないでしょうか。
彼はバンドでボーイソプラノを担当したり、今作で描かれる男性的な佇まいとは少し違うところに位置しています。エルヴィス・プレスリーに憧れて小四の姉に翻訳をお願いしたり、自分の歌声を録音してエルヴィスに送ったりと前向きな行動が他の人物たちより目立ちます。
刑務所に入った小四にメッセージを録音し渡しにくる彼の姿に一抹の希望を感じずにはいられません。
小明を巡ったいざこさの末、台南に避難していたハニーも象徴的な人物でした。
ある日突然、町に戻ってくるのですがかつてカリスマ性帯びていたであろう彼の姿とはどこか違う様相です。(以前の姿が映画内で描写されないため想像でしか語れませんが)
避難していた際に読書を重ねたと小四に語る印象的なシーンがあります。本を書いてみたいが、勉強していないから無理だろうと悲観的に語る姿は自身と本作の結末をどこか予見している用にも見えました。このように本作で描かれる以前と以降の時間にも思いを寄せたくなる豊かさが確かにあります。4時間弱も使ってたっぷり描いているにも関わらずです。それは、あらゆる手法で観客の想像を喚起する構成だからと言えるでしょう。
7.おわりに
エドワード・ヤンはその作風ゆえなのか生前、台湾では十分に正当な評価を得られなかったといいます。そんな彼も今では大々的な回顧展が開催されるようになりました。今でもエドワード・ヤンの影響を公言する映画作家は多く存在します。
『エドワード・ヤンの恋愛時代』のリマスター上映は彼の再評価の機運を高めるものとなっていくことでしょう。権利関係が複雑なものが多く、鑑賞難易度が高いのが玉に瑕ですが、全作傑作と言える稀有な映画監督です。
私も『恋愛時代』が公開された折には即座に鑑賞し、彼の評価の印として僭越ではありますがブログに残すことで少しでも貢献できればと思います。