【驚嘆】傑作ドキュメンタリー『書かれた顔』が暴く現実と虚構の境界
1.はじめに
またもや4Kリマスター上映にて過去の傑作に出会ってしまいました。坂東玉三郎と歌舞伎の神秘に迫ったダニエル・シュミット監督による『書かれた顔』です。
関東圏などでは3月ごろに上映されていましたが、私の地元の映画館ではついぞ上映されず...。
予告編を見たときから余りの映像美に魅了され、鑑賞したいと思っていたので、意気消沈。
しかし、高知県にて自主上映会を開催しているゴトゴトシネマさんがなんと本作を上映するというニュースが飛び込んできました。
はるばる(と言っても隣県ですが)遠征し本作を鑑賞してきたという次第です。
ちなみにゴトゴトシネマさんについては以下から参照ください。
非常にマニアックで貴重な作品を上映されていて映画文化を継承していく意味でもとても意義深い活動をされていると思います。
2.映画についての映画
今作をジャンルでカテゴライズするならば、ドキュメンタリー映画に類すると思います。
しかし、監督のダニエル・シュミットは以下のように語りました。
黄昏=映画という理論の飛躍にいささか驚かされますが、この黄昏というのがやはり今作を読み解く上での鍵になるでしょう。
黄昏は夕暮れどきを意味しますが、この夜との境目をシュミットによればドキュメンタリーとフィクションをはじめにあらゆるものの境目を意味しているのかなとわたしは解釈しました。
確かに、『書かれた顔』は通常のドキュメンタリー映画とはかなり異なる様式で語られていきます。ナレーションによる説明が排されていることは序の口で、坂東玉三郎には明らかにドキュメンタリーを装ったフィクション的な演出が施されており、終盤には「Twiright Geisha Story」というフィクションまで挿入されるという始末。
こうなってくると、ドキュメンタリーやフィクションという枠にくくることに何か意味はあるのかと感じてきますね。
そういった境界がひとつのテーマになっているには坂東玉三郎が舞台に上がる前後の化粧の様子をかなり克明に捉えていることからやはり明らかと言えるでしょう。
女形の役がそのままの姿で舞台を降りていき、楽屋で化粧を落として坂東玉三郎の真の顔が露わになる過程(あるいてはその逆の工程も)のグラデーションを克明に映しています。
役として舞台に上がるフィクション上の姿と坂東玉三郎としてのドキュメンタリーの姿の両方が提示されるいわゆる入れ子構造です。
このような入れ子構造の面白さは当ブログの過去に投稿した記事にも書いているのでよければそちらもご覧いただけると嬉しく思います。
まず坂東玉三郎が女形の歌舞伎役者ということからどうしても演技についての話にならざるを得ません。本人そのものの姿と役としての姿があるわけですから、その境界がテーマになるのはある意味必然とも言えるでしょう。
しかも坂東玉三郎は男性なので女性を演じることにかなり明確な“嘘”が生じます。
その嘘っぱちを観客はなぜ信じれるのか、その美しさは何を持って現れるのか、そこを徹底的に追求した映画だと私は感じました。
そこについては坂東玉三郎さん自身の言葉が聡明に言い表していると思います。
次の項ではその言葉と坂東玉三郎さん自体の魅力に迫ります。
2.坂東玉三郎について
今作では、坂東玉三郎さんのインタビューが時折挿入されます。
そこで語られる言葉と佇まいが美しいのでいくつか紹介させてください。
引用が長くなり恐縮です。
しかし、これらの言葉が演じることの奥深さ、嘘を本当の物として信じられる強固な表現を裏付けるものになっていると思いませんか?
マイノリティの役柄はマイノリティ当事者が演じることの重要性が説かれている昨今の時流とは逆行する考えかもしれません。私もその時流には概ね賛成の立場ですが、逆に言えば非当事者として演じるにはこれほど客観的な視点で自己分析と対象の分析が必要ということの証左にもなると思います。
ご自身の演技論を語るときの坂東玉三郎さんが中性的な佇まいでどこか性別の境界を超えているような印象を受けました。
その境界を飛び越えていくような存在感こそ、今作が語るテーマと最も合致する要素かもしれません。坂東玉三郎さんなくしてこそこの傑作は生まれなかったと言えるでしょう。
4.老について
黄昏には盛りを過ぎ、勢いが衰えるころという意味もあるそうです。これを人間に置き換えると老いを意味すると思います。
それを裏付けるかのように、杉村春子さん、杉原はんさん、大野一雄さん、蔦清子松朝じさんなど後期高齢者の芸術家たちが“レジェンド”として紹介します。(この中で1番若いのが当時88歳の杉村春子さんというのも凄い)通常の映画で90歳や100歳を超えた人物が登場することはそうそうないのでそれだけでも貴重な作品かもしれません。
これらの人々が経験を通して語られる言葉の含蓄にも唸らされますが、これまた時折挿入されるパフォーマンスの美しさにも圧倒されます。
体力的な衰えは隠せないにしても、芸術そのものが染み付いた身体から表現される芯の強さのようなものには思わず感動させられました。
大野一雄さんのレインボーブリッジを背景にした踊りは幻想的でこの世のものとは思えないくらいです。
老いと死は密接に繋がっているもの言わざるを得ません。しかし、当人たちにその自覚があったかはわかりませんが、生と死の境界を軽々超えていくような逞しさを感じました。
浅はかな表現となることを承知で言いますが、芸術は簡単には滅びないことが伝わってきます。
逆説的にこの方々が現世には存在していないことがとても口惜しいようにも。
坂東玉三郎さんのドキュメンタリーとして見ると、かなり歪な挿入ではありましたが芸術についての映画、すなわち映画についての映画を解析する上での補助線として個人的には腑に落ちるものがありました。
5.カメラの所在
映画を作るにはカメラが必要です。
何を当たり前のことを言っているんだと言われるかと思いますが、このカメラという機械を使って人間のありのままの姿を撮るということはとても難しいはずです。
カメラがない日常生活で、美しい瞬間はいくつもあるのではないかと思います。
ただそれをカメラを使って再現するとその作為性が垣間見えて、見るに耐えないものになるというのが大方よくあることではないでしょうか。
カメラが入ることで緊張し、ぎこちなくなる人間をカメラは残酷なまでにはっきりと記録してしまいます。
カメラがない日常とカメラが入ったことによる非日常性の境界が明確になってしまうとそれは優れた映像表現からは遠ざかってしまうかと思います。
ただ、今作ではひとつひとつの所作がとても美しく捉えられています。
化粧する際の手捌きや舞台袖で演奏する方々、当然ではありますが、舞台上での芝居もそうですね。そこには初めからカメラなんてないようです。歌舞伎役者という仕事上たくさんの観衆に見られることが当たり前なのでカメラが入ったところで動じない(観客の目がある種のカメラとなり得るため)のもあるでしょうが、カメラマンのレナード・ベルタさんの功績はかなり大きいのではないでしょうか。
映像を見て感じていただけるかわかりませんが、アングルは意外と奇をてらったものではありません。敢えて言うならば、被写体を遠くから覗いているような感じでしょうか。これにより被写体がカメラを意識しないでよくなるという効果はひとつあるかもしれません。
ここからは完全に自分なりの考察なのですが、レナード・ベルタもしくは監督のダニエル・シュミットがしっかりとご自身の目でこの世界の魅力と美しさを感じ取っているからこそ、このような映像が撮れるのだと思います。
それによって然るべき場所にカメラを置いてそれを映すだけで魅力的な映像に仕上がっていると。
そうでないと、化粧をしているだけのあのシーンをあれほど美しくは撮れないはずです。
(それと鏡の使い方がとてもカッコいい)
被写体へのリスペクトがあるからこそ、むやみやたらにカメラを近づけずに、ある種慎重にそれを捉えているのではないでしょうか。
それは2人が外国人であることもあるかもしれません。
そういった抑制を効かしながら、被写体自体の魅力は豊かすぎるほどに溢れている唯一無二の映像に仕上がっていると思います。
6.終わりに
構造が複雑なので、自然と書いている内容も複雑になっているのではないかと心配もありましたが、今作の魅力が少しでも伝わっていれば幸いです。
映画についての映画は昨今のトレンドにひとつと言えるかもしれませんが、30年近く前に日本を舞台にしてこれほどそこについて鋭い批評性を持った作品があることに驚きました。
それを今作のパンフレットも当時の裏話なども掲載されておりとても読み応えがありました。
この記事を執筆するのにとても助けになったことは言うまでもありません。
もし鑑賞された方はパンフレットも合わせてご覧いただけると今作の魅力により気付けるかと思います。
それでは、改めて最後までご覧いただきありがとうございました。