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冷夏 前編 【読書時間7分】



プロローグ


一九九六年・冬
都内のファッションビルの特設会場では、雨宮栞のデビュー三周年を記念した、写真集の発売イベントがおこなわれる。
栞は、三年前の夏にタレントオーデションに合格し、年末には、CDデビューに漕ぎつけた。
そのCDデビューイベントも、デビュー1周年握手会も、このビルでおこなわれていた。
山のように積み上げられた写真集に、栞はマジックで一冊づつサインをしてゆく。こんなにたくさんあるなら、前もって書かせてもらいたい思うほどだった。
栞の芸能生活は順調だ。レコーディングに雑誌の取材、バラエティー番組の出演に加え、最近では、テレビドラマのオファーもある。

サインを書く栞の脳裏に蘇る。
照りつける太陽も、青空に浮かぶ入道雲も無く、通り過ぎていった夏。
雨ばかりで、梅雨は明けないまま秋になり、セミは十月に鳴きはじめた。
いつもと違う夏。それは決して涼しさだけではなかった。

すかいらーく


一九九三年・夏

夕暮れ時のすかいらーくは、混みあっていて、入り口付近にある待機席には、家族連れがの客が座っていた。栞は、レジで会計を済ませた麗子に続き、待合席の前を通りかかった。
「あらー、中込先生ご無沙汰してます」
家族連れに麗子が声をかけた。
「どうも、こちらこそ」
父親らしき男が返す。
「お久しぶりです」
栞も、その男が中込であることに気づき挨拶した。
「峡西高校だよね」
「はい、今、一年です」
中込の問いかけに、栞は笑顔で返す。
「こちら息子さん」
麗子が聞くと
「ええ、そうなんですよ」
中込は答え、男の子は麗子に会釈をしていた。

すかいらーくを出て、栞と麗子は車に乗り込む。
栞は、まさかここで中込に再会するとは思わなかった。隣に座っていた息子の洋一は、二歳年下でテニス部の後輩だったことを思い出した。

朝から、しとしと降っていた雨は、夕暮れ時に止んだかと思うと、夜になってまた降り始めた。
麗子がが運転する車は水しぶきを上げてバイパスを走る。栞は助手席から濡れた路面に映る街頭や信号の灯りをぼんやりと見つめていた。

雨宮家

「ありがとう、また来てね」
 麗子は常連客に手を振って店のドアを閉めると、すぐさまカウンター席にうずくまった。栞は、その母の姿を見て溜め息をつく。食器洗いを済ませたら、レジから千円札を抜き取り、カウンターの下からバイト代と貼り紙されたお菓子の缶を取り出してその中に入れる。閉店時間を前に店主が酔いつぶれてしまったため、スナック麗の本日の営業はこれまでとなった。栞は入口に鍵をかけると冷房はつけたままにして、ひざ掛けを麗子の肩にかけてから二階へ上がっていった。

 雨宮家は二階建てであり、一階は店舗として利用し、二階に栞と麗子、そして継父・雅彦の三人が暮らしていた。栞は自室から替えの下着を持って風呂場へ向かった。髪の毛やTシャツにタバコやアルコール、おつまみなどの匂いが染みついている。

 風呂から出た後は下着姿で部屋に戻る。最近、雅彦は家に居ないので、安心して下着姿でうろうろ出来る。夏休みに入ってから、数日間は夏期講習があるので、昼は学校へ行き、夕方からは母の店を手伝い、夜遅くに風呂に入り、少しだけマンガを読んでから眠りにつく。こんな生活が続いていた。

 栞は、山梨に来て二年半ほど経つが雅彦との生活には慣れない。雅彦の実家は県内で宝石会社を経営していて、雅彦の父を筆頭に一族で経営している。育ちはいいので麗子や栞に暴力をふるったり、罵倒するようなことはないが。それでも血のつながらないオジサンが家に居るわけで、入浴中に彼の足音を聞くと反射的に手で胸と股を隠してしまうし、タンスに入っている下着の位置が微妙にズレていると不安になってしまう。ここ最近、雅彦は家に居る時間が極端に少なくなり、麗子の心配をよそに栞は安堵している。

 栞が山梨に来たきっかけは、母の再婚だ。小学生までは横浜で過ごし、生家は会計事務所を営んでいて、父親は公認会計士だった。麗子に嫌気が刺した父が浮気をしたこときっかけで、両親は離婚することになり、栞は麗子に引き取られて、鎌倉へ移り住んだ。

 鎌倉では麗子の父が洋菓子工場を営んでおり、実家が所有するマンションで暮らすことになった。栞はそこから中学校へ通い、麗子は百貨店のアクセサリー売り場でアルバイトをしていた。雅彦と出会ったのは、それからしばらくしてのこと。きっかけはその百貨店で宝石物産展がおこなわれ、雅彦の会社がそれに出店し、麗子はそのフロアの手伝いとして駆り出されたことからだ。意気投合した二人の関係は、恋愛へと発展した。

「あたしね、夢があるの。いつか自分のお店を持って、そこに来てくれたお客さんとお酒を飲みながら楽しく会話をするの」

「その夢、俺に手伝わせもらえないかなぁ」

 麗子と雅彦は交際を通じて夢を語り合い、やがて結婚にまで漕ぎつけた。結婚したら、山梨で一緒に店をやろうと約束した。四十過ぎのオジサンとオバサンの燃えるような恋愛に巻き込まれて栞は山梨へやってきた。それが中学二年のときだ。

「甲府ってね以外と大きな街なんだよ。甲府駅の南口を降りて繁華街まで行くと飲み屋さんがたくさんあって、その辺に店を出そうと計画しているんだ。逆に北口を真っすぐ行くと閑静な住宅街があるんだ。そこに家を建てて麗子さんと栞ちゃんと暮らしていけたら俺は幸せだよ」

 結婚前に、麗子と栞に雅彦が言った言葉である。麗子はこの話を真に受けていたらしいが、実際に住んでいるのは甲府市から十五キロほど離れた小さな町であり、繁華街とは程遠い。栞からしてみれば、店のことなど大して興味はないのだが、聞いた話とのギャップに驚いてしまう。

 雅彦の独りよがりの発言は他にもある。

「甲府駅の付近に中高一貫の私立の学校があってさぁ、教育熱心な親はみんなそこに子供を通わせてるんだ。栞ちゃんぐらい賢い子なら受かるんじゃないかなぁ。キミがあの学校の制服を着て登校する姿が目に浮かぶんだ。でも、そんな山梨にも一つだけデメリットがあるんだ。それはね神奈川に比べて交通の便が悪いこと。だから車の所有率が高い。それでこのあいだ、クラウンの一台でも用意してくれよ、なんって、うちの親父に言っといたんだけどね」

 雅彦はそう言って、得意気に笑った。結局、栞は私立校を受験することはなく、公立校に通い。麗子に買い与えられたのは中古の軽自動車だった。栞は雅彦のいないところでそれにクラウンとあだ名をつけて呼んでいた。

 栞は山梨での生活が好きになれずにいた。麗子に振り回されるように転校してきて見知らぬ場所で、見知らぬ人たちとの生活が始まった。まだ十六歳だが苗字は二度変わった。産まれてすぐ生家の苗字を名乗り、両親の離婚後、母親の実家の苗字へ変わり、麗子の再婚により雨宮となった。

 重苦しい生活の中、栞を気にかけてくれたのは転校した桃源中学校で学年主任をしていた中込だった。彼はこまめに栞に声をかけ、学校での様子を麗子に伝えることも怠らなかった。みんなで支えて行けるような体制を築けるように働きかけてくれたので、栞は心強く感じていた。

昌美のお願い


 夏休みに入っても梅雨が明ける気配がない。最近雨ばかり降っていたが、今日は時折厚い雲の切れ間から陽光が射していた。栞は自転車を漕ぎながら、学校での出来事を思い出していた。夏期講習の休み時間に栞は友人の昌美に呼び出されて、屋上へ上がった。雲の合間から青空を見ることができた。

栞は、
「なんか気持ちいいね」
と声をかけた。

昌美はそれに軽く返事をすると、しばらく遠くを見つめるような目をして、おもむろに口を開いた。

「あのさぁ、お願いがあるんだけど」
そう言うと、昌美は手にしていたCDでーたという雑誌を開いて栞に見せた。

「あたし、これ受けに行きたいんだ」
栞は誌面を覗く、ユリプロサマーオーディション‘93とある。

「このオーディション会場が横浜なんだ一緒に行かない」
昌美は目を輝かせていた。

栞は持っていた紙パックのフルーツ牛乳を飲む。もう中身がないのでストローを吸ったからペコンと音がした。

「でも、あたし芸能界とか興味ないし」
昌美から視線をそむけるようにして栞は言ったが、昌美は栞に視線を合わせようと栞の顔を覗き込んで言う。

「いや、そんなこと言わずに、ね」
正美が微笑むから、栞は苦笑いをした。

「お願い、一生のお願い」
昌美はこの言葉をよく使う。栞は、またかと思った。これで一生のお願いをされたのは何回目だろう。

「あたし、オーディションなんて受かんないよ」
栞がそう言うと、昌美は持っていたCDでーたを小脇に挟んで、両手をパシンと音を立てて合わせて、
「お願い連れてって」
と言った。昌美は手を合わせたまま動かない。
風に吹かれて長い髪が乱れても、制服のプリーツスカートがヒラヒラしても彼女はその体制を崩さない。

栞は、その風に頬を撫でられながら、昌美になんと返せば良いのか、その言葉を探していた。


山際に傾いた陽を背に受けて、栞は自転車を漕ぐ。

「じゃあ考えとく」

オーディションに連れて行ってと懇願する昌美に栞はなんとも無難な答えを出した。子供の頃、横浜に住んでいたと昌美に話したことを後悔した。栞は、ほとんどテレビを見ない。見ても一日三十分ぐらい、見ない日がほとんどだ。芸能界になど全く興味がないのだが、きっぱりと断ることは出来なかった。

「じゃあ、もういい」

昌美が態度を変えて、目の前から居なくなってしまうのが怖かった。仲がこじれて、友人を失うことが怖かった。
昌美は新体操部に所属していて、友人も多い。家はお金持ちで、子供のころから書道、お琴、フィギュアスケートなど様々な習い事をして、クラスの中でも中心的な人物だ。栞は、昌美とツルんでクラスの中心に居たいわけではないが、ただこんなことで友達を失いたくなかった。

「八景島シーパラダイスにも行ってみたい。あの水族館すごいらしいよ」

昌美は出来たばかりの行楽地にも行ってみたいとも言っていた。栞は思う、これまで貯めてきたバイト代を使えば横浜に行けなくはない。
でも、せっかく母の店を手伝って貯めたバイト代をこんなことで使いたくない気もした。

八景島に行きたい気もするけど、やっぱりオーディションは面倒くさい。とにかく、この話は断る方向で考えよう、そう思いながら自転車を漕いだ。

山際が赤くそまっている。栞は夕焼けを眺めても心が晴れない。これから麗子と雅彦と住む家へ帰ると思うと、気が重くなってしまったからだ。

後編へ続く
冷夏 後編 【読書時間9分】|プラントプレス

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