脱恋社会 後編【読書時間24分】
プラントノベル
1: 魔法
青空に羊雲が浮かび、陽射しは穏やかに僕たちを包む。吹く風は清々しく、どこからともなく金木犀の香りを運んでくる。テラス席の向いに座る清雲は、いつものように爽やかな笑顔を振りまきながら、どことなく甘い雰囲気を漂わせていた。
「今から予約して、二月の挙式に間に合う式場って限られてくるでしょ。その中から、紫乃リンは、この海が見る教会を選んでくれたけど、ごめんなさい、私はこの丘の上にある教会にしたいの。コストもこっちの方が安くあがるし、それだけじゃなくて食事とか含めて費用対効果を考えてもこっちなの。あたし二月の花嫁って映画に憧れてるから、あの映画のラストシーンの教会って丘の上にあったんじゃないかなぁと思って・・・・・・」
「清ちゃんの好きな方でいいよ」
僕は、笑顔を浮かべてそう言っておいた。
最近、清雲と一緒にいるときも雪恵さんのことを考えてしまう。こんなとき雪恵さんならなんと言うだろう、
「どこでもいいよ」
ただ一言そう言って微笑むのではないだろうか。
そんなことを考えていたら、急に清雲の声が遠く感じた。僕は彼女の話を聞き流しながら、その微笑んだ雪恵さんの顔の輪郭や目鼻立ちを頭の中でより正確に描くことに注力していた。
「紫乃リン、メンリフの方は順調なの」
僕は飛び上がりそうになった。彼女は僕の心が読めるのかと思ってしまった。
「ああ順調だよ」
何食わぬ顔で言ってみせた。
まさか、興奮しすぎて挿入した瞬間に発射したとは口が裂けても言えない。
「うちのお父さんが心配してるの。小川がメンリフなんて通ったら、トレーナーの女性のことを好きになるんじゃないかって」
その言葉に肝が冷えた。
やはり、出版界の荒波を乗り越えてきた信長さんの嗅覚は鋭い。
「そんなわけないでしょって言っておいたの。これだから恋をする世代の人たちって困るよね」
そう言って清雲は笑ったので僕も一緒に笑っておいた。
その後、清雲と新居に置く家具を見に繁華街へ行く約束だったけど、急に取材が入ったと嘘をついて家に帰ってしまった。
部屋に籠ってディスプレイを見つめる。そこには雪恵さんの働くメンリフの公式サイトが映っている。
快楽に喜びを添えて。
店のキャッチフレーズと共にスタッフたちの笑顔が映っていて、その中にある雪恵さんの姿を見つめていた。
店長を中心にスタッフたちが半円を描いた集合写真や、それぞれのプロフィールなども載っている。
レッスンのない日は、この写真を見て過ごしている。スケジュールを確認してみると、次のレッスンまであと三日あり、それが途方もなく長い時間に感じた。
今、雪恵さんはどうしているのだろう、今頃、別の男と肌を重ね合わせているのだろうか。
そう思うと息が詰まりそうになり、その男のことを殺してやりたいとすら思ってしまう。
昔見たドラマを思い出す。学生時代、教材として観た昭和の頃のテレビドラマを。
そのドラマの主人公はヒロインのことを四六時中想い、胸が苦しいと言い、男友達と話す姿を見て苛立っていた。
ふと、自分の胸中をそれに重ねてみた。そして気づいてしまった。今、僕は間違いなく雪恵さんに恋をしている。
「恋をするって異性のケツを追いかけるってことでしょ」
「サバイバルゲームみたいな感じかなぁ」
「恋なんて魔法はすぐに解けるけどね」
仮想空間で交わした会話を思い出す。喜伝と柚都と三人で恋を茶化していたときのことが遠い昔のように思える。
これは、魔法なのか。こんなに胸が苦しいのに、いつか雪恵さんのことを忘れてしまう日がくるのだろうか。
2:尾行
夕暮れ時の車内は混みあっている。会社帰りのオジサンや学生と思わしき若い男女の姿もある。その背後にある車窓は、傾いた陽を受けて朱色に染まっていた。
昭和の時代には満員電車というのがあって、通勤や帰宅ラッシュの時間帯には寿司詰め状態で電車に乗り、乗客同士で圧迫し合っていたらしい。
それはオンラインワークがなかった時代の都会の象徴的な姿ともいえるし、そもそもあの頃と現代では人口が異なっている。かつては、一億を超える人々がこの島国に住んでいたのだから。
人口減少に合わせて、都内を走る電車の本数も減ったそうだが、それでもそんな風にして電車に乗ったことない。
レッスンのない日も、雪恵さんに会いたい。自宅で悶々と雪恵さんの画像を見ているのは、もう嫌だ。
でも、無理矢理用事を作ってメンリフに行けば彼女に警戒されてしまうかもしれないし、嫌な思いをさせてしまうかもしれない。
僕は雪恵さんに会いたい、でも彼女を不安にさせたくない。何かいい方法はないかと考え抜いて、あるシンプルな結論を導き出した。
そうだ、尾行しよう。
そうすれば、僕は雪恵さんに会えるし、雪恵さんは僕に気づかない。これでお互いWINWINというわけだ。
僕は車両の端の座席に座っている。
十数メートル先のドア近くに雪恵さんが立っている。
彼女はいつも、あの位置に立っているようだ。
私服姿の雪恵さんをこの目に焼き付けるため、僕は数十秒に一度彼女の方を見ている。
かつては携帯端末にカメラがついていたらしいが、肖像権の取り扱いが厳しくなった現代ではそのようなモノは付いていないし、小型カメラも一般人では手に入らなくなっている。ならば、この目に焼き付けるほかない。
こうして雪恵さんの姿を見ているとパート帰りの若妻のようにも見えてくる。自宅に帰って洗濯物を片付けて、お風呂の掃除をして、夕食の準備をして。そこに僕が帰ってきて。
「お帰り、今日は早かったね。夕飯にしようか」
なんて何気ない日常を想像してみただけでキーっと叫びたくなるぐらい幸せだ。
前に立っている乗客が怪訝な顔でこちらを見てきた。妙に表情が緩んでしまったのだろう、僕は慌てて引き締める。
とにかく、雪恵さんを見失ってはいけない。ここ数日の苦労を思い出す。
雪恵さんの出勤時間はメンリフの公式ホームページで公開されている。
それを確認して尾行を始めた一日目、店の入り口から数十メートル離れた場所から雪恵さんが出て来るところを待っていたが、その姿を目にすることはなかった。どうやら店には裏口があるらしく、そちらから帰ってしまったらしい。
二日目は、彼女の自宅付近と思われる駅構内で姿を見失った。
三日目は前日よりも手前の駅で急に下車してしまい、そこで見失った。おそらく反対側の車線に停車している電車に乗り込んだと思われる。
そして本日、レッスン終了後に帰宅したと思わせて、裏口付近で待ち伏せし尾行を開始した。今日は昨日下車した駅で乗り換えはせず、二日目に辿り着いた駅で下車した。
やはりここが自宅からの最寄り駅なのか。この駅には乗降客が多い、そのため姿を見失いがちだ。
尾行のときには相手の足元を見るべしと、探偵の動画サイトで情報を入手した。
今日の雪恵さんの靴は昨日までの黒のパンプスではなく、スポーツブランドのスニーカーを履いていた、これならわかり易い。
僕は、彼女から四・五人分の距離を置いて他人の背中に身を隠しながら、そのスニーカーを凝視して、どうにか駅構内を突破した。
駅前の商店街をしばらく歩いて雪恵さんが角を曲がり、人通りの少ない住宅地の方へ歩いて行く、ここで彼女が振り返ってしまうと尾行がバレてしまうので、僕は曲がらずビルの陰に隠れてその背中を見る。
彼女が次の角を曲がると、僕はダッシュして、その角まで行った。
そんなことを繰り返しているうちに彼女はマンションの中に入っていく。
どの部屋に入ったのか確認した後に急いで裏手に回った。そして、その部屋に明かりが灯るところを確認した。
僕はそのマンションの向いにある雑居ビルとアパートの間のスペースに身を潜めている。ここは人ひとり通るのがやっとのスペースだ。
でもこの狭さが身を隠すには丁度良かった。そこに腰を下ろして雪恵さんの部屋の灯りを眺める。彼女は明日の仕事は休みだ。今日はゆっくりすることができるだろう。
僕は家に帰れば、書きかけの原稿が山ほどあるけど。部屋の灯りが消えるまでの間、このスペースで留まって過ごすことにしようと決めた。
夢サプを飲んでいても恋をしてしまう人はいるらしい。
それは、きっと運命の人に巡り合えたからに違いない。僕と雪恵さんも、運命の相手なのだろう。彼女と巡り合うために、これまでの僕の人生はあったといっても決して過言ではない。
3:鬼才の涙
冷たい空気を吸い込んで吐き出す、そうすると胸のあたりが鎮まる気がするが、でもそれでは心許ない。その空気は繊維の隙間を通って肌を冷やす。
僕は肩をすくめながら歩き、薄手のコートを着てくればよかったと紅く色づきはじめた街路樹を見ながら後悔していた。
僕は決意した。雪恵さんにこんなに心を奪われながら、これ以上清雲との関係を続けてゆくわけにはいかない。
今日、清雲と二人で食事をする約束をしているので、その際に別れを告げることにした。彼女は怒るだろうか、それとも泣き出すだろうか。それでも構わない、彼女に僕を諦めさせる理由をしっかりと考えてきた。
しかし、清雲と別れることよりも信長さんに嫌われることの方が怖い。
僕のライターとしての仕事のほとんどは信長プレスに依存している。つまり、清雲と別れるということは、失業と同等の意味を成していた。
でも、それも構わない。信長プレスだけが出版社ではないし、僕は会社員ではない。フリーライターだ。信長プレスを失ったのであれば、新しい出版社を探せばいいだけなのだから。
待ち合わせ場所のホテルに行くと、清雲は既にロビーで待っていた。一緒に最上階まで上がって、予約していたレストランに入り窓際の席に座った。
彼女に別れを告げるのは食事を終えてからにしよう。冒頭から別れ話を始めてしまい、ヒステリーを起こされてワインを顔にかけられても嫌だし。
それにしても洗練された雰囲気の店だ。店内の照明も床もデーブルや椅子においても全てが飾りすぎずスマートに感じられる。
たまに高級感のあるレストランなのに、よく見ると床の色が剥げていたり、椅子がキズだらけだったりすることがあるけど、この店は、そんなことを微塵も感じさせない。いかにも清雲が選びそうな店だと思った。
そして何よりも店内で働く人の数が多い。商店街やロードサイドにあるような、いわゆるチェーン展開している店は、ほとんどがロボット化しているのだが、ホスピタリティーを掲げ、顧客との機微なやりとりを重要視する店では平成時代と同じぐらいの人数で働いている。
そういえば、初めて清雲と会ったホテルもそうだったことを思い出していた。
ウエイトスタッフがやってきて食前酒のメニューを渡された。
「ワインどうしようか」
僕がさりげなく清雲に訪ねる。
「ごめんなさい。この後、お父さんが来るから、それからでもいかなぁ」
彼女の言葉を察して、スタッフは大げさな程に頭を下げて去って行った。
信長さんが来る・・・・・・。
イヤ、聞いてない。二人で結婚式の打ち合わせを兼ねての食事だったのではないのか。急激に心臓が凍てついて、それが全身に広がっていく気がした。
さすがに、信長さんの居る前で別れ話をする勇気はない。どこかのタイミングで彼を切り離して二人きりになる必要がある。
どうする・・・・・・。
どうして都合の悪い事は急にやってくるのだろう。僕に考える間を与えることなく、信長さんはやって来た。
こんな高級なレストランに来て椅子が三つ置かれていることになぜ疑問を抱かなかったのだろう。いや、別れ話をすることで頭がいっぱいになり、そこまで気づかなかった。
ワインを選ぶあいだ信長さんはずっと黙っていた。彼の性格なら、こういうときにアレにしようコレにしようと仕切り出すはずなのだが、なんだかそれが気味悪くてしかたがなかった。
ワインを注いでスタッフが去っていくと、信長さんは、テーブルの上のグラスをまるでビールジョッキのように豪快に持ち上げてガブっと飲むと、真っすぐな視線を僕に向けてきた。
「小川、俺と一緒にデカイことをしよう」
僕はその視線を直視できず、彼のグラスの中に僅かばかり残った赤ワインがゆらゆらと揺れるのを眺めていた。
「いいか、東京が日本の首都ではなくなってから、もうずいぶん経つ。あの頃の東京にノスタルジーを感じる人も増えてきた。そこで俺は新しい雑誌を創刊しようと思う。首都であった頃の東京を懐かしむと共に、あの自由に恋を謳歌していた時代を批判的な論調で書く。それによって脱恋世代の読者を増やし、恋をしないことが正しいと主張する。もう、この流れは誰にも止められないだろう、これが当然の社会になっていくんだよ」
信長さんは、グラスに残ったワインを飲み干し続けた。
「創刊号のテーマはもう決めている。渋谷のコギャルとはなんだったのかだ」
「ロスジェネの若い頃ね」
清雲が言葉を添えるように言った。
「ああ、手始めには丁度いいだろう。平成時代は小川の得意分野だろ、この雑誌はお前の文章力に賭ける。清雲もシンクタンクを辞めて、来春から俺の会社で働いてもらう。だから三人でより良いものにしていこう、この脱恋社会を」
信長さんは、創刊するワンテーママガジンについて熱っぽく話し終えると、今度は声を落として、ゆっくり語り出した。
「俺も恋をした世代の一人でね。この子の母親と恋に落ちて結婚した」
清雲は小さくうなずいた。
「結婚して数年経つと恋の魔法なんてのはすっかり解けて、毎日ケンカばかりして、やがて離婚した。だから、この子は母親のことをよく知らずに育った」
今度は僕の目を見て清雲はうなずいた。
「父親にとって娘の結婚なんてものは嫌なものだし、寂しいものなんだけど、でもこの子には幸せになってほしいと思っているし、お前と一緒に明るい家庭を築いてもらいたいと思っているんだよ。清雲はどこに出しても恥ずかしくない娘だ、この子は俺の希望だ、誇りだ」
信長さんは言葉を詰まらせて、目を真っ赤にして泣きはじめた。こんな彼の姿は初めて見た。
出版界の鬼才と恐れられている男が僕の目の前で泣いている。
「この子とバージンロード歩く日が来るなんてなぁ」
「やだ、お父さん、今はどっちがバージンロードを歩いてもいい時代なんだから」
二月の花嫁という映画に倣って、式では僕がバージンロードを歩くことになっている。
「そうか、俺も昔の人になったもんだ」
信長さんはそう言って、清雲が差し出したハンカチで目頭を押さえていた。僕はこの親子のやりとりを、ただうなずきながら聞くことしか出来なかった。
4:店長
3D映像のクリスマスツリーが、待合室に彩を加えている。僕はこのバーチャルなクリスマスツリーを見ながら、おもちゃ屋で買ったツリーに恋人同士が肩を寄せ合って飾りつけをしていた時代のことを想った。
かつては嫌悪感を抱いていたエピソードも、雪恵さんに恋をした今となっては、心を和ませるものに変わっていた。
あの信長さんの涙を見てから一か月程が過ぎた。僕が雪恵さんのことを好きになればなるほど、その未来が尻つぼみになっていくような気がしてならない。
いよいよ今日、雪恵さんとのレッスンが終わってしまう。
雪恵さんのおかげで僕はしっかり腰が振れるようになった。彼女が僕の上に乗って動いても易々と発射しなくなり、お互いに快楽を味わえるようになっていた。
いつものように部屋に入ると雪恵さんはカジュアルな服を着てベッドの上に座っていた。
前回と同じパターンだと思った、僕が雪恵さんをリードして服を脱がし、前戯して挿入する。その一連の流れの復習なのだろう。
僕は雪恵さんの隣に座り、彼女の肩に手をかけて目を閉じキスをしようとした。
次の瞬間、唇に堅いモノが触れた。目を開けると雪恵さんが人差し指を立てて僕の唇を抑えていた。
「今日は、やらないよ」
雪恵さんは静かにそう言い、僕の両手を握った。
その後は、彼女が子作りに対する心構えを聞かせてくれた。どんなときに女性は体を求め、どんなときに拒むのか、排卵という辛さや、妊娠中の苦しさまで、母親が子供に言い聞かすように、彼女は僕の手を強く握って。
普段口数の少ない雪恵さんが、いつになくよく話していた。
身の上話も聞かせてくれた。彼女は、ある人と恋をして周囲の反対を押し切って瀬戸内の島を離れ、東京にやってきたのだという。
しばらくの間はその彼と幸せな同棲生活が続いたらしいが、次第にすれ違うようになり、ある晩に些細なことから大ゲンカになり、その彼は部屋を飛び出して行きそのまま戻ることはなかったという。
ちなみに僕は、その人によく似ていたらしい。
雪恵さんは、もうすぐこの店を辞めて、新しい街で暮らすと言っていた。どこで暮らすのか、僕は何度か問いかけたが、彼女は教えてくれなかった。
メンズリフレッシュサロンの子作りトレーニングコースを修了しても、僕は雪恵さんのことを忘れることができない。
レッスン終了後も、数日に渡り雪恵さんを尾行した。
そして、雪恵さんが退職した翌日に僕はメンリフを訪ねた。レッスンの御礼と店長さんへの取材を兼ねていた。
フリーライターという職業を生かし、メンリフの現在のあり方、性風俗店の変貌とその未来について考察する記事が書きたいと店長さんにオファーをしたところ、快く引き受けてくれた。
この取材のついでに雪恵さんの新居を聞き出せばよい。これで記事が書けて、居場所が判って僕にとっては一石二鳥だ。なんて素晴らしいアイディアだろう。
平成の末期にはブログやSNSなどネット上に個人が日記のようなものをアップロードすることが流行っていたらしく、その情報を基に居場所を探るなんてことがあったらしいのだが、しかし、現代ではそのような習慣はない。
もちろん、互いに連絡を取り合うツールは山ほどあるが、そもそもネットで繋がりたいのではない。
僕が欲しいのはリアルな世界にいる生身の雪恵さんだ。彼女は、既に退職しているから、この取材を不安に思うことはないだろう。
もし、店長が居場所を知らないのなら、探偵でも雇って探してもらえばいい。
メンリフの事務所は、何の変哲もない殺風景な所だった、デスクの上は業務端末が置かれ、その脇にある箱にはスタッフたちが身に付けているコスチュームが畳んで入っている。時々奥から女の子が出てきて、そのコスチュームを手にして戻っていく。
何度も通った店だが、バックヤードに入ったのは初めてだ。
リラクゼーションを前面に出した店内とはまったく雰囲気が異なっていた。どこにでもありそうな事務所だ。
ちなみにこの奥がスタッフの待機室になっているらしく、そこで女性たちがメイクを直したり、お弁当を食べたり、担当顧客のカルテを整理したりするらしい。
きっと雪恵さんも、その待機室で僕のことを待っていてくれたのだろう。
デスクの一角に、警備会社の制服を着た男性が座っていた。
噂で聞いた事がある、各店舗に一人ぐらいは警備員がいて顧客とのトラブルがあると出てくるようだ。
僕の前を歩く店長は、中年の綺麗な女性だ。その昔はギラギラとした目つきの脂ぎった男性が店長を務めていることが多かったらしいが、現代ではそんな危険な感じのする男ではなく、メンリフの現場を経験者した女性が店長に昇格するパターンがほとんどらしい。
この店長にあったのは初めてだが、彼女は、公式サイトの写真よりもずっと大人ぽい雰囲気の人だった。
事務所の端に設けられた小さなソファーに店長と向かい合って座り、インタビューを開始した。
「まず、このお店についてお伺いします。どんなコースがありますか」
「はい、当店では子作りトレーニングコースと基本リフレッシュコースの二本立てになっています。子作りコースの方は一定期間安定した集客が見込めます。そこに従来から風俗店にある基本コースでどれだけ集客を増やしていくのか、それが収益増のキーになっています。同系列店の中でも、基本コースのみの店は少なりました」
「昔に比べて、随分イメージが変わったと言われてますね」
「弊社は他社よりも早く、リラクゼーションに注力しております。かつての風俗店は派手な看板でお客様を呼び込み、店内はピンクの照明なんていうのが一般的だったのです。しかし、性交というのは交感神経よりも、副交感神経が優位に立たなければなりません。リラクゼーションはお客様により良い性交をしていただくための工夫のなのです」
「大学新卒で風俗店に入社する人も増えてますね」
「従来の風俗店は、個人経営が多かったのですが、現在では、弊社のように一部上場企業が経営し、チェーン展開されている店も多くあり、そのためだと思われます。でも、御年配の方には未だに言われますよ。なんでそんな仕事してんだよって」
店長が笑顔を見せたので、自分も合わせるように返した。
「過去のイメージが強いんでしょうね。私も入社以来、そういうイメージの払拭に尽力はしているのですが」
店長の笑顔が見れて、ある程度場が和んだ気がした。ここからが肝心だ、タイミングを見計らって雪恵さんのことを聞き出そう。
「それでは、店舗を運営する上で困っていることは何ですか」
「やはり離職率の高さですかね。これは昔から変わりません。大卒で店長候補として入社する人はごく一部です。大半は非正規雇用です。非常に体力を使う仕事ですし、現場で接客をしているのは、ほとんどが非正規雇用の女性たちですから」
そう言った後、店長は声を落として言った。
「実は土本も非正規だったんですよ」
急に雪恵さんの名前が出てきてドキッとした。
僕は慌てて笑顔をつくり、そうなんですねという感じで、相槌を打ってみせた。
すると今度は軽く首をひねりながら彼女は言った。
「これは、言うべきかどうか悩むのですが・・・・・・」
急に表情が険しくなった。そして、ひねっていた首を元に戻し、一度大きくうなずいてから口を開いた。
「その離職の原因となっているのがお客様からの迷惑行為なのです。ときに罵声を浴びせられたり、場合によっては手を挙げるお客様もいます。そんなときは警備員にお任せするのですが、それよりも深刻なのがスッタフに付きまとう行為をするお客様がいるということです。私共もお客様のことを無暗に疑ったり、なるべく警察への通報も控えております。そのため対処方法として、帰宅途中に雑踏で巻いたり、電車をいつも使わない路線に乗り換えたりするなど、彼女たちに自助努力をさせているのですが、それでも自宅まで付いて来てしまう方もいるようです。この様な事が後を絶ちません。お客様の中でも子作りトレーニングコースをご利用の方には将来を決めた伴侶がいらっしゃると思います。その方のためにもこのような行為は是非お辞めいただきたいです」
店長は力強く話終えると、落ち着いた声で続けた。
「今の若い世代の方は、子供の頃から夢サプを飲んでいると思います。一説にはあれを飲んでいると恋をしたくなくなると聞いた事があります。それでもこういう行為に走る人がいるとは、女性の肌とはなんとも強い力があるものだと驚いておりまして」
そう言って彼女が笑ったので、僕も苦笑いをして返した。そして今度は僕に告げ口をするようにいった。
「土本も同じようなことで悩んでまして、何度か相談を受けました。あの子、小学生のお子さんがいるんですけど、辞めてどうするつもりなのか心配ですよ」
僕は、どのようにリアクションしてよいのか分からなかった。茫然としているところで、店長の軽い溜息が聞こえた。
そして、彼女は続けた。
「最近は、どこに行ってもロボットが働いてますね。仕事を奪われる方も随分増えたと聞きます。でも、そんなロボットでも代用の効かない仕事がいくつかあると言われています。その中の一つが私共の仕事ではないでしょうか。フィジカルトレーナーは、いつの時代であっても、人ありき仕事に変わりないと信じております」
5:回想
師走の空は暮れ易く、昼を過ぎればもうビルの陰に陽を落とす準備をしている。空を支配している寒気は弱々しい陽の光を抑えながら、その存在感を知らしめていた。
僕は、乾いた空気の中で息を切らせながらベンチに座り込む。荒い息を整えながら、ここが公園であるのだと気づいた。
母親に手を引かれた幼い女の子が、寒さなどどこ吹く風と甲高い声を上げて遊具の方へ歩いていく。
母親はその声に合わせるように、笑顔でうなずく。目の前を通り過ぎてゆくその光景に、僕は胸を締めつけられるような思いがした。
メンリフで取材を終えて店を出ると、急にやりきれない思いに駆られて走りだした。
駅前の商店街から、ガードレールを潜り抜けて、オフィス街を通り越して、その先にある公園まで走った。のんびり歩いていたら発狂してしまいそうだった。
全力で走りながら、自分の苦しい息づかいが聞こえた。限界を超えていることはわかっていた、それでも肺が潰れてしまいそうになるまで走り続けた。
荒い息が徐々に整うと、さっきの店長との会話が頭の中で再生された。一度再生が終わると、また最初に戻って始まってしまう。
その店長の言葉に混じって、雪恵さんが映る。雑踏を歩く姿や電車を降りてゆく姿が。
あの行動は僕を警戒した上でのことなのだろうか。それとも他に迷惑な客がいて警戒していたからなのだろうか。僕が尾行したときは一度も彼女と目が合っていない。
そうだ、他に嫌な男がいたんだ、そうに違いない。だから雪恵さんは、あんなことをしたんだ。そう思い込もうとしても自分のせいではないという確証もなく、また同じことを繰り返し考え始めていた。
そんな無限ループの中で、僕の脳裏にある言葉が浮かんだ。薄っすらと浮かんだその言葉は、次第に濃度を高め、重くのしかかった。
奇行。
そうだ僕がWINWINだと思っていた行動はただの奇行でしかなかったのだ。
まだ恋が流行っていた平成の頃、特定の異性を付け回すストーカーという存在が、社会問題になっていたという。
被害者は心的に多大なる侵害を受け、ときには肉体的に被害を受けることもあったという。
学生時代、図書館でそのストーカーに関する書物を読んで加害者は馬鹿だなと思った。
なぜそんな愚かで、情けないことをするのだと軽蔑していた。でも、雪恵さんを好きになって気づけば僕はそいつらと同じことをしていた。
遠くの方で、さっきの子供の声が聞こえる。どのぐらい時間が経ったのだろう。
その子は遊具に飽きて、母親の前で回らぬ口で歌を唄っている。何の歌なのかは分からないが、母親はその子の前に座って小さく手拍子をしていた。
雪恵さんには、あの子よりもっと大きい子供がいた。
メンリフの営業時間は十時から二十二時までだ。雪恵さんの出勤時間はいつも朝から夕方にかけてだった。僕は彼女の勤務時間に何ら疑問も抱かずにいた。
あと数日で、小学校は冬休みに入るのだろう。そしてその休みが明けるころには、彼女とその子は新しい街にいるのだろう。
雪恵さんと一緒に暮らす小学生の子供、その小さくて大きな存在に僕は打ちのめされていた。
メンリフで取材が終わって店の外まで店長が見送ってくれた。別れ際、改めてお礼を言おうと向い合った次の瞬間に彼女の視線が泳いだ。
その視線に合わせるように僕は斜め後ろに目をやった。すると視界には、見慣れた白い手が飛び込んできた。
そして、その母親の手に繋がれて色白の幼い子供がいる。目は細く物静かな雰囲気の男の子だった。その子は、人前で恥ずかしくなってしまったのか、その繋いでいた手を急に離して、はにかんで見せた。
「あら、もうこんなに大きくなったの」
店長がそういうと、母親はいつものように静かに微笑み、手に持った菓子折りを差し出した。
「事務所に入って、みんな居るから」
そう言いながら、店長は菓子折りの袋を受け取る。
「え、これ高かったんじゃないの。そんな気を使わなくていいのに」
彼女の気が、受け取ったお菓子の方に向く。 その刹那、ほんの少し間が開くと、母親の視線は動き僕と目が合った。母親は僕に会釈をしたので、僕は礼を返した。
気が付くと、店長は母親に視線を送っていた。険しく凍り付いたような視線、何か嫌なものでも見た後のような目つきだった。母親はその視線に同調するように、しっかり受け止めていた。
そして、ほんの一瞬小さくうなずき、失笑したように見えた。
「それでは、失礼します」
店長は僕にそう言うと、男の子の手を取って店内に戻っていく。母親もそれに続いた。
「今、一年生だっけ」
手を取った彼女の声に男の子はうなずく。店内に入り、姿が見えなくなると、笑い声が聞こえた。
「やだ、ビックリした、なんで居たの」
いつになく、母親は張りのある声を出していた。
「あたしも、どうしようかと思って」
店長の声がそれに続いて聞こえた。
笑い声に混ざったその言葉が心に深く突き刺り、僕は店を背にして走り出した。
さっきまで歌を唄っていた女の子と母親は手を繋いで公園を後にする。
その後ろ姿をただなんとなく見つめていたら、両足が小刻みに震えていることに気づいた。芯まで冷えた体をベンチから引き剥がすように立ち上がり歩み出した。
陽はもう随分斜めに傾いて、その衰えた姿を見せていた。どうしてだろう、この冷え切った肉体よりも、胸の中の方が、よほど凍てついている気がするのは。
凍傷にやられた心で体を動かす。気づけば随分遠くまで来ていた。黄昏色が浸み込む見慣れぬ街を歩きながら、微かな記憶を頼りに駅の方へ歩き始めていた。
6:結婚式
ペテルギウス、シリウス、プロキオン、冬の大三角形。オリオン座、おおいぬ座、こいぬ座。それぞれ星とその形成する星座がこのベールには縫い込まれている。僕はそのベールを通して空を見上げた。
鉛色の空、風はないが、辺りの空気が底知れぬ寒さへと誘う。僕は羽織っていたストールを脱いで係員に渡す。
「準備は、よろしいでしょうか」
その係員の問いかけに僕は、
「はい」
と静かに答えた。
雪恵さんに会えなくなって二か月が過ぎた。途方もなく長い時間のように感じ、また光のような速さで過ぎていった時間だった。
この鉛色の空の下で、ウエディングドレスが不自然なほど鮮やかにきらめいている。
ドレスからのぞかせた僕の肩に、針を落としたような冷たい感触がした。
空を見上げると剥がれ落ちた雲がハラハラと宙を舞い、視線を落とせば、路面を濡らし始めていた。
「雪」
僕の傍らで母が声を漏らした。
こんな日に、あの人は産まれたのだろうか・・・・・・。
鐘が鳴る。
係員が扉を開け、僕は母と腕を組んでバージンロードを歩いて行く。
列席している信長さん、喜伝や柚都を含む大勢の人たちから拍手を受けて、目に涙を浮かべ、清雲のもとへ進んだ。
神父の前で永遠の愛を誓うと、タキシードを着た清雲が、僕のベールを上げる。
僕が目から雫をこぼすと、彼女は僕の涙の理由に気づくことなく、同じように目を潤ませていた。
その夜、僕たちは初夜を迎えた。
僕は清雲の服と下着をやさしく脱がしていった。細身の清雲の肌は固く、骨と貼りついているようにすら思えた。
あの人とは異なる肌に僕は覆い被さり、唇を重ね、舌を入れた。レッスンのように互いの舌が上手く絡み合わなかった。
僕が清雲の首筋を舐めると、彼女は少し体をくねらせる。僕はやさしく体を元に押し返す。
乳房を触る。彼女はぐずるような声を小さくあげて、再び体をくねらせた。
僕はそれを慰めるように押し返えすと、その乳房に唇を近づけ舌で愛撫していった。
駄々をこねるように、体をくねらせる清雲をあやしながら、あの深雪のようなやわらかな肌を懐かしく思い出していた。