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#82_「探究」のリフレーミング

2年前に卒業した高校生たちに会った。この世代は、どっぷりと「探究」に浸かった世代だ。「高校でも探究を!」という気持ちを強くもった人たちが多くいた世代だ。

彼らが高校生になって、はじめて探究している姿を見る機会があった。地域に開かれた授業公開があったので、「地域住民」として参加した。「久しぶりに見にきたぜー」なんてことに絶対にならないように、こっそりと参加した(何か月ぶりにマスクをつけただろう……あんまり意味はなかったけど……)。ありがたいことに、高校で探究を担当している先生とも、じっくりと話をさせていただくことができた。

授業公開を通して、いちばん感じたこと。それは「とまどい」だった。

中学校でやってきた「探究」とは、何かが、ちがう。

イメージしていた「探究」とは、ぜんぜん、ちがう。

中学校でやっていたのも「探究」、高校でやっているのも「探究」……。じゃあ「探究」って、何なの?

彼らが中学校時代に取り組んだのは、「自分自身を探究し、自分の将来展望を創造していく探究」である。いわば、「人文系の探究」である。探究を進める単位は、基本、「個人」である。

彼らが高校で取り組んでいるのは、「実験を通して検証・実証していく探究」である。いわば、「理系の探究」である。探究を進める単位は、基本、「チーム」である。

そりゃあ、ちがうわ。

とまどいがあるのも、よくわかる。

「探究」って、使い勝手のいい、あやふやな言葉だ。
もはや、「探究」という言葉を使わずに、教育活動を象ったほうがいい。

私にはそう思えた。

「探究」という言葉を使わない。

そういう規矩を、自分に設定しようとすら思う。

私たちは、そして、今の社会は、「探究」という言葉に、いろんな意味や願いや期待や要望を、つめこみすぎた。

もう「探究」という言葉の容器は、あふれかえっている。どんどん「意味」が注がれてくるので、そこからこぼれおちる「意味」も出てくるだろう。

「探究」という言葉しかないから、「探究」という言葉を使っているだけ。

そう思うことにしよう。

私から「探究」という言葉を取り除く。

探究の最先端をいく高校の授業公開から、私が学んだのは、たぶん、これだ。おかげで、先に進めそうだ。


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