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【小説】虫旅行

 目を閉じると、視界の端でみどり色の残像がゆっくりと流れていく。天井から水面を照らす太陽みたいに明るい白色灯を見つめたせいだ。まるで一緒に泳いでいるみたい、と僕はプールの温水に浸りながら、無意識に持ち上がる口角に気が付いた。
 背泳ぎは好きだ。耳まで水に沈むと、まわりの音が聞こえなくなる代わりに自分の呼吸がやけに大きく聞こえてきて、ひとりぼっちになったような感じがするのが、特に好きだ。
 クロールも平泳ぎも出来ない僕は、ただぽっかりと水に浮かぶことに夢中になった。それから、天井をじんわりと眺めながら、ただ小さく足だけをばたつかせて、カタツムリが葉の上を注意深く進むのと同じようなスピードでのろのろと水面を切っていくのが何よりも好きだった。

 また橋本君の家に遊びに行きたいな、と僕はずっと思っている。
 ペンキが剥げて錆だらけの、真夏でも冷たいステンレス製のドアを開けると、日陰の匂いが充満している、橋本くんの家。ベニヤが欠けてそこだけ焦茶色の木肌が見えているキッチンには、取っ手が溶けて削れているおたまとか、なぜか長さが違う菜箸とか、乾いて茶色くなった大根おろしがへばりついたおろし金、かちかちに乾燥した米粒、学校から届いたプリントで出来た冷蔵庫など、僕の家には無いものがたくさんあってまるで外国に来た時のように感動した。
 モザイク模様のように何色もの薄いクッションが床を隠すように敷き詰められていて、しっとりと湿っていた。やたらと甘い小さなプリンを一緒に食べて、見たことない漫画を一緒に読んだ。

 橋本くんは虫みたいだ。
 わざわざ暗く湿ったところに住み、頭が痛くなるほどに甘い物を好む。

 ママもパパも「あの子の家には遊びに行くな」と口を揃えて告げることに、正直に言えば僕はとても驚き、失望した。ママはいつも僕に友達とは仲良くしなさいと教えてきたし、パパは、人間を大きく強くするのは好奇心だと口癖のように言う人だったからだ。橋本くんにはその全てが詰まっているのに、ママとパパの云う「友達」や「好奇心」はその中でも良いものと悪いものがあるらしく、結局どんなものであろうとそのすべてを受け入れるつもりのない、ひどく不寛容な言葉だった。
 僕はベッドの上に寝そべって天窓から覗く月の光を見つめた。
 月と星の間に壁はなく、時折、絹のような雲が月を撫でて逃げていく。喧しく灯る星の火は絶えず月に話しかける。孤独を知らない月は、星のない昼にはまるで怯えてしまったかのように顔を見せることはない。

 ママとパパが寝静まった深夜、しんと冷たい夜の真ん中で、僕は一人目を覚ます。軽すぎる羽毛の布団をめくり、這うようにしてベッドから抜け出る。学習机の上のデジタル時計は午前一時を表示していた。

 がちゃりと大袈裟な音のなる出窓を開けると、車道を挟んだ向こう側に立っている人影が目に入った。橋本くんだった。

「ごめん、今行く」
 僕は大きな小声で話す。橋本くんの表情は見えないけど、きっと笑っているだろうことが生ぬるい空気を伝わってわかる。
「いいよ、ゆっくりおいで」
 橋本くんは足元の小石を蹴飛ばした。

「おまたせ、今日はどこにいく?」
 僕が上着のボタンをしながら声をかけると、橋本くんは黙って歩き出した。僕はその背中を追う。
「河川敷に行こう。あの大きな橋の脚。普段は橋の下なんて見ないだろ?近くで見ると橋脚ってすごく大きいんだ。橋脚の陰、橋の下。あそこならとても孤独だ」

 僕と橋本くんがこんなふうに夜中に出歩くようになったのは、三週間くらい前の夏が始まった頃だ。初めは、学校のプールに忍び込む計画だった。だけど鍵がかかっていて入れなかったから、二人で校舎を探検した。そして、校舎の裏にある窪みに僕は心を奪われたのだ。

 学校の中から見ればそこは教室のある棟と体育館をつなぐただの廊下であり、広さはせいぜい三メートル四方程度、コの字型に建物の壁に囲まれて一辺だけが開かれた真四角の窪みで、意味のある窪みではない。

 深夜の静寂からも切り離されたように、より一層の無音が真っ黒な塊となってその場に滞留していた。無造作に伸び切った雑草が、ここを人の作為から離れた場所として証明していた。月の光も、国道の街灯も、車のヘッドライトも届かない暗闇を見つけた僕と橋本くんは、呆気にとられてしばらくその闇に見入っていた。

「宇宙みたい」

 橋本くんがぼそりと独りごちた。
 いつか、学校の図書館で読んだことがある。宇宙飛行士になるには音も光も届かない真っ暗な部屋で何十時間も過ごす訓練があるそうだ。
 一言でいえば、一人ぼっちになる訓練だと僕は思う。もしかしたら本当に、宇宙はこんなふうにして漂っているのかもしれない。

 僕と橋本くんは、その窪みの真ん中に座り込む。今まで感じたことのない孤独。隣にいるはずの橋本くんも、消えてなくなったみたいだった。
 それは僕が十年間生きてきて一度も感じたことのない感覚だったし、十年間生きてきて一番望んでいた感覚だった気がした。僕は一人ぼっちになりたかった。おそらく、今までずっと。そして、これからも。

 橋の下、橋脚の袂はあまり良くなかった。橋を渡る車の振動や、時々、人の話し声さえした。コンクリートに背中を預けて、橋本くんが「ここは少し違ったかな」と苦笑した。

「俺は暗いところにいればそれだけで落ち着くんだけどな」
「僕はもっと音がない場所がいいな」
 僕が言うと、橋本くんは笑った。
「君は、一人ぼっちになりたいんだよな」

 上を見上げると雲の切間からささやかな月の光がもれているのが見えた。それと、やはりしきりに話しかけるように瞬く星たち。
 月を一人にしてあげてほしい、と心の中で願った。宇宙には孤独が満ちているけれど、夜空に孤独はない。たった一人、本当の孤独を知らない月がなんだか不憫に思えてくる。同時に、月の光に照らされた橋本くんの顔が寂しそうに翳ったのを、僕は気づかないふりをした。

「明日の体育、憂鬱なんだ。パスの練習、二人一組だろ。どうせ俺は余されるからさ」

 橋本くんがちらりと僕の方を見ているのに気がついていたが、僕は川の水面に波紋が広がるのを見ている。いつも橋本くんは僕が欲しいものを手にしてるな、と思って苛立っている自分に気がつく。

 湿った暗く狭く臭い家。誰にも話しかけられない人間関係。羨ましい。僕も橋本くんのような、虫けらみたいな人間になりたいな。
 僕が橋本くんと毎夜のように出かけるのは、彼から「孤独」を奪うためだ。僕と一緒にいることで橋本くんは孤独を手に入れることはできない。

 どうせ家に帰ると、僕には暖かいふかふかの布団が用意されている。朝になれば焼きたてのパンとスープと余るほどの食事が作られている。うんざりするほど僕にとって必要のないもの。

「今度また橋本くんの家に遊びに行ってもいい?パパとママはダメだって言うんだけど」
 僕が言うと橋本くんはパァっと明るい顔を見せて、
「うん、おいで。いつでもおいで」
と早口で言った。

 僕が月になる時、橋本くんは星になる。
 橋本くんが月になる時、僕は星になる。

 橋本くんの縋るような目つきは苦手だけど、彼は僕が求めるものを持っていて、彼は僕を望んでいる。あの湿って汚れた家を思い出すとわくわくする。汚れてもいいように着替えを持っていこう。すぐに捨てられるように靴下の替えも必要だろう。


 日曜日の朝、ママの悲鳴で目が覚めた。螺旋階段を降りるとママが助けを求める視線を僕に向けた。
「虫が出たの、始末してちょうだい!」
 僕は棚の上の新聞を丸めて、壁に留まる小指ほどの大きさの虫にむけて素早く振り下ろした。逃げられないように角度を調整しながら。

 毛のように細い足が散らばり、壁紙に液体が付着している。静かに潰れたその虫を見て僕は無意識に持ち上がる口角に気がついた。



おわり





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