短編『迎春』(1-1・1)

 睨み合うように顔を向かい合わせているロードマップは、朝露でしっかりと濡れていた。いや、夜露、というべきだろうか。

 白い湯気がもうもうと立ち上る魔法瓶を右手に持ち替えて、左手首の腕時計に目をやる。間もなく午前四時になろうとしていた。
 真夜中と変わらない暗闇の中で、千紘ちひろのヘッドライトがちらちらと忙しなく左右に揺れている。辺りには、千紘と同じように初日の出を山頂で拝もうとする数名がロードマップを見つめていた。

 絵で描かれた登山道を指で追いながら確認する年配の夫婦。温かい飲み物を回し飲む若いカップル。大学生くらいの男の子は三人で輪になって足踏みをしている。

 千紘は少し居た堪れない気持ちで空から舞い降りる小さな雪の粒を見上げた。そして、自分に向かって降る雪と逆行するように昇っていく白い吐息を見つめながら、どうしてこんなところにいるんだろ、と呟いた。

 今年の……いや、違う。去年の初日の出は生まれて初めて山頂で見たのだ。一気に辺り一面が暖まるような優しいオレンジ色に包まれた瞬間のことを、千紘はこの一年間忘れられずにいた。あの光を見た時、これから先、なんとなく全てがうまくいくような気がした。だからこそ、春に特集記事を任された時も、巻頭の企画に選ばれた時も、あの初日の出が運んできてくれたのだと素直に感謝することができた。
 これは自分の力じゃなくて、あの光が私に運を与えてくれたおかげだと、千紘はそんなふうに考える自分に驚いていた。

「すごいね、ちーちゃん。絶対、来年の初日の出も一緒に見に行こうね」

 夏の盛り、襟元と袖口にフリルがついた涼やかな水色のブラウスを着た彩花あやかはまっすぐに千紘の目を見て白い歯を見せた。
 細かい水滴がついたグラスの中いっぱいに入ったレモンティーが氷を泳がせてカラカラと音がなる。その音を思い出すと、千紘の胸が子猫のように早足で脈打つのだった。

 彩花は千紘が勤務する出版社が編集を外注する編集プロダクションのライターだった。
 千紘がお酒についての記事に関わった際、その文を書いたのが彩花で、打ち合わせの段階でウイスキーに興味があると話すと、記事が出来上がったら飲みに行こうと彩花が誘ってくれたことがきっかけで付き合いが始まった。あまりお酒が強くないからと二の足を踏む千紘に、私が千紘さんの分も飲むからと言って千紘の腕を引いた彩花が先に酔い潰れてしまい、彩花の家までタクシーで送り届けた話は、彩花が千紘をちーちゃんと呼び、千紘が彩花を呼び捨てにするような関係になってからもたびたび話題にのぼるのだった。

 「よっしゃ、登るかー」と大学生の一人が大きめの声をあげると、友人と思しき二人は小さく乾いた声で笑い、おう、と応じた。大きめのダウンジャケットにセンターパートの黒髪は、まるで彼らのドレスコードのように三人に共通していて、千紘は三人をパンツの色で見分ける以外方法がなかった。

 彼らをきっかけにしてカップルも手にしていた飲み物のキャップを閉めて歩き出す。千紘が歩き始めようとした時、後方から肩を叩かれて、千紘は飛び上がりそうになった。

 「あ、驚かせてごめんなさい。あなた、お一人?」

 肩を叩いたのは、年配夫婦の女性のほうだった。ニット帽から耳周りの白髪が顔を出している。おそらく、帽子を外すと品の良いパーマが白髪を嫋やかに飾っているのだろう。男性とともに、上から下まで有名なアウトドアブランドで固めた姿は、逆に登山に縁遠く見える。

 「そう、ですね。一人で、はい」

 寂しいやつと思われないようにだとか、山頂まで一緒にと誘われたらどうしようだとか、様々な思いが頭を行き交った結果、社会性のなさそうな片言の返答をしてしまい、千紘はもう一度返事をやり直したい気持ちになった。

 「あら、そうなのね、明けましておめでとう。私たち、初日の出を見にくるなんて初めてのことでね、恥ずかしい話、ちっとも準備をしてこなかったの。だけどみなさん、きちんと明かりを用意してこられてて」

 女性はそう言って、千紘の前頭部についたヘッドライトを指先で示した。

 「ああ、これは私も去年買ったきりなんですけど、一緒に登った友人があったほうがいいって言ってくれたのでその時に。私も普段から山登りするわけじゃなくって経験者なんて言えないんですけど、もし良かったら前を歩きましょうか」

 辺りは相変わらず暗闇が回遊魚の群れのように漂っていた。分厚い雲が星も月も隠してしまって、雪こそまばらだが、本当に日が昇るのかどうか疑わしいくらいだ。

 「助かるわ、この歳になると足元が不安でね。ねえ、お父さん。お姉さんが前を歩いてくださるって」

 そう言って、女性は男性の方へ駆け寄った。男性は少し距離を取っていたが数歩近づいて笑顔で小さく頭を下げた。
 千紘は会釈を返しながら、先ほど肩を叩いたのが彩花かと期待してしまった、と思い返していた。

 期待。確かに、あの瞬間、千紘が抱いたのはかすかな期待だった。彩花があの笑顔で、千紘に声をかけてくれるという期待。
 今日だって、ここに到着してから何度周囲を見回しただろう。
 彩花の姿はなかった。
 頭の奥で、カランと氷がグラスを叩く音がする。次の初日の出も一緒に見ようと言ったのは、彩花のほうだったのに。

 うっすらと積もった雪を踏むと、ググッと音がした。登山道に続く道を歩きながら千紘はもう一度振り返ると、奥さんが指で丸を作ってにっこりと笑った。

 

 夫婦の足取りは思ったよりも軽く、千紘の息が上がる程度のペースで歩いても遅れずについて来ている。
 昨年にはなかった降雪に千紘も戸惑ったが、初心者向けのこの山は登山道が整備されているため滅多なことでは危険はない。とは言え、この時間帯は道が暗く、当然のことながら街灯もないため転倒の可能性もあるから注意する必要はある。
 左を向くと森林の隙間から街の明かりが見える。標高が上がるにつれて、吹き付ける風も強くなってきた。

 「大丈夫ですか?かなり風が強くなって来ましたけど」

 千紘が振り返って言うと、奥さんが息を吐いてから、

 「そうねえ、かなり着込んできたから寒さは平気。ごめんなさいね、私たちに合わせて歩いたら日の出に間に合わなかったなんてことない?」

 と空を見上げて言った。

 「少し明るくなってきましたね。大丈夫です。ここから日の出までまだ一時間くらいかかるので、ゆっくり歩いても十分間に合いますよ」

 千紘はすでに荒くなっている呼吸を悟られないように穏やかに発声した。奥さんの後ろからご主人の声が聞こえる。

 「時間もそうだが、雲行きが心配だなあ。曇っていても日の出は見られるものですか?」

 その通りだった。雪も止み、天候は悪くないが、頭上にのしかかる大きな雲は切れ間すら見つけられないほど、空一面を広く覆っていた。決して標高の高くないこの山では、山頂からでも日の出が見られないことも珍しくはないと聞いたことがある。

 「きっと大丈夫。なんといっても初日の出ですから。見られると信じましょう」

 千紘の声に、二人が頷いたのが分かる程度には明るさが戻ってきていた。
 早起きの鳥の鳴き声が聞こえてくる。鳥の声を聞いた途端、夜ではなく朝だと感じられるから不思議だ、と千紘は思った。


 山頂に着いた頃、時刻は午前六時半を少し回ったところだった。

 「今日の日の出は七時過ぎのようなので、まだ時間に余裕はありますね。大体そちらが東側なので、太陽はそちらから昇ります。お疲れ様でした」

 千紘は深々と頭を下げて笑った。じんわりと汗ばんだ首元に当たる冷たい風が心地よく、上着のファスナーを少し開けて東側を指差した。
 入り口で一緒だったカップルや大学生もすでに到着しており、ロッジの入り口で風を避けたり、すでに東側の展望台に立って場所を陣取ったりしていた。

 「本当に助かったわ。あなたがいなかったら初日の出も見られなかったに違いないもの。なんだか、今年はもう良い年になったみたい」

 「そうですねえ、初日の出を見られるかどうかは少し雲行きが怪しいですけど……」

 千紘が目線を東に向けると同時に、誰かが遠くで「ここまで来てみられなかったら最悪じゃない?」と笑う声が聞こえた。

 彩花は、来年の初日の出も一緒に見ようと言った。彼女がいなかったから、今年は天候に恵まれなかったのだろうか、と千紘は思う。

 彩花と千紘は十月から、会っていなかった。
 彩花に依頼していた千紘が担当する記事の原稿の上がりが遅れたことがきっかけだった。

 「ごめん、ちーちゃん。今、原稿が立て込んでて。やらないとまずいものから順番に終わらせてるから少し遅くなるかもしれないの」

 電話口での彩花の口ぶりに、千紘は苛立ちを隠せなかった。私の仕事は優先順位が低いってこと?そう思うと、思いがけず口調が強くなる。

 「ねえ、締切の管理もライターの仕事の一つだと思うよ。彩花は一応プロのライターなんだからさ、遅くなるかもしれないじゃなくて、いつまでに入稿できるか日にちを指定してくれないとこっちも予定が立たないんだよね」

 「……わかった。今、確認するね。十二日までには、入稿できると思う。締め切りが十五日だから、それで間に合うよね?」

 信用できない、と千紘は思った。
 そもそも十五日の締め切りだって、打ち合わせの段階では十日だったものを彩花のスケジュールに合わせて延長したものだった。それなのに、間に合うよね?なんてよく言えたものだ。

 「わかった。それじゃ、十二日ね。間違いなくそこでお願いします」

 電話を切った後、自分の言葉の余韻に千紘は少し苦いものを感じたが、それよりもすぐに取り掛からなくてはならない仕事が山積みで、気に留めることはなかった。
 念のため、別のライターさんに代わりの原稿を依頼しておこう。千紘はスマートフォンの連絡帳から、めぼしいライターをピックアップした。

 「やっぱり、ダメみたいねえ」

 奥さんが展望台の柵を掴んで残念そうにこぼした。
 日の出の時刻を過ぎても雲が晴れることはなく、水に溶かしたようにぼやけたオレンジ色の明かりは少しずつ広がって、やがて朝の青さが山頂を包む頃には、初日の出を期待する登山者も少しずつ帰って行くのが見えた。

 「ここまで粘ってもダメだってことは、今日はもう見られないですね。これから晴れたとしてももう日の出じゃないし」

 奥さんに無念さを伝えながら、千紘は思いがけず自分の落胆ぶりを感じていた。そうか、山頂まで登ったとしても日の出が必ず見られるわけではないのか、と、図らずも自らの読みの甘さを痛感することになったからだ。一年の中で一度しか訪れないチャンスで、自分には運が巡って来なかった。

 大きく息を吸い込むと、冷たく澄んだ空気が肺いっぱいに広がる。
 相変わらず姿を見せない一月一日の太陽は、それでも明け方の登山道が嘘だったかのように暖かく山頂の人たちを照らした。千紘は細かい砂利の敷かれた舗装路を踏み締めるようにゆっくりと歩き、展望台の手すりにそっと手を載せる。

 大きな鳥が風に乗り、両翼を広げて街の上を滑空していた。国道を走る車はそれほど多くない。山肌の、白雪の隙間から立ちあがる裸の木々が不自然なほどに黒々と見える。

 「お疲れ様。助かったよ」

 後ろから声がして千紘が振り返ると、ご主人が缶コーヒーとペットボトルのほうじ茶を持って立っていた。千紘は会釈をしてから、それじゃあと缶コーヒーを受け取る。

 「残念でしたね、初日の出。見られなくって」

 プルタブを開けるとコーヒーの甘い香りがかすかに千紘の鼻腔をくすぐった。
 ご主人も、ペットボトルのキャップを開けると湯気の立つほうじ茶に口をつけた。

 「まぁこんなこともあるさ。普段、家の中で寝転がっているだけの私たちが一時間以上かけて山を登ったんだ。それだけで意味のあることだよ」

 ご主人は街を眺めながら微笑む。風に吹かれた前髪が額にくっつき、それを指で払った。

 「考えてみれば、私たちは今日、初めて太陽を迎えに来たような気がする」

 「たしかに、いつもは登ってきてくれるのを待ってばかりですね」

 ご主人は、ふふんと笑って、

 「大抵は待ってもいないさ。目覚めた時には太陽はすでに昇っている。私たちはいつも見送るばかりで、迎えに行こうなんて考えたこともなかった」

 雲の陰に、オレンジ色が見えた日の出直後の数分間。千紘の頭の中にはカランと氷の音が響いて聞こえた。

 
 ねえ、彩花からごめんねって言ってよ。
 お酒を飲みに連れ出してくれた時みたいに、初日の出を見に行こうって誘ってくれた時みたいにさ。
 私は、いつも待ってることしか出来ないんだよ。本当は、ずっと謝りたいのに、待ってることしか出来ないの。

 「迎えに行くなんて、そんなに難しいことじゃないんですけどね」

 千紘が笑いながら言うと、ご主人は千紘の方を向き直ってまたほうじ茶を一口飲んだ。

 「そう、少し早起きして、一時間くらい歩くだけ。少し面倒だけど、どうってことはない」

 「まだ下りがありますよ」

 ふと気がつくと、千紘の太ももは小刻みに震えていた。頭につけたヘッドライトを外してカバンにしまう。タオルを取り出して首に巻く。
 千紘は、普段から慣れていないからかな、と笑って両手で太ももを押さえると勢いよく歩き出した。

 麓のバス停は、平日とは比べ物にならないほど空いている。しっかりとアスファルトで舗装された歩道を歩きながらファストフード店やコンビニが視界に入ると、まるでこの数時間のことは幻だったように思えたが、心地のよい疲労感とズキズキと痛む足裏が現実にあったことだと知らせてくれた。

 このままバスに乗って、家に帰る。緩やかに現実と非現実が溶け合うように、その曖昧な境界を時速五十キロでバスは進んでいった。
 窓の外には雪が降っている。短い正月休みを思うと千紘は肩を落とした。

 別れ際、一緒に下山した夫婦は何度も繰り返し礼を述べた。

 「上で言い忘れたことがある」

 と、ご主人が言った。

 「少しの早起きと一時間くらい歩くこと。そのほかに、前を歩いてくれる人が必要だ。道を照らしてくれる人。そういう人がいるから、私たちは来年こそは抜かりなく準備が出来るようになる」

 「また来年、ここで会えるといいわね」

 
 千紘は一月一日の普段より少し静かな街を窓越しに見つめながら、来年の一月一日に思いを馳せる。去年の一月一日のことも、少し思い出してみる。




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