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老犬と私

二ヶ月くらいで書き終えようと思っていた小説が、半年を過ぎても佳境に差し掛かる気配すらなく三万字を突破してしまった。ある程度、短めの小説を書いてnoteに載せていこうと考えていたのに、あまりの長文はnote向けではないだろうし、どうしたものか。

そもそも、私は小説なんて書ける人間ではなかった。
小さい頃からとにかく計画性がなく、こつこつ積み重ねることが苦手だった私にとって、創作は憧れであった。アキレスと亀のように永遠にたどり着けない完結を目指して走り出すまでは良かったが、空っぽのガソリンタンクではすぐに力尽きてしまうのは火を見るよりも明らかだ。設定も展開も見所も、創作に必要なすべての準備を放棄したまま「何かを創りたい」という欲望だけで何百とスタートを切った覚えがある。

そういうわけで、保育所から小学校卒業まで将来の夢は漫画家だったのだが、何一つ完成したことがない。小説も書いた。というか、書こうとした。映画も撮った。というか、撮ろうとした。完成したものは一つもなかった。

我が家には犬がいる。
妻と一緒に住み始めた時に迎え入れたミニチュアシュナウザーで、そろそろ十五歳になろうかという老犬だ。思いつくすべての方法で可愛がり、休みの日には倒れるのではないかというくらい長く散歩もした。

今日も仕事が終わってから近所を散歩しながら、私につきまとうのは彼に対する後悔の念である。

彼は元気すぎたのだ。
その元気が可愛くてたまらなかったのだが、やがて妻が長女を身籠ることになる。

時々、夜中に走り回る若いミニチュアシュナウザーは寝室で眠っている私の腹や顔に着地する。これが妻の腹に直撃したら、と、深夜に私は思った。

結局、妊娠期間と新生児期を合わせた約二年間、彼を妻の実家に預けて暮らした。その後、我が家に帰ってきたあとも、長男、次女と家庭内に赤子がいるのが常態化した我が家で、彼はケージから出るタイミングを逸してしまった。朝と夜のほんの短い散歩の間しか彼の自由な時間はなくなってしまったのである。

「ずっと気になってたけど、そろそろケージから出してあげられそうだよね」という話になり、留守の間以外はケージから出せるようになった時、長女は九歳になっていた。若かった彼は徐々に歳をとり、歩く姿も覚束ない老犬になっていた。

以前よりも圧倒的に眠る時間が増え、少しの段差も避けられず、うっすらと濁った目は細かいところは見えていないようだ。

ペットショップでモニターに映し出される映像の中で、若い犬が海に飛び込んだり草原を走り回ったりしている。犬生を謳歌し切っているその表情を見るたび、胸にずっしりと溜まる罪悪感。

今ではすっかり家の中を走り回る元気もなく、とぼとぼと歩き回っている。年齢の割には元気だが、以前のような活発さはなくなってしまった。彼の一番充実した時期を奪い取ってしまうことなく、みんなが楽しく暮らす方法はもっとなかったのか。

しかし、そのおかげで小さな子供たちも怖がらずに遊んでくれており、撫でてみたりおやつをあげたり散歩に連れ出してくれたりしている。アリすら怖い我が家のビビり兄弟にとってちょうど良い遊び相手になってくれている。

おそらく、若く激しい彼ではこうはいかなかったであろう。そう思いたいだけ、という節もあるが、きっと間違いないと思う。
年齢を重ねることで角が取れてバランスが良くなる、ということはやはりある。

十月は私の誕生月だ。もう三十九になる。
ちょっと優秀な中学生でもできるようなことができない、致命的な計画性のなさが少しずつ改善されてきたのは、経験だけのせいではないと思う。

ただ暴走するのみであった創作欲が衰えてきたおかげで、弱点と釣り合いが取れるようになったのだ。
若い頃には地面に置いた瞬間に飛び出していた欲望の速度が遅くなってきたことでレールを敷く余裕が生まれた。バス通勤の十五分、昼休憩の二十分、ちまちまと小説を書きながら「これを見せるためには先にこれが起きてないとダメだからこいつに動いてもらえばなんとかなるかな」くらいには考えられるようになってきた。

すっかり肌寒くなってきた夕方、激しく吠える若い大きな犬に遭遇しても、ちらりと一瞥をくれるだけで吠え返すこともなく向かっていくこともなくなった老犬の、シミだらけになった背中が先を歩いてくれているように頼もしく見えた。

ごめんね、もう少し長く散歩をしよう、と思う。

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