座談会 これからのアートと知財を考える
2020年2月21日(金) 東京・TIME SHARING秋葉原
知財学習プログラム報告セミナー「障害者アートと知的財産権」
2020年2月に行われたセミナーの内容を、4名の講師のみなさんのご発表内容をもとにこれまで少しずつ振り返ってまいりました。
講師:
塩瀬隆之さん(京都大学総合博物館准教授)
水野 祐さん(弁護士/シティライツ法律事務所)
仁科雅弘さん(特許庁審査第一部調整課 審査推進室長)
朝倉由希さん(文化庁地域文化創生本部総括・政策研究グループ研究官)
プログラム:
事業報告(たんぽぽの家)
トーク1 知財創造教育のすすめ/塩瀬隆之(記事1, 2, 3)
トーク2 表現の自由と著作権/水野 祐)(記事)
カードゲーム「知財でポン!」とハンドブックを用いたワークショップ
座談会 塩瀬隆之、水野 祐、仁科雅弘(記事)、朝倉由希(記事)
上の(記事)と書いてある文字をクリックしていただくと、それぞれのご発表内容をお読みいただけます。
さて、本セミナーの振り返り記事も、いよいよこれで最終回。プログラムの最後に行われた座談会の内容をダイジェストでご報告します。そこでは、知財にまつわるとても大切な観点が話し合われました。
座談会ダイジェスト版:
アートと知財を考えるうえで、障害があるとかないとか、分けないといけないフェーズはあるのでしょうか?(仁科)
仁科さんから出された最初の質問です。
仁科さんは、創造物や価値・共感を増やすことこそが大切だと考え、そのための基本ルールとして、「人と違ってもいい/人と違うことがいい」、「クリエイターが嫌がることはしない」を挙げておられます。ここまで上位概念で捉えると、アートと知財にとって、その人に障害があろうがなかろうが関係ないのではないだろうかとのこと。
直前の朝倉さんの自己紹介の際に、朝倉さんが、障害のある人のアートを特別なものとして、分断を生むのはよくないとおっしゃっていたことにも呼応しています。
マイクを握る塩瀬さん、その向かって左が仁科さん
目標としては、障害のあるなしで線引きしなくていい社会を作ることだが、そこに行くためには線を引かねばならないフェーズもあるだろう(塩瀬)
一人ひとりが生み出したものを全員が大切にしてくれる世の中だったらいいのだが、大切なもののすぐ横に市場があり、お金で扱える対価として交換、取引されるという世界に乗るか乗らないかという時に、線引きがいると思っている、と塩瀬さんは答えました。
これは、障害のある人以外にも、未成年の人とかも関わってくる話です。今はまだ“障害のある”とか“子供の”とか線を引かないと、結構勝手に使われてしまいそうな気がする、とのこと。
それを受けて、水野さんは、法的な観点から補足をしました。
著作権には、財産的な側面と、著作者人格権という人格的な側面の権利もあり、人格的な側面においては、障害のあるなしでの違いはないという説明はできるかもしれないが、未成年や障害のある人の意思能力がなぜ問われるかというと、財産的な側面において、処分や契約の主体性としての問題が出てきてしまうから。
ただ、今後もそうあるべきかというと、違うかもしれない。例えば、AIのエージェントなのかわからないですけれども、意思決定をカバーできる仕組みができる可能性だってある。
意思能力やら行為能力やらの意思決定をカバーできる仕組みが社会全体で出てきたりすれば、もしかすると将来的には、変えていける部分もあるかもしれない(水野)
この水野さんの発言を受け、塩瀬さんが、クリスティーズ(注:世界的に知られるオークションハウス)がアウトサイダーアートやAI創作のアートを取引した事例を挙げ、法律側が新しい取引に追いつけずにいることを指摘しました。
つまり、「それは誰に権利があるんだ?」という議論の前に、先に取引きして、値をつけて動かし始めた。時代の流れに無防備なままでいると、売れ始めると親戚が増える問題に、障害のある人のアートもすぐに巻き込まれてしまう。
そこで朝倉さんから水野さんに次のような質問が出されました。
著作物の定義の範囲とかなり違うものがすでにアート作品としてはあると思うのですが、そう言ったところのズレが、今後、修正されていくようなことはあるのでしょうか?(朝倉)
著作物の定義というと、法律上は「思想または感情を創作的に表現したものであって、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するもの」ということで、かなり限定的です。芸術とは、作品として形のあるものだと想定されています。朝倉さんらはそれを「狭義の文化」と呼んでいます。けれども、今生み出される芸術作品というのは、プロセスであるとか、人との関わりがすごく独創的であったりする。
そこで朝倉さんらは、障害者文化芸術活動推進基本計画策定の際、狭義の文化観を超えて、障害者の芸術表現というものを幅広く捉えようとしました。そういうことを踏まえての質問です。
水野さんの答えは次のようなものでした。
著作物の例示の範囲も、プログラムに関する改正など、どんどん広くなってはきているが、まだ捉えきれていないものはたくさんある。
「具体的な表現」であらねばならないというのが「著作物」のドグマのひとつとなっており、現代美術の中でもサイトスペシフィックな環境型の創作物とか、プロセスなどは、現状では「著作物」であるとは認められにくい。
したがって、どうやってすくっていくのか、広げていくのか、あるいは広げないのかという議論は継続的に行っていかないといけない。
それを受け、朝倉さんから、水野さんにもうひとつ質問が出されました。
現場の課題からボトムアップ的に法とか制度をデザインしていくってことがこれから大事だと水野さんはおっしゃいましたが、その具体的な道筋とはどういうものなのでしょうか?(朝倉)
朝倉さんは、文化政策の研究に携わっており、それまで芸術支援の方面を中心に研究を進めてきたそうですが、文化政策というのはルールづくりなんだということに、今回のセミナーを通じてあらためて強く思ったそうです。
当然ですが、法律と現実のあいだにはずれがあります。
現場でぶち当たってしまう疑問や悩み。これらを現場の人間がボトムアップにまとめていくことは、とても意義があると朝倉さんは考えていますが、さらにそこから、現場の課題をどのように法や制度として編み上げていくか、という問いかけです。
マイクを握る水野さん、その向かって右が朝倉さん
水野さんは次のように答えました。
今の意思決定は、基本的には、官僚や政治家が国の法案を作るというトップダウン型。著作権に関して言えば、誰もが関係し、お茶の間にもその名前は浸透しているのだけど、政策形成上、市井の人たちの意見が反映されづらい構造になっている。
水野さんが考えるボトムアップというのは、もっと多様なステークホルダーでもっと気軽に意見を言えるような場所とか仕組みを作っていく、というものです。
いろいろな手段が想定されるなかで、水野さんが着目している実践のひとつに、バルセロナ市役所がやっている「decidim」というデジタルプラットフォームの仕組みがあります。民主主義のリプログラミングをうたったEUの政策のひとつとのこと。
「decidim」は、いろんなイシューやアイデアを持っている住民であればたち上げられ、予算の配分とか、新しい法案のアイデアとかを気軽な言葉で立ち上げられる。バルセロナでは、公共空間、学校、子供のワークショップ、老人ワークショップなど、膨大な数のリアルミーティングが行われていて、そこであがってきた議論の中身は、「decidim」を通じてだれでもいつでも知ることができる。
これを受けて、仁科さんは、ここでいっているような「ボトムアップ的な意思形成というのを、この国でも子どもたちが将来担えるようにできないかなという思いもあって、知財創造教育の一つのターゲットとして考えていたんです」と発言されました。
「decidim」もそうですが、フューチャーセンターやリビングラボ的な欧米型の意思決定プロセスの枠組みで、市民が参加しながら新たな仕組みを作っていくという動きは、日本でもなくはないが、なかなか馴染んでいかない。
それどころか、今回のコロナウィルス対策にしても「誰かがルールを作ってくれるはず」とか、「ガイドラインがないと私たちは動けないんだ」とか、そういうことになりがち。
仁科さんは、そのあたりのマインドを変えていかないといけないという思いもあって、知財創造教育の導入に携わってこられたとのこと。つまり、
これからは自分の考えとか意見とか人と違うことを発信できる、シェアできるという能力が必要となってきていて、そういうことをやって行かないといけない(仁科)
それを受け、塩瀬さんが、「今では知財が生まれる場所が変わったんだ」と続けました。
これまでは、自分の頭の中で考えて、手を動かして作り出して、アナログで作ったものをデジタル化するかどうかの話だったので、知財の守り方もアナログ→デジタルの順番でよかった。
しかし今何が新しいかといえば、ボーンデジタル。生まれた瞬間からデジタルなものがあるので、そうなると誰が作ったかはログが残るが、どこから創作が生まれたと言えるのかを特定する方法として、今までのルールが通用しない。
しかもデジタルで作られたものは、その「重さ」がわからない。そこにどれだけの時間をかけたのかとか。軽々しいっていうのはメリットでもあるけれどデメリットでもある。だから知財創造教育はそこを知らないといけない。
いまのところは法律とルールを決める人はアナログな人が権限を持っているが、いま新しく生まれつつあるこの仕組みは、大人もよくはわからないってことだから(塩瀬)
それを受け、水野さんは、次のように続けます。
塩瀬さんがトークの際に言っていた、知財と知財権は違うんだという話は重要なことだと思っている。今時代は動いていて、新しく財産的価値が生み出されるような無形物が日々新しく生まれてきているが、知財権というのはあくまで、今のルールで権利化できるものしか権利化されていないので、その新しい財産的価値のある無形物は、今のルールでは権利化されない。
だから、教育をするのであれば、むしろそれが生み出されるような教育をし、やがて時代が追いついてきた時にルールが共有化されて、「価値があるものであるね」というコンセンサスが社会に生まれた時に初めて権利化されていくという流れがあることを伝えるべき。知財の方を重視していく。知財権ではなくて。
知財と知財権は違う。より大事なのは知財のほうだと改めて思いました(水野)
これを聞いた仁科さんは、知財と知財権は違うんだという話は、本当にその通りだと思うと言いました。
知財の重要性は変わらないが、従来型の知財権については、その位置づけがこれから相対的に落ちていくかも知れないと思わされることが起きているそうです。
仁科さんいわく、例えば、「いいね!」の数が売買されるといった形で、権利にはなっていなくても無形のものに対して大きな経済的価値が生まれたり、流通が起きたりしているというケースや、技術の寿命が非常に短くなってきていて、権利を取るまでの間に次の技術が出てきてしまうということも起きている。
その一方で、クリエイティブ・コモンズも差止請求権があるからこそ、ルールに従わない人に対しては、最終的にこれを行使してクリエイターを守るという仕組みになっている。
従来型の知財権も重要で意味もあるのだが、今後は人格権な性質を増していき、それが価値をより持つようになるのではないか(仁科)
つまり、名誉とかいいねとか、共感みたいなところで経済的価値が測られていくようになるのだとすると、もしかすると知財権は段々、人格権な性格を増していくのではないかと仁科さんは予想されています。
以上が座談会で議論された内容の骨子です。
この日を境に、たんぽぽの家でも、より知財や知財権のことについて深く考えるようになりました。講師のみなさま、ありがとうございました。
また、この日は、知財に関する専門家の方々、障害のある人のアート活動の専門の方々、多様な出自の方々にお出でいただきました。その後、私たちの身に起こったこと、起こっていることを考えますと、感慨深いものがあります。困難な状況のなかで、お集りいただき、ありがとうございました。
ゲームワークショップの様子
この後も話は尽きませんでしたが、いったんこれで報告を終わります。
なお本セミナーは、令和元年度 文化庁 障害者による文化芸術活動推進事業「障害のある人の表現と知的財産権に関する学習・啓発のためのハンドブックの製作と普及」の成果報告会として開催されました。
(文:たんぽぽの家・後安美紀)