【EP8】発達障害者の歩む道
「弟を正しい場所へ導く」という明確な目的ができてからは、比較的物事がスムーズに運んだように思う。保健所や役所、病院などへ行くようにアドバイスしても、彼は自発的にそれを行おうとしないのが問題だ。だから常に僕が後見人さながら同行し、場合によっては単独で必要な機関に足を運ばなければならなかった。しかし、所詮は今では社会的責任の伴わない関係である。仕事で実害を与えられるよりは精神的な負担はずいぶんと小さくなったように感じた。
事実、彼はプライベートで接している分には発達障害者だとほとんど分からないのだ。部屋が驚くほど汚いので(ゴミで足の踏み場がない)、彼の部屋に一歩足を踏み入れれば知識のある人間なら発達障害を疑うかもしれない。しかし日常のコミュニケーションをとっている分には「少し暗い人」「いい加減な人」「どんくさい人」程度の印象である。見方によっては「おおらかな人」ととることもできるだろう。
彼を通して発達障害について思うのは、彼らはおそらく「社会的責任」を果たすことができない。発達障害を考える上で「責任」というのは非常に重要キーワードである。
プライベートで友達との約束を破っても「なんだよお前、いい加減にしろよ」と言われ、最悪でも友達を失うくらいで済むだろう。しかし仕事で先方との約束を破ったなら「いい加減にしろよ」では済まされない。発達障害は仕事であろうがプライベートであろうが、分け隔てなく責任を果たせないように思う。問題は、プライベートでそれがあまり問題にならないということである。ここに世間一般の理解を難しくさせる理由がある。
独身生活であれば、だらしなくてもどんくさくても大した問題ではないかもしれない。しかし、社会人として生きる上でこれらは致命的ではないか。
結婚もまた責任の伴う社会活動と見れば、発達が結婚生活においてパートナーに負担を与えるのは当然だろう。やがて子供が生まれれば、発達の注意力のなさや想像力のなさ、共感能力のなさから家族を傷つけたり、子供が事故にあったりケガをしたりするかもしれない。恐ろしいことにその可能性は決して低くないのだ。もちろん、そのしわ寄せはパートナーなど周りにいくだろう。
こういう理由から発達は社会不適合者だといわれることがあり、幸せな結婚ができない人達といわれることもある。ネガティブな情報が先行し、企業が発達の雇用に消極的になったり、パートナー選びに発達を避ける人が増えたりするのは当然なのかもしれない。そしてこういう背景が、発達の社会活動や恋愛・結婚を難しくさせているように思う。
彼らが現状社会での経済活動や結婚に向いていないのは事実かもしれない。では彼らはどうするべきなのか。彼らはどうやって生きていくべきなのか。その最終的な結論は、やはり彼ら独自の社会を形成し、そこで仕事や結婚などの社会活動を行うことではないだろうか。
定型と発達の関係は、どうやってもフェアにはならない。現状社会では、定型が発達の足りない部分を一方的に負担しなければならないのが現実である。国籍が違い言語も習慣も違う人間を、社会という一つの箱の中に押し込めているようなものだ。そこで平等な人権を謳うのは、果たして本当に民主主義的なのだろうか。
しかし発達同士であれば程度の差こそあれ立場は平等だろう。であれば権利だって平等にシェアできるはず。これで初めて民主主義的で平和的な彼らなりの社会が成立するのではないだろうか。
発達の中には、特定の分野に長けた才能を持つ者が多いと聞く。僕の弟は手先が不器用で美的センスや芸術的センス、創造性がないため、クリエイティブな仕事に就くのは難しいだろう。だが根はまじめで情報収集は得意である。そういうふうに各々の長所をかき集めれば、組織の歯車として機能させることは不可能でないかもしれない。
問題は、多大なリスクを承知の上で、発達をまとめるリーダーを務めたがる定型が少ないということ。あまり現実的ではないが、発達のリーダーはやはり発達であるべきだと個人的には思う。いずれにせよ彼らが住みやすい社会が作られるまで、あと数年か数十年はかかるのかもしれない。
今、発達に与えられた選択肢は、社会保障か経済的な自立か。二つに一つのような気がする。遅かれ早かれどちらかの結末に行き着くのだろう。
多様性が尊重される社会は遠い。
解説)
当時は「発達は発達同士でうまくやればいいし、その方がうまくいく可能性が高いのではないか」と考えていましたが、今はそう思いません。むしろもっとうまくいかないのではないかなと思っています。
そして発達をまとめるリーダーは発達であるべきだという当時の考えにも、やはり懐疑的です。「発達のリーダーはやはり定型の方がいいのではないか?」という思考を経由し、今は「そもそもリーダーなんていらないのでは?」と考えています。
物事の方針を決定するリーダーは必要でしょう。しかし実際に指揮を執る人材は不要なのかもしれません。要するに脚本家は必要だけど監督やディレクターはいらないという考えで、映像制作においてはとても考えられないことですが、現実問題として考えるのなら彼らにはそもそもリーダーは必要なく、必要なのは役割だけなのだと思います。
これらについても追々書きたいと思っています。
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