【EP5】僕がカサンドラになった理由
発達弟の象徴的なエピソードとして、こんなものがある。
彼に事務所の掃除を頼んだ際、彼は物置からほうきを取り出すと、いきなり目の前の床を掃き出した。エアコンや窓から入る風、あるいは人の動線や間取りなどを無視して、何の脈略もなく目の前の床を掃き出したのである。普通であれば、部屋の四隅から掃き掃除をしたり、区画毎に掃いたりするはずだ。効率よく掃除するためである。
彼は「ゴミやホコリが気流にどういう影響を受けるか」というのをまったく考慮していないように見える。物事を順序だてて考えられない彼の特質を表す典型的なエピソードだと思う。
逆に考えれば、空間の気流や動線を考慮してゴミやホコリを段階的にまとめて処理するというのは、実際にはかなり高度な技術を要されるものなのかもしれない。そしてこうした片鱗が、業務や日常生活、人とのコミュニケーションなどにおいても垣間見えるのである。
このように、彼は掃除や後片付けという基本的なこともできなかった。掃除を任せてもまったくきれいにならないので、結局は他の誰かが代わりにやらなければならない。出した物は出しっぱなしで「あれを片付けておくように」と指示しても結局はやらずに「あ、忘れてました」といった具合である。これが毎日のように続くと、時間の経過に伴って周囲のストレスは次第に大きくなっていく。
人が成長するには、成功体験が必要だと当時は考えていた。だから僕は、彼にはできるだけ責任ある仕事を与えたいと思った。しかし、掃除やゴミ出しといった単純なことでさえままならない彼に、当然責任ある仕事など与えられるはずがなかったのだ。
それでも僕は健気に彼を支え、仕事を与え、できるだけ色々な経験をさせるよう力を尽くしたつもりである。ところがその多くは結局僕がフォローしたり尻拭いしたりしなければならないため、結果的には僕自身のパフォーマンスまで下がってしまう。まさに台風の目よろしく、周囲の人間は着実に疲弊し消耗していく。
とりわけ彼の管理能力のなさから顧客にご迷惑をおかけしてしまうことが頻繁に起こるようになった時期は、「真に恐れるべきは有能な敵ではなく、無能な味方である」というナポレオンの言葉が痛いほど身にしみたものだ。適材適所で彼の能力をうまく引き出せない自分自身を責めたこともある。しかし、どんなに自問自答したところで謎は深まるばかりであった。そこで苦悩するわけである。
「自分が悪いのか?それとも彼が悪いのか?」
どんな理由があるにせよ、取引先や顧客に度々ご迷惑をおかけするようなことはあってはならない。ここに「発達への理解」だけでは解決できない諸々の問題がある。
そのころの僕にとって、彼は「いるよりもいない方がいい存在」であった。“人が集まるほどできることも大きくなる”という当たり前の経験しかしてこなかった僕にとって、この境遇は受け入れ難いものであった。
それでも僕が彼を見捨てず、何とか道を探そうと模索したのは、単純に経営者あるいは事業者としての意地もあったのだろうし、彼にまっとうな社会人になってもらいたいという兄としての素直な気持ちもあったのだろう。しかし現実として目の前に立ちはだかる壁は、あまりに大きかったのである。
また、僕が長年培ってきた顧客への信用が、内側から一気に破壊されたのもこの時期である。もちろん僕は上司として彼を指摘したり叱咤したりはしたが、個人的な感情で彼を怒ったり、まして怒鳴ったりしたことはただの一度もない。そうしたくなったときもあったが、常に客観性と合理性を大切にしてきた。だからこそ苦悩した部分もあったかもしれない。
このままいけば、最終的には共倒れになってしまう──。
このころの僕は精神的にもう切迫しており、仕事を終えて帰宅してもまるで抜け殻のようであった。どんなに美味しいものを食べていても、楽しい映画を観ていても、頭の中で常に「どうすれば……」と考えていたように思う。あらゆる手を尽くして現状打破を試み、そのすべてが失敗に終わったこの時期、まさに四面楚歌で絶望していたのだ。当時を振り返ったとき、妻はそのときの僕を「動く肉の塊」と比喩した。
心がなく、笑顔もなく、ただ動くだけの肉の塊と化した僕は、よほど人間らしさを失っていたに違いない。
解説)
カサンドラ絶頂期であったこのころ、自分の状態やカサンドラの症状などについてはほとんど記述していません。できなかったのです。症状と対峙する勇気と気力がまだありませんでした。「鬱かもしれない」という現実を直視するのをためらっていたのです。
ですがこのころの私は本当にもぬけの殻のようになり、すでに鬱の自覚症状はありました。また、ずっと良好な関係でいた妻との衝突や摩擦、すれ違いが起こり夫婦仲が不穏になった時期でもあります。
このときの私の状態や妻との出来事などについても、別の機会にお話ししたいと思っています。
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