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【ep13】発達障害者と共にどう働くか

「発達とは付き合わないのが一番」などと一刀両断してしまっては元も子もない。今一度原点に立ち戻り、発達とどう付き合っていくかという前向きな目線での僕の考えを、そしてそれがいかに難しいことなのかも併せてお話ししたい。

発達を部下に持った僕の一番の苦悩は、実務上での負担であった。彼は、メモすらまともにとれないのだ。「忘れないように」とメモを促しても、書く内容はカテゴライズ化されず支離滅裂である。他人の僕がそのメモを見てまったく内容を理解できないのと同じく、本人にすら理解できないのだから困ったものだ。

この問題を解決するには、それこそ分単位で彼にやるべきことを一つひとつ指示するしかなかった。ところが僕には僕の仕事があるわけだから、「そのゴミを拾って捨てなさい」「そのボールペンをペン立てに戻しなさい」などといちいち指示していられないのである。厳しい言い方になるが、彼にまっとうな仕事をしてもらうには、専属の子守が必要だった。

となれば多少職場が汚れたり散らかったりするのには目を瞑り、実務に関する指示を徹底するしかない。

しかし今度は報告書を作れない。業務上の資料を作ったとしてもどこかのサイトをただ印刷しただけ。アイデアもなければ意見もない。「やれ」と言われたことはできないし「やれ」と言われないことは余計やらない。「何もできない」が絵に描いたように体現される状況。正直なところお手上げである。さてどうするか。

彼はほとほと無能であったが、もちろん悪意があってそうしているわけではない。むしろ性格としてはまじめな方である。そこで事業者として僕に残された道は一つ。「無難なタスクを延々と与え続ける」ということであった。端的にいえば彼の成長や進歩には期待せず、ただ淡々とできる仕事だけを与えるのである。

彼に十分な報酬を与えて働いてもらうのが理想だが、しかし現実は彼の報酬を僕が捻出している状態であった。そこでタスクを与えたところで、彼が経済的に潤うはずがないのである。

また成長や進歩を期待しない単純労働を与えることに抵抗があった。

どこの親が、子育てにあたって子どものアイデンティティと未来を犠牲にし、ただ事業利益に貢献するだけのマシーンを育てたいと思うだろうか。彼の労働に可能性がないと知りつつ、そのまじめさだけを利用してリソースを買うという選択は、経営者としては正解かもしれないが、一人の人間としてあるいは兄としてどうなのか、とても悩んだのである。

本人の幸福や未来につながらない業務を与えるくらいなら、多少の損金が生まれても可能性のある教育を施したいというのが僕の考えであった。事業を営んでいる人からは「甘い」とお叱りを受けるかもしれない。しかし、これが僕の偽らざる本音である。

ところが実際問題、僕のこの考え方は彼とうまくマッチングしなかった。今となっては何が正解だったのか知る術もない。

嘘をついて人を欺き、だらしなく無能な彼ではあるが、それは悪意をもって人を貶めたいという動機からくる行為ではないようだ。彼からすればおそらくそれは精一杯の保身であり、自己防衛なのである。

そんな彼の将来や可能性を見限り、成長や進歩の見込みのない業務を延々と淡々と与え続けるというのは、弟の成長や発展を目的とする兄の目線からすれば非常に不健全で不快なものだ。

そして恐ろしいことに、現代社会において「上が下を搾取する」という行為は当たり前のように行われている。「社畜」や「ブラック」という言葉が世間に定着してから久しい。

「搾取されること」を受け入れるのなら、発達の居場所はあるだろう。とくにルーティンが求められる単純作業などには向いているかもしれない。実りのない、ただ生活費を稼ぐための仕事を延々と続ける彼らの姿を見たとき、僕は素直に「これでいい」と思えるだろうか?

やりがいのある仕事に就き、成長や発展の可能性に期待しながら働く方が健全ではないか?

定型発達にかかわらずすでに多くの人間が、生活費を稼ぐために自分の時間や労力、精神を雇用者に売りすぎている。この非情な現実に僕はやるせない思いでいっぱいなのだ。

誤解なきよう明言しておくが、僕は特定の政治思想や信仰などに傾倒していない。ただ中立的に、客観的に、とりわけ身近な人に幸せでいてもらいたいと願うだけである。


解説)

この手記を書いたころの私はちょうどカサンドラ絶頂期で、何とか自分の頭や心を整理しようと必死でした。頭の中では「弟を責めないように。彼は悪くない。これはすべて特性の問題で彼に悪意はない」と自分に言い聞かせつつ、心では弟を恨み憎んでいました。「あいつのせいで」「あいつさえいなければ」「悪意がなければ何をやってもいいのか」と。

その葛藤の中で、自分に言い聞かせるように書き上げた手記だったと思います。

いまだに思います。私は彼を許しているのか、それとも許していないのか?

わからないのです。

だからこそ、私はこの問題を建設的に前向きに受け止めるために何かをしようともがいています。

手記の公開もそう。

こうして当時の手記を、今ようやく読み返せるようになりました。平静に読み返し解説を追記できるまで精神状態が安定した。

苦しい作業ですが、誰かがこれを読んで楽になったり自分の中にある疑問や不安が少しでも解消されたなら、私は「書いてよかった」「カサンドラや発達障害と向き合ってよかった」と思えます。この「小さな肯定」を積み重ねていくしか、本当の意味でカサンドラを克服する方法がないように思うのです。

いつか「カサンドラになってよかった」とすら言えるよう、しっかりと未来を創っていきたい。

さて、当時の私は「成長と進歩のない労働を弟に与えたくない」と書いています。実際にはそういう仕事もぼちぼち与えていたのですが、今は考え方がまったく違います。

「どんなに小さな仕事であれ、自分で働き稼いだのならそれは間違いなく成長であり進歩である」というのが、今の私の考え方です。

この変化は弟が発達障害と診断されたことや、私自身が発達障害への造詣を深めたことなども影響していると思います。

また当時の私は、弟に期待し過ぎていたのかもしれません。私が想定するレベルまで彼を引き上げることにばかり気を取られ、弟が実際にできることとできないことに十分な関心を払えていなかったと思います。当時は発達障害と知らなかったので、致し方ないのかもしれません。

まだ「やればできる」と思っていましたし「苦手は克服できる」と思っていました。「メモすらできない人がいる」ということなど考えもしていなかったのです。

根底には「退屈な仕事をさせたくない」という思いもありました。どうせなら生産性があってクリエイティブで楽しい仕事をしてほしい。楽しみながら働いてほしい。そのために必要なスキルやノウハウを与えるつもりだったのですが、現実はこの通りで途方に暮れるわけです。

現在は弟が発達障害であることが明らかになりました。もしまた弟と仕事をともにすることがあれば、次はもっとうまくできるかと思います。以前はとにかく教育に悪戦苦闘しましたが、そもそも教育などいらないだろうという境地にまで私の考えは達しています。必要なのは教育でなくシステムと商材であると。

これについては現在執筆中のコラム「発達障害者の楽園」に詳しく書いておりますので、ご興味ある方はどうぞご覧になってみてください。


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