プロローグ
2016年7月から一年と少しの間、私は発達障害者とともに働きました。私の実の弟です。ここに記すのは、その壮絶で生々しい日々の記録です。
私は発達弟と過ごしたこの一年と少し──というとても短い期間で心を病み、仕事どころか日常生活に支障をきたすほど気落ちしてしまいました。心が死に、体がもぬけの殻になりました。心療内科へは行っていません。そんなお金を捻出する余裕がないほど生活は傾き、通院の気力すらわかないほど完膚なきまで打ちひしがれてしまったのです。結果、私は事業をたたみ、家賃の低いオンボロ借家へやむなく引っ越すに至りました。
私は個人事業主です。主に執筆業をしています。独立してもう15年を過ぎたでしょうか。併せて自社製品の製造や物販なども行っていました。国内でそれなりにヒットし、海外へ順調に輸出を開始した矢先の出来事でした。そしてその当時、私はこれまでの経緯や自分の心情、発達障害やカサンドラ症候群に対する考えなどをあるがままに記録しました。皆さんにお読みいただくのは、その手記の一部始終です。
この手記はもともと、自分の頭と心を整理するためのものでした。ごく私的な記録です。不満や悲しみとも違う、謎めいた脅威におののいていた当時、「書く」という作業が一つの救いになっていました。
しかしそれ以降、この手記を読み返すことはありませんでした。当時の記憶がフラッシュバックしトイレに駆け込む事態に陥るためです。
少しばかりの時間を経て、今はこの手記が発達障害への理解を深め、それに苦しむ方々の苦悩を少しでも軽減し、できることなら問題を解決するヒントやきっかけになれば──という思いで公開を決意した次第です。
当時を振り返るには、まだ早いような気もしています。カサンドラ症状が寛解したとはいえ、体から血の気がひいて心がざわつく不気味な感覚がまだあるからです。それでも今なお苦しんでいるどなたかの救いになればと、そして私にとりついた悪しきカサンドラの魔女に完勝するために必要だと思っています。
発達障害やカサンドラに苦しむ人を、ただただ減らしたい。
数年前に比べれば、発達障害は広く世間に周知されました。ダイバーシティの推進に伴い、発達障害者を積極的に雇用する企業も現れるようになりました。しかしもってそのスピード感は「まったくもって遅い」というのが、今の私の所感です。
実際のところ、発達障害というものの存在が広く知れ渡ったからといって、それがどのようなものなのか、あるいは社会や実生活に対し具体的にどのような影響を与えるものなのかを理解している者に、私はほとんど出会ったことがありません。発達障害への理解があるのは「発達障害当事者」か「カサンドラ症候群当事者」、あるいは「発達障害の子を持つ親」などがほとんどです。つまり、概ね当事者にしか実態が見えていないのが現実です。
発達障害やカサンドラの現実が、少しでも多くの人に認知していただけるよう願うばかりです
私と弟の関係について簡単にお話ししておきます(私と弟のプロフィールについては自己紹介で書いていますので、お時間ある方は併せてご覧ください)。
先にお話ししたように、私は独立して15年ほど経つ事業主です。弟はというと、バイトや就職をしても一年たらずで辞めてしまい、実家で親の世話になっていました。私はちっぽけとはいえ事業が好調でしたので、弟の自立を願い「将来的に独立やうちでの雇用を視野に入れて働いてみる?」という形で打診した次第です。
これが地獄の始まりでした。
この時はまだ、自分の弟が発達障害者だと知りませんでした。私だけではありません。親を含め誰も知らなかったのです。「少しどんくさいやつだな」、「内気なやつだな」と思う程度で、幼少時代に少なくとも10年程度はともに過ごしているにもかかわらず、それ以降も交流していたのにもかかわらず、私自身発達障害という言葉や症状を何となく知っていたのにもかかわらず、私は彼が発達障害者だと仕事をともにするまで、まるで気付きませんでした。
なぜなのか?
ここに発達障害やカサンドラのいびつな難しさがあると思います。
これらについて私の率直な考えを、本編にてお話しします。
【お読みいただく前に】
お読みいただく前に、便宜上いくつか表記ルールを設けています。誤解などを招かぬよう、はじめに以下ご留意いただけますと幸いです。
※以降便宜上、定型発達者(※1)を「定型」、発達障害者を「発達」と表記を統一いたします。
※登場する発達障害者(弟)は発達障害と診断され、障害者手帳も取得しておりますが、本編執筆開始時点ではまだ診断が下されていません。
※1 「定型発達者」とはつまり、大多数と同じく発達した普通の人、発達障害者でない者とします。執筆や閲覧の便宜上統一いたします。