【ep11】発達障害者が嫌われる理由
発達は自己評価が低いケースが多いと聞く。というのも、幼少のころから人間関係や恋愛、社会活動などにおいて共感してもらえる相手が少なく、叱られたり怒られたり嫌われたりする経験が多いことによるという。
空気を読めず約束を守れず、自分本位で他人を蔑ろにすることばかり行っていてはそれも致し方ないことだろう。悪意がないからといって、人はそれを許すだろうか?
社会的な理解が深まればあるいはそれも可能かもしれないが、純真無垢な子ども社会においてはことさら困難である。「いじめ、ダメ絶対!」の合言葉で発達特性を子どもは寛容に受け入れられないからだ。子どもは残酷である。
では社会認知が進めばそれで解決になるだろうか?
答えは「No」である。
人の誠意や真心を踏みにじる行為というのは、古今東西忌み嫌われるもの。たとえ発達への理解が深まったところで、結局は定型が我慢しなければならないという構図に変わりはない。アンフェアである以上、理解は問題の抜本的解決とはいえないのである。学校内の「特殊学級」のような形で、健常者とそれ以外の子を区分するしかないだろう。だが社会には犯罪者の社会復帰枠はあっても、発達障害者の自立支援枠がほとんどない。
一方、悪意なき発達にとって、この現実はとても過酷で残酷なものだ。本人は何とか社会とうまく折り合いをつけるよう一生懸命やっているにもかかわらず、その努力が認められることもなく評価されることもないのだから。気分としてはまったく言語の分からない外国にいきなり放り出されたようなものかもしれない。
おそらく現状社会において、彼らの努力がそれに見合った形で正当に認められるケースはあまり多くないだろう。もちろんこれは蔑視的な意味合いではなく、要するに定型基準で作られた社会である以上、ある意味仕方のないことである。
発達弟も当たり前にできるはずのことをできなかったり、仕事でへまをしたりするたびに落ち込んでいた。とりわけ事業に損害を与えて僕が叱ったときなどは、それこそ絶望したかのような自己嫌悪に陥っているのが見て取れた。
それはそれで悲痛である。僕は僕とてたいそうなことをやらかされ、その後の始末に追われる一方、彼の心情を思えばただ短絡的に「ダメな奴」のレッテルを貼る気にはなれない。なぜなら僕には自力で歪みを矯正する能力があるが、彼にはそれがないのだから。
「俺は有能、お前は無能」と割り切ってしまうのもいいかもしれない。だが冷静に考えて、僕ができることをできない彼は、おそらく僕以上に打ちひしがれていたのではないだろうか。
上司か部下かという立場も多分に関係はあると思うが、それ以前の問題として彼には物事の重量を測る能力がない。つまり僕が「たいしたことない」と告げればその問題は彼にとってゼログラビティであり、「これは深刻だ」と言えばブラックホールなのである。僕が0から100の段階で物事の優先順位を考える中、彼にとって常に物事は0か1かなのだ。
そんなわけで軽度の問題でも重度の問題でも、彼は同じように打ちひしがれる。ただし、どれだけ打ちひしがれたとしても次の瞬間にはそれを忘れているという神がかった才能の持ち主でもあるということを付け加えておかなければならない。