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【EP2】定型と発達、棲み分けられない社会

玉石混交で定型も発達も分け隔てなく自立を促される現代社会。

その社会が定型のルールで成り立っているのなら、発達がそれに順応できないのは不自然ではない。しかし人には理知があり、感情があり、規律がある。それを自然と捉えて出来上がったのが現状社会であり、もし発達に適応した社会が成り立つとすれば、それはひどく自堕落的で規律もけじめもない、見るに堪えないものではないだろうか。

現実的に考えてこの問題を解決するには、定型と発達は個別の社会で棲み分けるしかない。つまりは山に登るにしても、別チームとしてそれぞれの適性に合った環境に身を置くべきなのである。

ところがそういった社会制度や環境が整えられていない以上、発達は苦しみながら、そして周りを苦しめながら、意地でも山頂を目指すしかないのだ。あるいは医師の診断を受けて障害者手帳を交付してもらい、社会保障を受けるか。それとも生活保護を受けるか。

アメリカでは既に、発達障害が大きな社会問題となっている。日本国内においてもこうした問題が近年になってようやく議論されたりメディアで取り扱われたりするようになった。

しかし発達障害は持って生まれた脳障害が原因であり、原則として外科的あるいは薬学的な治療で完治するものではないという。発達障害の因果が医学的に解明されたところで、結局は誰も救われないのである。

当事者やその周りの人達を救うには、医学よりも社会で考える必要があるだろう。理想は、彼ら独自の社会やコミュニティで経済活動を行うこと。しかし目下のところ必要なのは、「こういう特性を持った人が、現状社会でどう生きていくか」というハウツーではないだろうか。

僕が発達の実質的部下を持って分かったことは、「社会で彼とは共存できない」ということであった。

その理由などについては別項でお話しするが、共存できないと分かった以上、彼を然るべき場所へ導くのが僕の次の使命だと考えた。現在は既にその使命をほとんど終え、両親にバトンタッチした次第である。その際に僕が提示した道筋は、“医師の診断をもらって障害者手帳を交付してもらうこと”であった。

手帳を交付してもらえれば、多少は年金が給付されるかもしれない。それが無理だったとしても、税金や年金といった人生の固定コストが免除される可能性がある。最終的に障害者枠での雇用を狙うのが、社会復帰あるいは自立への唯一の可能性だと考えたからだ。

最悪、生活保護を受けたり、定職に就かずバイトを一年単位で転々としたりするしかないかもしれない。しかしいずれにしても、手帳の交付が社会復帰に向けて、あるいは彼が生きていく上で有用であると判断したのである。彼自身も、また両親や周囲の人間も、僕のその意見にはおおむね賛成であった。

だが、これが当該問題の根本的な解決策でないのは明らかである。社会的なサポートにすがるというのは苦渋の決断あるいは苦肉の策であり、願わくは社会がもっと多様なケースに応じられるような柔軟な形に変わってもらいたいもの。しかし、資本主義が進むにつれてそれがどんどん難しくなっていくのは、昨今の不景気や雇用問題から察するに難くない。

併せて自助会やコミュニティなど、当事者間の情報交換やサポートなどに期待できそうな機関や組織を案内してもらえるかもしれないという期待があり、役所や保健所に同行したり病院に同行掛け合ったりもした。しかし残念ながら東京都内でも正式にご案内いただけるものはなかった。「東京都内でも──」である。地方ならなおのこと発達障害者に居場所はないだろう(注釈:2017年当時の状況です)。

それどころか、発達障害を診断できる医師そのものの絶対数が圧倒的に少ないというのが現状だ。調べたところ、都内でも大人の発達障害の診察を受け付けている病院は、十件に満たないほどしかなかった。

保健所に案内してもらった都内の病院も同数程度である。そして、そのすべてに問い合わせて診察まで漕ぎ着けられたのは、なんとたったの一件。タイミングもあるだろうが、専門医が少ないことに加え、発達障害の診察を求めている人が激増しているというというのが背景にある。

つまり、この社会に発達の居場所などどこにもないのだ。

この現実に直面したとき、僕は発達にもカサンドラにも救いがない現状社会に失望するしかないのだった。

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