発達障害者の楽園①
発達障害者と共生する方法をずっと考えています。そして最近、ようやくその答えに近いイメージができあがってきました。定型と発達が共存するにはどうすればいいのか。
共存といっても、組織としての共存体系です。個人的な共存は無理だと思うので離別が正解です。
さて、これについて考える前にまず、なぜ両者は共存できないのかという理由について考える必要があります。ぐっばいカサンドラでも言及していますが、社会的責任が緩和され個の負担が軽減された世界こそ、発達障害者が生きやすい社会ではないかと私は考えています。そしてそれは言うまでもなく、定型にとっても生きやすい社会です。
実はベトナム人ってすごい
唐突ですがベトナムの話です。
以前インバウンド向けのWEBサービス構築に携わったとき、ベトナム人の方々と交流する機会がありました。彼らは基本的にマイペースで、働かない人に対して世間が厳しい目を向けることがないお国柄なのだと聞きました。ニートが昼間から堂々と酒を飲んで昼寝していても非難されないそうです。「人は人、自分は自分」という当たり前の意識が根底にあるのでしょう。いわゆる同調圧力にほとんど無縁な国民性なのかもしれません。彼らがおおらかな気質なのは、実際にベトナム人の方々と触れ合って肌に感じました。
日本人からするとルーズでだらしなく見えるかもしれませんが、彼らは要するに物事に寛容で、良い意味で雑なのです。私が思い描く理想の社会は、ベトナムのそれに近いのかもしれません。あるいはこれを沖縄に言い換えてもよさそうです。間違いなく発達障害者にとって生きやすい社会の一つだと思います。社会福祉や制度で何とかカバーするのではなく、そもそも根底から「人それぞれ」と、異端を感情的に排除しない国民性がある。これは現地人の幸福度にかなり大きな影響を与えていそうだと感じました。
一方、とくにベトナム人男性は時間やマナーなどにややルーズな人が多く(しかしどういうわけか女性は非常にまじめな印象です)、日本のビジネススタイルと相容れない部分があるのも事実。どちらがいいというわけではありませんが、私はベトナムスタイルの方が人間として健全なんじゃないかなと思うのです。
日本人は確かに凄い。時間を守る。電車も遅れない。それを前提に緻密なダイヤが組まれている。あらゆるビジネスがこう。逆にいえばささいな失敗が全体の大きな損失につながるようにできている。
寝坊?遅刻?忘れてた?
私だって本当はそんなささいなミス、「そんなどうでもいいこといちいち報告しなくていいよ」って言いたいのですよ。
発達障害の問題点~周囲の感情~
Twitterをやっていると、発達障害当事者が生きづらさに苦悩しているTweetを見ることがあります。「同じミスを何度も繰り返して上司に怒られた」とか「空気が読めなくて仲間外れにされた」「大事なタスクをうっかり忘れてしまった」といったいわゆる典型的な特性に悩む方が多い印象です。
私はこれは組織のシステム的な問題であり、個の弱点を補う人事なりシステムなりを作れば解決はそれほど難しくないと思っています。あくまで技術的な話で、これを難しくしているのは変化を嫌う企業体質や周囲の人間の否定的な印象や反応、感情などでしょう。
当事者のために周りがリソースを割いても、当事者が別の部分で周囲をサポートして成果をあげられればwinwinなわけで、人員をいかにうまく配備するかで整合性のある環境作りが可能になると考えています(チームであれば──が前提ですが。繰り返しになりますが一対一でこの考え方は成立しません)。
実際問題として、本当に難しいのはむしろ周りの感情の方。
「発達のためにどうして周りが合わせなきゃならないんだ?」という不満を抱く人間が一人でもいれば、人事や環境の合理的な整備に十分な効果を期待できなくなってしまいます。負の感情が連鎖し、チームとしてのパフォーマンスを著しく下げるでしょう。これを防止するにはやはり、発達障害への理解が欠かせません。チームの一員として発達が定型に負い目なく馴染めるのが条件です。それを可能にするのが教育でしょう。
言い方を変えればこれは、発達が社会に適合できないのと同じように、組織が社員に適合できていないということでもあります。発達自身がこの課題にどう取り組むかを考えるのは大切ですが、もし社員個々を生かす道を考えるなら、組織がこの問題にどう取り組むかの方がはるかに重要です。
あるいはあくまで組織としての成長率に固執する(現状社会における企業のほとんどがそう)のなら、発達社員を解雇するのが道理──ということになります。
いずれにせよ仕事がうまくいかず周りの人間ともうまくやれず、ついに仕事を辞めてしまった発達当事者の方などには、自分を責めてもらいたくないと思うのです。
自責があれば救いはあります。自責がない人にまで手を差し伸べる義理は私達にはありません。もちろんあなたにもです。
発達障害の問題点~共感力の欠如~
発達特性による弱点は、環境を整備することで補うことができます。しかし課題はこれだけではありません。もっと重大な課題があります。それはいわゆるASDなどに顕著といわれる「共感性のなさ」。つまり「自責がない人間」です。
多くの仕事はチームワークです。
チームワークに共感は欠かせません。
たとえばチームでバスケをするとき、監督は「おい佐藤!これからお前の右側を抜けていく相手のボールをカットし、そのボールを左手で体側に寄せつつ両手でキャッチし、ハーフラインで方向転換したら右手でドリブルを開始しながら左足を前に出して走り始め、次に右足を左足よりも前に出して加速し、ダブルドリブルにならないようにドリブルを維持しながら相手側のゴール左側手前5mまで移動したら、両足を揃えて停止しシュートのフェイントをかけながら後方5mにいる田中にダイレクトパスを出せ!」
──なんて説明してられます?
そんな監督がもし本当にいたら私は完全に「丁寧に自己紹介する長久命の長助か!」ってベターに突っ込むと思うんですけどね。
仕事もこれと似ていて、実際のスピード感に合わせて適宜コミュニケーションを簡略化し、アイコンタクトや必殺の空気読みで採算を合わせながら進行するのが普通です。発達はこれができないため、チームに入れないわけです。行動がちんぷんかんぷんなのでチームの邪魔にもなるし、周囲からは「あっち行け」と言われるかもしれません。こういう中にポンと放り込まれた発達は悲劇としか言いようがない。
私はカサンドラですから、発達に足を引っ張られる周囲の気持ちは痛いほどよくわかります。ですが冷静に考えてもみてください。この状況で一番傷つくのは発達当事者ではありませんか。
私はそんな発達に同情しますが、だからといってお情け的に入れ込むわけでもないのです。さんざん弟をかばってバカを見た身ですから。このケースでは発達に身を引いていただくか、あるいは棲み分けていただくのが正解です。
発達の共感性の乏しさはときに、定型のサポートを難しくします。定型が同情して手を差し伸べても恩を仇で返してきますから、二度と手を貸してやりたくなくなるのですよ。チームから邪険に扱われているから傷ついているのかなと心配し「大丈夫?何か手伝おうか?」と優しく声をかけると、「あ、うん。あいつらマジで人間としてクズだから死んだ方がいいわ。あ、俺のお茶淹れといて」って言われるみたいな(笑)
いや、(笑)じゃねぇんだよ。本気で耳を疑うんだよこういうの。
この時に生じる定型の「(うわ、こいつマジかよもう二度と声かけない(涙目)」という感情的な反応は、至極まっとうでとてもよくわかるのですが、これもまたチームパフォーマンスを下げる深刻な要因の一つになります。
傷つけられた定型の発達に対する否定的な感情は徐々に伝染し、やがては発達排除の方向に力がはたらきます。いじめという形になるかもしれませんし、追放という形かもしれません。どちらにしてもこれではチームとして成り立たないのです。
こうした事象が起こるそもそもの原因は何なのか。
この問題を解消するのはなかなかの難儀ですが、物事を逆説的に考えたとき、私はある考えに至ったのでした。
それについてはまた次回。
続き→発達障害者の楽園②