三叉路、ともしび、売り物じゃない、片道切符。
秋になった。
夏から秋に変わる時期、そして冬へと移る頃、必ず思い出すのが、上に引用した山頭火の文章だ。わたしは、季節の変わり目、とくに気温が下がる時期に体調を崩しやすいので、鼻水がとまらない日がくると(寒暖差アレルギーというのがあるらしい)、ああ、山頭火の季節がきた、と季節の移り変わりを実感する。
本棚から山頭火句集を手にとって、表紙をなでる。ぱらぱら頁をめくって、目にとまった句をゆっくり読む。〈風は何よりさみしいとおもふすすきの穂〉両手で挟んで、背表紙の文字を見つめる。今日、生き抜くための糧。明日、息していることをあきらめないための糧。あなたがいなければ、わたしは今日まで、生きてこられなかった。
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わたしはほとんど勘当に近いかたちで実家を出た。口喧嘩をして、「今日じゅうに出ていけ」と父親に怒鳴られたその夜に、荷物をまとめて家を出たのである(小説みたいなことは現実に起きる!)。家を出る前に、鍵と保険証を出せ、と云われた。鍵はその場で、鍵をなくしていた弟に手渡された。見せつけるように鍵を譲渡した父と、薄ら笑いの弟がいた。「お前にこの家に帰る資格はない」と告げられたように感じたからかもしれない。その光景は、人生において忘れがたい光景のひとつとして、鮮明に記憶されている。彼らを横目に、スーツケースを引いて、リュックを背負って、家を出た。彼らとは、それきり会っていない。
ちょうど十年前の秋の夜だった。スーツケースを引いて、がらごろ、がらごろ、しじまを破きながら、長いながい下り坂を下った。二十三歳だった。若くて、無知で、貯金もなかった。
一週間くらいホームレスだった。それから紆余曲折を経て、衣食住をなんとか確保できるようになり、ひと山ふた山を越えて、現在に至るわけだが、ごく短い期間ではあるけれど、帰る家がない心もとなさを実体験として経験したことは、わたしの性格や思考、好みや創作、その他もろもろに、大きな影響を及ぼした。
その夜、自分の身に起きていることの実感が伴わないまま、急いで(でも今後必要になりそうな本を必死に選んで)リュックに詰めた数冊の本のうちの一冊が、ちくま文庫の『山頭火句集』だった。
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種田山頭火のことは、中学校の国語の教科書に載っていた〈うしろすがたのしぐれてゆくか〉といくつかの句で知った。よくわからないけどなんか好きだな、という程度で、とくべつな感慨を抱くことはなかったし、授業でも深く掘り下げられていた記憶はない。それでも、ずっと忘れずにいた。山頭火が好きですと云うと、誰ですか? という反応が返ってくることも多いので、当時も中学生なりに感じるものがあったのかもしれない。
山頭火句集を買ったのは、それから数年後。ブック・オフのアルバイト中に、買い取りで入ってきた本の山から見つけた句集を取り置きをしてもらった。有名だし、教科書で見て嫌いじゃなかったし、とりあえず読んでみるか、くらいの軽い気持ちだった。
句集を読むのは初めてだった。俳句で、しかも自由律俳句。慣れない形式であるということ以上に、何か、素通りできない感触があった。素朴で剥き出しの感情が、文字になって顕れている。こうして生まれるよりほかなかった、というような、はてしないさみしさと、まっすぐ胸に届く切実さがある。極限まで削ぎ落とされた、ことばたち。自由律でありながら、ことばを呼吸する律動にぴたりと合う、語の実在感、厚み、荒さ、温み、灯火、滴り、ぽつぽつと、水音、雨だれのような。その場の出来事や感動、感情を即席で詠んでいるかのように見える句は、しっかり推敲されている、という事実にも衝撃を受けた。
俳句だけでなく、随筆も好きだ。随筆には、彼の句作に対する姿勢が正直に語られている。『述懐』にある「句作即生活」ということばも、「呼吸するように美しい文章を書きたい」と渇望していたわたしには理想の創作態度のように感じられた。
この句集を読む以前に抱いていた、達観した世捨て人、孤高のひと、という山頭火へのイメージも大きく変わった。捨てきれないものがあるから、捨てるために、行乞の旅に出なければならなかった山頭火。旅では歩くことが嫌になり、大いにさびしがる山頭火。独りで旅することを選択したのに、世俗を、他者への執着を捨てきれない。それを隠さずにことばにしてしまえる、大胆さと傲慢さ、弱さと正直さ。句作に対する美学、確固たる意思と意図がある。山頭火が「句作即生活」とわざわざことばにしなければならなかったように、率直に飾らずにことばを綴ることは、存外に難しいのだ。そもそも文字で表現する創作物というのは、虚構と装飾で成り立っているのだから、実生活を偽りなく文字に変換することは不可能というのがわたしの考えである。山頭火の句や随筆には、“創作された”彼の生き様が生々しく描かれている。わたしは、山頭火の創るひととしての在り方が、人生ぜんぶをそこに賭けてしまったような生き様がとても好きだ。
あと、山頭火は太宰に似ていると思う。家族を捨て、酒に逃げ、常に金がない。この駄目っぷりや懊悩っぷり、開き直りっぷり、それでも句作には正直でありたいとのぞむ姿勢、死を語りながらも生への(句作することへの)なみなみならぬ執着を見せる、矛盾をはらんだその生き様が太宰に重なる。生き様を晒すのは、読者へのサービス精神ではないかとも思える。本音を語ることがサービスになる。そのように書くことができる、稀有な筆力。ふたりのまったくことなる境遇を持った作家には、たしかに共通点があるように感じられてならない。もし、同じように感じるひとがいたら、教えてほしい。山頭火と太宰のことを、同じ温度で話してみたい。
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山頭火のように生きたかった。独りでも平気だと思いたかった。書くことを続けていればわたしは大丈夫な生きものなのだと信じたかった。けれど、実際には、そんな甘い考え方では生きていけない。わたしは、自分に期待していただけの強さや賢さを持っていなかった。わたしは、愚かで弱い人間だ。(こういうことを書くと、安吾の『私は海をだきしめていたい』にあった〈私は悪人です、と言うのは、私は善人ですと、言うことよりもずるい。〉を思い出して、なんとも云えない気持ちになることも書き添えておく。わたしは愚かで弱くてずるい。)
家を出てさまざまな職を経て、心身ともに病んだ。大いに病んだ。病んだままでもなんとか働くことができる、若い女が搾取されやすい職に就いた。そこで精神状態がさらに悪化し、悪循環に嵌っていった。壊れていた。これは真水と云い聞かせて泥水を飲んだ。ぜんぶが嘘で成り立つ会話。強制される口に出したくないことば。虚無が疾走するからだ。わたしがほんとに望むのは、ただ、うつくしいことばを、持っていること。
読むことでいのちを繋いでいた。書くことで自我を失わずにいられた。誰も何もしてこない、夜明け前の静けさのなかでだけ、正気でいられた。山頭火句集を鞄に入れていた。句集が手元にないときは、紙に覚えている限りの句を書いて、なんどもなんども書いて、あるときは声に出して、ほとんどは声にならない声で唱えていた。
山頭火は〈どうしようもないわたしが歩いてゐる〉沁みた。〈青空したしくしんかんとして〉ひどく傷んだすべての部位に〈月夜、あるだけの米をとぐ〉直接に触れて〈けふもいちにち風をあるいてきた〉しかもそれが痛くなかった。〈悔いるこころの曼珠沙華燃ゆる〉たった数文字のことばに自分のこころを見つめて〈まつすぐな道でさみしい〉これだけが〈すてきれない荷物のおもさまへうしろ〉山頭火だけが〈見すぼらしい影とおもふに木の葉ふる〉わたしのかたちを知っていた。〈風の中おのれを責めつつ歩く〉泣いていた。〈そこに月を死のまへにおく〉涙も出なかった。〈また一日がをはるとしてすこし夕焼けて〉わたしのこころは。〈どこでも死ねるからだで春風〉……〈わたしと生れたことが秋ふかうなるわたし〉
山頭火のことばは、わたしの悲しみに細工しなかった。肯定とか寄り添うとか、そういったたぐいのものでもなかった。ただ、こころがそこにあった。だからはわたしは、あの日々を、生き延びることができた。
いつも、帰り道だった。たどり着く場所を持たなかった。ここは帰る場所ではないと思い詰めて、アパートに戻っても「家」とは思えず、だから部屋の中にいるのに、帰り道の途中にいた。疲弊したからだと、擦りきれようのないほど摩耗したこころが、生活を憎んでいた。手に入らないものに憧れる苦しみを誤魔化すために、憎むことでこころを守っていた。自分の暮らしぶりが恥ずかしくて、助けを求めるために他者に自分の窮状を訴えることができなかった。わたしはわたしの生活を受け入れることを拒んでいた。生活を放棄することを選んだ。追い詰められてまともに考えることができなかったというのは云い訳だ。少し考えれば分かりそうなものだ。でもその「少し」が、はてしなく大きな壁だった。生活を放棄して良いことなんて、ひとつもなかった。
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だけどたったひとつ、何もかもを間違えて生きてきたわたしが、たったひとつ、小指の先くらいに誇れることといえば、そのときの自分に必要な本を間違えたことがない、ということ。
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あの夜から十年が経った。
いま、秋の夜だ。
家を追い出されて十周年。
さいごに、十周年にふさわしい、
優しい話をしようと思う。
嘘みたいな、ほんとうの話。
今年の八月、八年前に入居した日にはすでに壊れていたエアコンを新しくしてもらった。引っ越し当時は、牛丼屋の深夜バイトの影響で生活リズムが乱れ、不眠症を発症しかけていたせいで正常な思考・判断ができず、何よりひどくくたびれており、エアコンが故障していることを管理会社に連絡できなかった。それが今年の夏、早く業者に連絡しなさい、と何度も云ってくれたひとがいたおかげで、電話をして、八年越しにエアコンを換えてもらうことができた。とてもうれしい。とてもありがたい。なので、今、この文章は暖房がついた部屋で書いている。快適である。しかも、八月の電気代は、扇風機を使っていた七月の電気代の半分以下だった。文明はすごい。
春から現在に至るまで、数ヶ月、体調を崩して、わりと深刻に生活が崩壊しそうだった。手を差しのべてくれたひとがいた。手を差しのべてくれるひとが、いる。現在進行形で、公私ともに支えてもらっている。食糧や生活用品を援助してもらったり、受けられる公的な支援を教えてもらったり、働き方を調整してもらったり、たくさんたくさん、助けてもらっている。先月の記事に書いた、ねぎを買ってくれたひと、先ほど書いた、エアコンの業者に連絡しなさい、と云ってくれたひとに。
生活を立て直していると、安定しはじめた頃に、また急に生活が奪われることが怖くなって、自ら台無しにしてバランスを取ろうとする悪癖を患っている。ここ数年、この悪癖になんども暮らしをめちゃくちゃにされてきた。生活が良くなっていくことで、あの頃の自分を裏切るように感じて怖かった。わたしだけは、あの頃の自分を抱きしめてあげなくてはいけない、と思っていた。幸せになろうとする自分をゆるせなかった。だけど、今は、少しずつ、あの頃の自分にしてあげられなかったことをしている、してもらっている、と思えるようになってきた。とても良い変化。とても大きい一歩。あなたのおかげで、わたしは、間違いだらけで生きてきた、自分をゆるせる。明るいほうに歩いてゆこうとする、自分をゆるせる。
壊れているとき、自分には、手を差しのべてくれるひとがいると知ること、他者に助けられるとはどういうことなのかを実体験として経験することは、わたしの性格や思考、好みや創作、その他もろもろに、大きな影響を与えるだろう。
山頭火のことばを祈りの文言のように唱えていたあの頃から、ずいぶん遠いところまできた。山頭火を愛することと生活を営むことは決して矛盾しない。山頭火を愛するこころで生活を営むことは裏切りではない。このことを受け容れるのに、とても長い時間がかかった。そうしてわたしはやっと、あの長いながい下り坂を下りきったような気がしている。〈ほろほろほろびゆくわたくしの秋〉
今はまだ、あなたの支えなしに歩くことは難しいけれど、いつかひとりで歩きだせたとき、あなたと顔を合わせても、恥ずかしくない人間になっていたい。これがわたしです、と差しだせるような文章を書いていたい。そう願って、いま、つたないことばを紡いでいる。
「あなたはこれから大丈夫になる、もうひとりでがんばったんだから、これからはわたしを頼りなさい。あなたが幸せになるための手助けをさせてほしい」
そう云ってくれた、あなたにすくわれて、わたしは今日を生きていている。