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冬野、りりかる、かみあえる、遠泳ののち、理由をなくす。


・『プロジェクト・ヘイル・メアリー』を読むこと。
(この記事にはねたばれがあります)
・韓国文学に触れること。
・言語学系の本で知識を増やすこと。
・詩歌をたくさん読むこと。

 というのが、なんとなく決めていた今年の読書目標だった。満足はできていないけれど、ほんのり達成できたのでよしとする。 

 今回は今年の読書の振り返りである。
 ちょっと長くなったので、お暇なときにでも読んでいただけたらうれしい。

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 今年の一冊目はブレイディみかこさんの『両手にトカレフ』(ポプラ社)だった。昨年読んだエッセイが良かったので小説も読んでみた。ブレイディみかこさんの「底辺託児所」での経験が垣間見える小説で、主人公の直面している貧困、ネグレクトや暴力など、扱う題材は重たいのに、不安になるほど読みやすい本だった。想定する読者が中高生だったのかもしれない。
 ほかにも『THIS IS JAPAN :英国保育士が見た日本』(新潮文庫)も読んだ。イギリスで労働階級の人間として暮らす著者の声が、からだいっぱいの叫びと祈りで燃えていた。地を這って生きる厳しさとそこで暮らすひとびとの逞しさを、ポップな文体で(こんなんポップに書かないとやってられないのだ、という意思を感じる)、誰にでもわかる言葉で語ってくれる。

 地を這って生きることの厳しさ、で連想する本がある。奪われることのやるせなさ。わたしたちが知らぬふりをして日々を過ごしている、この、現在進行形の罪の、重さ。『海をあげる』(上間陽子/筑摩書房)は今年読んだ本のなかでもとくに忘れがたい一冊だった。
 小学生の頃までは、夏休みになると父と母の実家に交互に帰省していた。父の実家は兵庫県、母の実家は石垣島である。沖縄本島と八重山諸島とでは事情も異なるが、どうしても、沖縄を語る文章を読んだり映像作品などを観たりすると、あの美しい海と台風と、聞いたことのない魚のお刺身と畑で育てたパッションフルーツで作る祖母お手製のパッションジュース、独特のやわらかい口調、そして本州のことを「ヤマト」と呼んでいた祖父母のことを思い出す。
 親戚のなかで、母方の祖母がいちばんそばにいて安心できるひとだった。いまだに祖母以外に、わたしがご飯をたくさん食べているだけで心底から幸せそうにしてくれるひとはいないと思っている。それでも、幼いながらに「わたしたち」のことを「ヤマト」の人間と表現する祖母に感じることはあった。急に距離と取られたようなさみしさ。祖母の人格を形成する一部である言葉。祖母と「わたしたち」との差異は、歳を重ねて歴史を学ぶたび、その言葉の孕む影がどんどん濃くなっていった。
 いま、この歳になって最も深く悔いていることは、祖父母から戦争の話をしっかり聞いておかなかったことだ。

 わたしの本名には「海」という文字が入っている。もっと云うと、3人きょうだいの3人とも、名前に海が付けられている。生まれたときに「海」をもらった。石垣島の青い海。母は海が好きで「死んだら灰を石垣の海にまいてほしい」と云っていた。わたしは母の灰をまくときに、石垣の海が濁っていてほしくないと思う。母の記憶にある青い海が損なわれずにいてほしいと思う。『海をあげる』を読んで、そう考えずにはいられなかった。

『海をあげる』を忘れがたい一冊と表現したが、忘れてはいけない一冊と表現したほうが正しいかもしれない。基地がある土地で暮らすとはどういうことなのか。基地を押しつけている「ヤマト」であるわたしたちは、自分のしていることから目をそらしてはならない。受けとった海を「きれいだ」と眺めているだけではいけない。

 何かの感想を述べるとき、これだけはぜったいに使わないと決めている言葉は、「考えさせられる/られた」である。この言葉を放ったとたんに「考えさせられる」というラベリングだけして、思考が停止してしまうからだ。わたしは学もなく物を知らない。そんな人間が考えられることなんてたかが知れている。だけどそれは、だから考えなくても良い、ということではない。何を考えさせられたのか、何を考えているのか、何を考え続けてゆくのか、を明確にできない限り、自分にはこの言葉を使えない、と思う。
 
『私家版・ユダヤ文化論』(内田樹/文春新書)に、わたしの感じている「考えさせられる」ついて簡潔に言語化してくれている一節があった。 

 私にできる誠実な態度は、「これは解決が困難な問題である」というタグを付けて、「デスクトップ」に置いておくことである。「デスクトップ」に置いて「目障り」なままにしておくことである。
 それに「解決不可能問題」というラベルを貼って「ファイル」してはならない。ユダヤ人問題については、とにかく「片づける」という動作を自制しなければならない。

内田樹『私家版・ユダヤ論』文春新書

 内田さんがユダヤ論への自分の態度を書いたものだが、「考えさせられる」というラベリングだけして、それ以上は考えないことを常態化してしまうことへの戒めとして心に留めておきたい言葉である。

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 これに似た言葉でノートに書き留めた言葉があるので添えておく。

 大切なのは、さっさと答えを見つけてその問いから離れることではなく、正解のない人生において「根本的な問いかけ」を手放さずに生きていくための力を培うことだ。

チョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』
(ちくま文庫)の評論より

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 『私家版・ユダヤ論』を読もうと思ったのは、『砂漠の教室』(藤本和子/河出文庫)を読んだからだ。『砂漠の教室』は今年の夏に文庫化されて、なんとなく手に取って頁をぱらぱらしているときに目にとまった、「イスラエルについて語ることは重たい。」という一文に惹かれて購入したあと、2ヶ月ほど積んでいた。それから、イスラエルで紛争が勃発、と報じられた。こんなタイムリーさなんてほしくなかった。だけどわたしは本を手に取った。
 ブクログに書いた感想を少し修正して転記する。

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 今、このタイミングでこの本を読んでしまった。苦しくてたまらない。予期せぬ「タイムリー」さを持ってしまったことや、こんなふうに、タイムリーなどという言葉が浮かぶ自分の浅はかさ、イスラエルという国の名前を聞いて連想する事柄から露見する自分の思考や思想の貧しさ、何も知らずに戦地に思いを馳せてしまう自分の愚かさを突きつけられた読書になった。

 何も知らずに語ることは、愚かで恐ろしいことだと思う。他者や異民族を「知る」「理解する」とはどういうことなのか。表面上の言葉だけでなく、実際にそれをするためにどうすればいいのか。(わたしはここで、梨木香歩さんの『春になったら苺を摘みに』の「理解はできないが受け容れる。ということを、観念上だけのものにしない、ということ」を思い出した)

 厳しく問いかけてくる一冊である。とくに『なぜヘブライ語だったのか』『おぼえ書きのようなもの』を読んでいるあいだ、普段の自分の知ったような言葉の使い方や浅い思考、傲慢な意識などを指摘されているようで、何度か頁をめくる手を休めなければならなかった。ただ、解説にもあったように、この文章たちは読者への示唆や、グロテスクな言動をする者たちへの批判というだけではなく、著者自身への自戒にも感じられた。この強く厳しい姿勢が貫かれていることで、「それならわたしはどう考えるべきか」という問いがより重く響いた。

 藤本和子さんは、実際に、砂漠の教室に行ったのだ。どうすべきか、と自問して、イスラエルに向かい、ヘブライ語を学んだ。もちろん、言語を学ぶことは、ただ言葉を覚える、知識を手に入れる、だけの問題ではない。歴史や文化を識る、大袈裟に云えば、歴史や文化の一端を負うことなのではないかと思う。それにしても、すさまじい行動力と精神力だ。何かに対して、そこまで切迫した思いを抱き、行動できるひとが書いた文章。血肉の通った文章というものは、厳しく、潔く、美しいのだと思った。

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『なぜヘブライ語だったのか』の百貨店のアウシュヴィッツ展示会への憤りと共通する憤りを『海をあげる』にも感じた。
 少女が米兵に強姦される事件のあとの東京の報道、事件に対する沖縄での抗議集会に「行けばよかった」「怒りのパワーを感じにその会場にいたかった」と云ってのけた大学教員に対する上間陽子さんの言葉だ。 

私が黙りこんだのは、沖縄に気軽に行ける彼の財力ではなく、その言葉に強い怒りを感じたからだ。あの子の身体の温かさと沖縄の過去の事件を重ね合わせながら、引き裂かれるような思いでいる沖縄のひとびの沈黙と、たったいま私が聞いた言葉はなんと遠く離れているだろう。
(略)
 沖縄の怒りに癒され、自分の生活圏を見返すことなく言葉を発すること自体が、日本と沖縄の関係を表していると私は彼に言うべきだった。言わなかったから、その言葉は私のなかに沈んだ。その言葉は、いまも私のなかに残っている。

上間陽子『海をあげる』筑摩書房

 気軽に「すごく良いから読んでみて」と勧めることはできないけれど、いま、多くのひとに読まれるべきだと感じた本だった。アウシュヴィッツ展示会については、一部を切り取って載せることが難しく、覚悟の上で読んでほしいという思いから、ここには引用を載せないことにした。

 『砂漠の教室』には藤本和子さんが香港とタイに訪れたときのことも書かれている。

はじめてのそのアジア旅行は、息苦しいものだった。(略)わたしの国はこれらの人々の国を侵略することでしか「共栄」を発想できなかったのだ、国境を越えて、というときはいつだって欲望を押しつけることしかできなかった国なのだ、わたしはその国の国民の一人なのだ、人間と人間として出会うなどというには、記憶は暗すぎると、そういう思いばかりで、わたしはからだを固くしていた。
p209

わたしは、たとえば、朝鮮語を学ぶべきだと、頭では知っている。けれども、それはおそろしいことだ。学んだところで、いまのわたしになにができるのか。わたしたちのような歴史を背負うものが学びうるのか。学ぶことが、その言語を母国語とする相手を傷つけることにならないという保証があるのか。
P212-213

藤本和子『砂漠の教室 イスラエル通信』河出文庫

 この文章を読んで真っ先に思い浮かべたのは『韓くに文化ノオト』(小倉紀蔵/ちくま文庫)だった。

 この本でわたしは、韓くにと韓くにことばの美しさを語って来た。
 しかし実は、わたしが「韓くには美しい」と言挙げした瞬間に、韓くには穢れてしまうのだった。そのことをずっとわたしは、意識している。
p197

「併合植民地化」は単なる植民地化よりもずっと苦しい。これは哲学的な苦痛でもあるのだ。つまり、支配者が被支配者に対して、「おまえは他者だ」といって支配するのではなく、「おまえとおれはほとんど同じだ」と言って支配する。このとき被支配者の自己同一性は著しく混乱する。
p283

『韓くに文化ノオトーー美しきことばと暮らしを知る』
小倉紀蔵/ちくま文庫

 この一年、読書を通して、悲しい偶然やつながりに多く遭遇してしまった。物事が偶然つながることは、本を読むことのよろこびのひとつだけれど、悲しいことは少ないほうがいい。たのしいとかうれしいとかよかったとか、そんなことばっかり云って能天気に生きていたい。だけどわたしはもう、明るさは光だけで作られないのだ、と警戒する心を持っているし、目をそらした先にうごめく、もっと深い悲しみを知ってしまった。

 藤本和子さんはヘブライ語を学ぶためにイスラエルに足を運んだひとだが、黒田龍之助さんは日本でロシア語を学んだすごいひとである。
『ロシア語だけの青春』(黒田龍之助/ちくま文庫)はタイトル通り、青春をロシア語学習に捧げた日々の描いたエッセイだ。黒田龍之助さんの本を読んでいると、こんなに外国語のことばかり考えて生きているひとがいる、こんなふうに外国語を愛するひとがいる、という事実によろこびと救いを感じる。

ピジンやクレオールを嫌う人がいるといった。言語はとても楽しい世界なのに、ときどき人が話していることばをバカにしたり、それで差別したりするような人がいる。そういう人は、自分と違ったことば遣いをする人が許せないようだ。心が狭い。だが、言語にはいろんな変種というか、ヴァラエティーが付き物なのである。
(p141)

共通語と標準語はどこが違うのか、詳しく説明するととても難しくなってしまうのだが、ポイントは標準語が権威を持っていることだ。権威とは「正しい」とか「立派だ」とかいったもので、とにかく偉そうである。そういえば、人のことばを批判する人は決まって偉そうだ。
(p142)

『もっとにぎやかな外国語の世界』白水uブックス

 わたしはピジンとクレオールという言語の存りかたにめちゃくちゃにときめきを覚える種類の人間だ。
 異なる言語を話すひとびとが出会って、お互いの間でだけ通じる言語を生み出す、それがピジン。ピジンを使うひとたちが結婚したり、ピジンが共通語なるようなコミュニティが生まれて、そこで育った子どもが第一言語としてピジンを話すようになると、クレオールになる。クレオールの定義は難しいらしいが、ものすごく簡単にまとめるとこんな感じだ。
 黒田さんの著作は『ロシア語だけの青春』と『もっとにぎやかな外国語の世界』のほかに、

『世界の言語入門』(講談社現代新書)
『その他の外国語 エトセトラ』(ちくま文庫)

 もたのしく読んだ。黒田龍之助さんのエッセイはとても読みやすくてたのしい。言語を学ぶことの素晴らしさや言葉・文字への愛情が伝わってきて温かい気持ちになるし、英語と韓国語の勉強のモチベーションも上がる。

 分からなくたっていいのである。
 朝の電車の中で、楽しみで読んでいるのである。講義や論文の準備をしているわけでもなければ、テストされるわけでもない。分からなくても、困ることはないのだ。
 わたしたち読者には、「分からない権利」があるのではないか。多くの人があらゆることを分かろうとするけれど、文学という難しい世界を、なにも無理して全部分かることはない。ましてや外国語である。全部分かるはずがない。

その他外国語 エトセトラ(ちくま文庫)

  この黒田さんの外国語に向かう姿勢がとても好きだ。好きな本を複数の言語版で集めて文字を眺めることをたのしむ読書だってあってもいいし、眺めるだけではなく内容を理解したいと勉強に力を入れてもいい。
 こればかり云ってしまうのだが、黒田龍之助さんの本はたのしい。たのしい本は? と訊かれたら「黒田龍之助さんの本!」と答えたくなるくらいに。言語を通じて世界に出会い、世界を広げてゆく。もちろん一冊の本との出会いも世界との出会いである。

 世界との出会い。他者と邂逅。
 地域や国も越えた、宇宙規模での出会いといえば、

『プロジェクト・ヘイル・メアリー』
(アンディ・ウィアー著/小野田和子訳/早川書房)
『わたしたちが光の速さで進めないなら』
(キム・チョヨプ著/カン・バンファ、ユン・ジヨン訳/早川書房)

 は期待を裏切らない、むしろ越えてゆく本だった。この2冊は親友のTちゃんが勧めてくれた。この場を借りて改めて、ありがとう!

 地球の常識が通じない、全く新しい生命との邂逅。 『プロジェクト・ヘイル・メアリー』では、ロッキーという知的生命体との邂逅が描かれる。主人公のグレースは、宇宙でたったひとり、失った記憶を取り戻しながら、極限状態で、自分と同じ目的のために宇宙にきた生命と出逢い、彼と命を懸けられるほどの友情を築く。すさまじいロマンが詰まっている。
 読み終えたあとは、
「わたしと『プロジェクト・ヘイル・メアリー』の話をしない、質問?」
 と云いたくなる。
 ちなみにこの本で言葉の問題は、さすがSFという科学の力、音波を解析する波形分析ソフトとエクセルのスプレッドシートを駆使して解決される。
 対して『わたしたちが光の速さで進めないなら』の『スペクトラム』は、語り手の祖母にあたるヒジンが遭難してたどり着いた星での、異星人・ルイとの交流を描いた短篇小説だ。ここでは、言語を介さずに過ごす二者間の、唯一無二の、尊い関係が描かれている。
 ヒジンは遭難時に満足な装備や道具も失い(言語が分析できる機器も)、言語によるコミュニケーションは不可能な状況に陥った。当然、詳細な記録もできず、ルイとの出会いどころか、不時着した星があったことすら証明できない。そのためヒジンは帰還後、「四十年間ひとりぼっちで宇宙を漂いながら孤独のなかで半ばおかしくなり、哀れにも空想を真実と信じ込んでしまった哀れな老人」と世間から見られることになる。
 ヒジンは、異星で10年の月日を過ごし、異星人たちの天敵からの襲撃のさなか、偶然に脱出シャトルを発見し、遭難から40年目の年に地球に生還する。脱出時に持ち出せたのは、ひと束の紙だけで、その紙に書かれているのは、色彩言語によって記された、ルイの書いた記録だった。ヒジンの余生は、この色彩言語の解析に費やされたという。

 でも、わたしたちが再び彼らに出会うとき、わたしたちはもうか弱い異邦人ではないはずだ。わたしたちは道具を持っていくだろう。彼らに関する情報を、目で確かめる以前に知っているだろう。彼らの言葉を分析し、彼らの文字を分析するだろう。
 ルイと祖母のような関係は二度とありえないはずだ。わたしには祖母を理解できた。

『わたしたちが光の速さで進めないなら』
キム・チョヨプ/早川書房

 言葉を介さない交流、ヒジンが読み解いたルイの記録の正体、そこに記されたことば。こんなに切なく美しい小説が存在することがうれしくて泣いてしまう。韓国に行ったら、ぜったいにこの本を買って、ハングルで読みたい、と思った。
 収録されたどの作品にも、透明な優しさと柔らかい悲しみが流れていて、一篇ずつ、大切に読んだ。『スペクトラム』『共生仮説』『わたしのスペースヒーローについて』がとくに好きだった。巻末の解説も、わたしのこの粗末な文章とは比較できないほど素晴らしかったので、解説を含めてぜひ読んでほしい一冊だ。

 今年の読書目標に掲げていた「韓国文学に触れる」は、BTSにはまり(友だちに云うとみんな驚く)、彼らの国の文化を深く知りたいと思うようになったのがきっかけだ。それまでは韓国文学のことを、海外文学として捉えていたし、今も大きな枠では海外文学だと認識しているけれど、韓国という国を意識するようになり、これはナムさんも読んだかなあなどと思いながらする読書もとてもたのしいと知った。

 『82年生まれ、キム・ジヨン』
(チョ・ナムジュ著/斎藤真理子訳/ちくま文庫)
『すべての、白いものたちの』
(ハン・ガン著、斎藤真理子訳/河出文庫)
『わたしたちが光の速さで進めないなら』
(キム・チョヨプ著/カン・バンファ、ユン・ジヨン訳/早川書房)
 
 読んだ本は3冊。読みたい本はたくさんあるので、来年の宿題として、またたのしく取り組んでいくつもりだ。


 読書目標の3つ目、言語学系の本を読むこと。すでに触れた黒田龍之助さんの著作以外で挙げると、

『言葉とは何か』(丸山圭三郎/ちくま学芸文庫)
『言語の本質』(今井むつみ・秋田喜美/中公新書)
『言葉と脳と心』(山鳥重/講談社現代新書)
『ソシュールと言語学 コトバはなぜ通じるのか』(町田健/講談社現代新書)

 こんな感じである。
 言語学ではないけれど、『小さなことばたちの辞書』(ピップ・ウィリアムズ著/最所篤子訳/小学館)も大切な一冊になった。
 読み書きができることはとても幸せだと改めて感じた。その上で、文字のない言語があること、本を読む習慣がないひとや書くのが嫌いなひとだってたくさんいることを忘れずに生きていたいと思った。

 ソシュールの唱えた構造主義のことを知りたくて『寝ながら学べる構造主義』(内田樹/文春新書)も読んだ。この構造主義の入門書を読んで、また読みたい本が増えて、初心者向けのレヴィ=ストロースの本も買ってしまった。

 再読した『図書館の魔女』(高田大介/講談社文庫)は言語学系の本を読むことで、より一層楽しむことができた。初めて読んだときは、ただの長い説明のように感じられた言語に関するマツリカ様のセリフが、物語上意味のあるセリフだったと気づいたり、これはピジンとクレオールのことだなとうれしくなったり、言葉の特性のひとつ、線条性を考えるとミツクビの生き物としての在りかたの不自然さが際立つなあと思えたり。
 あとやっぱりマツリカ様とキリヒトの関係性がたまらなく好きだ。何度読んでも変わらず好きだ。未来永劫同じ温度で好きだ。読めば読むほど想いが募り言葉が涙に変換されるほど好きだ。好きすぎて好きしか云えなくなるくらい好きだ。

 マツリカ様とキリヒトに対する「好きだ」とは種類が異なる、しみじみとじんわりと好きだなあと思えた作品もある。北村薫さんの創元推理文庫の〈円紫さんと私シリーズ〉だ。

 普段はほとんどミステリ小説を読まないのだけど、このシリーズはストーリーと同じくらい文章が好きだった。『空飛ぶ馬』の文章の心地よさに感動して、『夜の蝉』『秋の花』まで読んでしまったので、あと3冊ある既刊とほかの作品も来年以降ゆっくり読んでいきたい。あと二十数年振りに再読した『月の砂漠をさばさばと』(新潮文庫)もとても良かった。北村薫さんは今後、何を読むべきか迷ったときに読める作家さんになる予感がしている。

 元気がないとき、何かを読みたいけれど何を読みたいのかわからず、本棚の前で途方に暮れているときに優しい作家のひとりに吉田篤弘さんがいる。今年もなんだかんだでお世話になった。装丁家であるのに、たいへん多作な作家さんなのもありがたい。
 今年読んだ作品は、

『ガリヴァーの帽子』(文春文庫)
『雲と鉛筆』(ちくまプリマー新書)
『ブランケット・ブルームの星型乗車券』(幻冬舎文庫)
『百鼠』(中公文庫)

の4冊だ。

 吉田篤弘さんは12月になると読みたくなる作家でもある。上に挙げた4冊は読んだ順番で、うち3冊は12月の中旬以降に読んだ。
 冬の硬い冷気を手のひらの分だけ溶かしてくれるような。冬の真夜中のしんと冷えこむ台所で、コーヒーを淹れるためにお湯を沸かしているときのような。その白い湯気に物語の輪郭をそっと見いだして文字を紡いでゆくような。吉田篤弘の文章にはそんなファンタジーが宿っている。

 ファンタジーといば、ファンタジーという神様の出てくる、大好きな小説が復刊された。
『海の仙人』(絲山秋子/河出文庫)だ。十数年ぶりの再読である。この神様の名前に「ファンタジー」と名づけた絲山さんの言語センスには感嘆して感悦して感謝するしかない。新潮文庫版を持っているが、好きな本を買うことによろこびを見いだす性質なので、河出文庫から復刊されたのはその意味でもうれしかった。昨年復刊した中山香穂さんの作品も、うきうきで3冊そろえたし。河出文庫さんはこれからもたくさん素敵な作品を復刊し続けてください。お願いします。
 せっかくなので積んでいた『小松とうさちゃん』も読んだ。絲山秋子さんは「書かない」作家だ。「書きすぎない」どころではなく「書かない」。書かないことで書けるものがある、書かないことでしか書けないものがあると教えてくれたのは、絲山秋子さんだった。

 今年の読書の振り返りあたって、欠かせないワードのひとつは「再読」である。
『村田エフェンディ滞土録』、『月の砂漠をさばさばと』、『海の仙人』、図書館の魔女シリーズ、辻村深月作品、と近年まれに見る再読が達成できたので、この調子で来年も再読していきたい。恐れることはないのである。
 まずは『獣の奏者』(上橋菜穂子/講談社文庫)を。自分でも呆れるが、全4巻のうちの3巻まで読んで、面白すぎて読めなくなり、4巻を買ったまま数年積んでいる状態なのだ。

 再読とは再会である。今年読んだ本ではないけれど、『正弦曲線』(堀江敏幸/中公文庫)にあった素敵な言葉があるので、添えておきたい。 

批評や紹介文のなかのわずかな引用が気になりながら現物は手にしない。図書館や書店で背表紙を見、タイトルまで覚えたのに中身は確かめずに素通りする。買うことは買ったのだが、他に読むべき本を片付けているうち存在すら忘れてしまう。しかし、この「最初の一瞥」の段階で、私たちはもう出会っていたのである。真の出会いとは、ながい時間にわたって準備されてきた再会なのだ。

堀江敏幸『恋の領域』(『正弦曲線』中公文庫所収) 

 堀江敏幸さんの文章は読んでいると、いちど立ちどまってゆっくり呼吸をしようか、という気持ちになれる。『あとは切手を、一枚貼るだけ』(小川洋子・堀江敏幸/中公文庫)もなんて贅沢な読書なんだ……とゆっくり頁をめくることができた一冊目だった。堀江敏幸さんの本ほど「速読」という言葉が似合わない本はないのではないか。ずっと前に『河岸忘日抄』(新潮文庫)をひと月以上かけて読み、あらすじにあった「ためらいつづけることの、何という贅沢」の疑似体験のような読感を得てから、時間をかけてゆっくり読むことの優しさを感じられるようになった。ともすれば時間に追われ目標に追われ生活に追われ、せわしく文字をたどるばかりの読書になりかねないところを、文字だけでなく余白に耳を澄ませる時間もゆるしてくれる読書。壮大な遠回りのような、終点の駅まで各駅停車で行ってみるような贅沢な読書。
 本を読むことは美しい、と思う。
 再読も新しい世界との出会いも、ひとしく美しい事態だ、と思う。

 新しい作者との出会いもいくつか。

『かか』『推し、燃ゆ』
(ともに宇佐見りん/河出文庫)
『ババヤガの夜』(王谷晶/河出文庫)
『君の六月は凍る』(王谷晶/毎日新聞出版)
『ここはとても速い川』(井戸川射子/講談社文庫)

 現代日本文学では、この3人の作家との出会いがとくにうれしかった。

 宇佐見りんさんの文体、『かか』の、この物語にはこの文体しかありえないと撃たれるような切実な語り口が印象に残った。『推し、燃ゆ』はキャッチーな題材を扱っているけれど、想像よりはるかに骨太な小説だった。金原ひとみさんの解説もとても良かった。宇佐見りんの今後の作品も読みたいし、金原ひとみさん作品も久しぶりに読みたいと思った。

 文体で云うと『ここはとても速い川』は、いつまでもこの文体の流れに身をゆだねていたい、とうっとりできる、幸福な読書だった。児童養護施設で暮らす小学5年生の集の目線(視点でも視線でもなく、「目線」と表現したい)で紡がれる、率直で繊細な情景。意識しないと亜流みたいな文章を書いてしまうかもしれない、とひさしぶりに感じた。詩人であることも大きな要因なのだろうか。井戸川射子さんの文章の律動が、とても心に馴染むのだ。芥川賞受賞作はまだ読めていないので、こちらも早く読みたい。

 王谷晶さんの『ババヤガの夜』『君の六月は凍る』は文章にも魅力も感じたが、文章や文体がどうこうと云うよりも、小説全体にあらゆる体液がぶちまけられているような凄まじさがあった。
 ブクログに書いた感想があるので修正して削ったものを転記する。

***

 男女の恋愛ものより同性同士の恋愛を好むのは趣向の問題だ。当たり前のことだけど。
 その当たり前を踏まえた上で、自分は多分にジェンダーにこだわった読書をしているのだと改めて感じた。
『君の六月は凍る』は性別を明確にしないことで、ジェンダーでラベリングされない小説になりえたのと同時に、この本について語るときにジェンダーについて言及せずにはいられなくなる小説だ。今まで自分がいかに、人間の関係性を考える際に、ジェンダーに重きを置いていたかを思い知らされた。

『ババヤガの夜』のふたりの関係は、「愛ではない」と本文で明確に記述したところで、読者はシスターフッド小説とジェンダーに基づいたラベリングをしてしまうし、愛ではない、と強調することによって、愛以外ではありえないとすら思えてしまう。

 今作では、性別が特定出来ないように書くことで、読者は好みの性別を当てはめて読むことができるし、おそらく王谷さんも、君とわたし、BとZが、どの性別でも成立するように書いている。
 BLや百合、LGBTQ小説とラベリングされることから離脱し、君とわたしは「君とわたし」でしかない、世間(=読者)から干渉されない関係性を成立させている。

 乾いた文体が紡ぐ、生々しい人間の生活の痕跡。君の慟哭は君ごと氷のなかに閉じ込められ、わたしの瞳を貫いて、記憶を溶かす。美しいイメージと、その背後にある生々しい現実。

「君の六月は凍った。」

 この秀逸な書き出し。そして最後の段落への繋がり。凄まじい小説を読んでしまった、と読後に呆然とした。

 同時収録の『ベイビー、イッツ・お東京さま』については、二次創作BLを書いている主人公の生活で、わあ、身に覚えがある……! と違った意味で凄まじい小説を読んでしまった、とふるえた。
 主人公が遭う性被害の醜悪さは、どれも読んでいてしんどくなるものばかりで、ぶつん、の意味することが分かるとき、悲しいくらいの納得と絶望と、でも生きている、という感情でぐちゃぐちゃになった。

***

 どちらの作品も、両肩を掴まれて激しく揺さぶってくるような凄みがあった。わたしの狭い読書範囲での意見になるが、「暴力」とこんなに真摯に対峙している作家に出会えることはそうないのではないかと思う。
 『ババヤガの夜』の3倍くらいの文量でロマンシス小説を書いてくださらないだろうか、などとこっそり思っている。


 読書目標の最後、「詩歌をたくさん読むこと」は詩集1冊、歌集10冊という結果で終わった。詩集は『覚和歌子詩集』(ハルキ文庫)のみである。
 あと短歌を勉強したくて、『天才による凡人のための短歌教室』(木下龍也/ナナロク社)を読んでみた。詩歌への憧れがふくらみまくっている。
 でもやっぱり短歌はまだまだ勉強が足りず、感想を書くための語彙や知識があまりにも乏しいので、ここではいくつか好きな歌を紹介する。

体などくれてやるから君の持つ愛と名の付くすべてをよこせ

岡崎裕美子『発芽/わたくしが樹木であれば』青磁社

青空に手足をひたす冬の午後ぼくらの石はわずかに育つ

鐘のない鐘つき堂でぼくたちが守りつづけた晩夏のとりで

斎藤弓生『世界が海におおわれるまで』書肆侃侃房

理科室に閉じ込められて菜の花になったふたりの声がききたい

半額の焼きそばパンを分けあって川辺にいない僕らになりたい

あなたから生まれる前の夢をみた波打ち際の電話ボックス

夕焼けの付箋で街を埋めつくすわたしたちには正解がない

藤本玲未『オーロラのお針子』書肆侃侃房

わたしたちがはじめてふれた高さからそうだね屋根がぜんぶみえたね

ここで泣いた。思いだした。生きていた。小さな黒い虫になってた。

東直子『愛を想う』ポプラ社

えっ、七時なのにこんなに明るいの? うん、と七時が答えれば夏

あかねさすIKEAへゆこうふたりして家具を棺のように運ぼう

きみという葡萄畑の夕暮れにたった一人の農夫でいたい

岡野大嗣『サイレンと犀書』書肆侃侃房

ひとときは紅茶を淹れる読みかけの本はかもめのかたちに伏せて

花冷えの眼鏡の弦をたたむ音 目を閉じるのはあなたが先だ

君までのきょりわるじかん、それははやさ。光の帯となりゆく列車

中家菜津子『うずく、まる』書肆侃侃房

周波数狂ったラジオ抱えれば合わせるまでの手のなかは海

手のひらの川をなぞれば思い出すきみと溺れたのはこのあたり

好きそう、とあなたが買ってきてくれるパンことごとくわんぱくなパン

toron*『イマジナシオン』書肆侃侃房

夜には近くで ベランダに 
光る食器を多く並べ生まれ
てからずっと話したかった
ことを話した

好きになった人間に名前をつけるといつも短命でかなしくなりすこしだけ泣いた

夜中に帰ってきた人たちの動脈はあたたかくて話すことばを信じる

しゃぼん玉なんどもたべようとしてるゾンビになってもきみはきみだな

線引ができそうな雨いまおれは許さないって言われるのが好き

洗濯機の底でくたばるシャツぼくはゆるすおまえを絶対にゆるす

           野村日魚子 
『百年後 嵐のように恋がし 
たいとあなたは言い 実際 
嵐になった すべてがこわ 
れわたしたちはそれを見た』
(ナナロク社)

 北村薫さんの『北村薫のうた合わせ百人一首』(新潮文庫)みたいなことができたら最高にたのしそうなので、10年くらいかけて取り組みたい。


 最後に、今年いちばん読めてよかった本、『水車小屋のネネ』(津村記久子/毎日新聞出版)のことを少しだけ。
 いろいろなところで、『水車小屋のネネ』は津村記久子さんの現地点での集大成と云われている。わたしも同じ意見だ。
 『水車小屋のネネ』は助けられることが疾走してゆく物語、だと思う。ひととひとの関わり合いかた、そのとき自分にできること、思いやりを押しつけることなく相手に手渡す。自分に計れる限りの適切な距離から相手を見守り、支える。津村記久子さんのまなざしが、美しく結晶した一冊だった。
 詳しい感想を書いている最中なので、あまり遠くない未来に別の記事で上げる予定です。

 谷崎潤一郎賞の受賞のことばも、津村さんらしくて、もう好きほんとに好きずっと好き、となったのでぜひ読んでほしい。審査員のかたがたの選評もすごく良い。選評を読みながらぽろぽろ泣いた。津村記久子さんと同じ時代に生きていて、新刊をリアルタイムで追えることはほんとうに幸せなことだ。


 とても長くなってしまった(なのにいちばん書きたかったはずの本の感想は間に合わなかった)。読んだ本のことを好き勝手につなげて書くのはすごくたのしい。ここで触れていない本もあるけれど、今年読んだすべての本、読めてよかった。
 なんだか、たのしいとかよかったとかうれしいとかそんな言葉ばかりの振り返りになったが、語彙の乏しさを嘆くよりも、まずは、そのように感じることができたことをよろこびたい。本を読むことで生じるすべての感情を、できる限り取りこぼさずに、抱えて生きてゆきたい。わたしはまだ、暗がりに射す光について知りたいと切望する心を持っているし、見つめ合うときまなかいに通う、そっと灯るような感情を知っている。
 本を読むことはたのしい。本がある世界に生まれてよかった。本について語る言葉を持っていることがうれしい。
 歳を重ねるごとに新年に対する感慨は減ってゆくけれど、この3つだけはずっと変わらない。明日も十年後も百年後も、きっとずっと変わらない。
 わたしだけではなく、明日も十年後も百年後も、ひとびとは本を読んでいて、だから世界は美しいのだ、と言葉を抱きしめているに違いない。その抱擁が世界をいっそう美しくするのだということにも気づかずに。わたしたちは、百年後もひとびとは本を読んでいると信じて、さいごの抱擁のあと、ひと知れず永い眠りに就くのだろう。幸福はいつも、本のかたちをしている。だからわたしたちは安心して言葉を抱いて目を閉じることができる。太宰治が一つの約束をしたように。月も星も見ていなくても、わたしたちのこの美しい抱擁は、あやまたず、のこりくまなく、変る事なく、継承される。

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