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思い出、窓辺の、もう戻らない、離島で、ほんとうは。


 本が好きだ。
 趣味を聞かれたら、迷わずに「読書」と答える。家は本だらけで、積読本が数百冊あるのに、毎月新しい本を買う。読書とは別に「本を買うこと」も趣味にあげるべきかもしれない。出掛けるときは、その日は本を読む暇がないと分かっていても必ず本を鞄に入れて行くし、うっかり本を忘れたときや外出先で手元の本を読み終えたときは、可能な限り本屋さんに寄って、新しい本を買う。そうしないと落ち着かないのだ。活字中毒との違いは、本を「読んでいない」と落ち着かないのではなく、本を「持っていない」と不安になること。読む本をすぐそばに持っていることで、わたしは心の安寧を保っている。

 だけどときどき、とくに心が沈んでいると、読みたい本がわからなくなる。本棚から何冊も本を取り出して開いて、一頁目を、あるいはランダムに開いた頁の文章を読んで、いま自分が読みたい本を探す。部屋には大好きな本と、これから大好きになるであろう本が溢れているのに、どの一行も、わたしの心のかたちをなぞってくれない。こんなに、こんなに本があるのに、どうしてだめなんだろう。自分はとうとう本に値しない生きものになってしまった。そんなことさえ考えて、さらに落ち込む。
 たいていは時間が解決してくれる問題で、1週間もあれば治る。何度も経験してきたことなので、まあ今はそういう時期なのだろうと納得することはできるのだけど、つらいことに変わりはない。

 四年前のこと。わたしは本が読めなかった。本を選ぶことができず、しかも今までに経験したことがない長い期間、その状態が続いていた。本屋さんに行っても、最終手段のBOOK・OFFの100円コーナーの棚を見ていても、何も触れてくる感覚がないのだ。
 そうなると、本が読めない状態と向き合わなければならなくなる。
 どうして本が読めないのか。どうすれば本が読めるようになるのか。どんな本なら読めるのか。どんな本を読むべきなのか。どうやって本を選んでいたのか。普段なら考えないことが、ぽつぽつ、思考の水面にしたたる。弱い波紋だ。弱くて、切実な。ほんとうのことは、大きな声では語れない。わたしの心は小さいから。こんなときこそ、本を読んでいるはずなのに。読めなかった時期があったことなんて忘れて活字を追っているはずなのに、それができない。それすらできない。本が読めないのはつらい。本が読めない自分を認めて受け入れるのはつらい。つらい、つらい、つらいが重なって、わたしは降参する。そうして感情に名前をつける。

「わたしは悲しい。」

 二十代の自分に名前を付けるなら、悲しい、だ。本のことだけではなくて、私生活のぜんぶがぐちゃぐちゃだった。それに追い討ちをかけるように、本が読めなくなった。
 二十代はもう終わるのに。おとなになったら好きなだけ本を買って読んで、文章を書いて、優しく生きているはずだと思っていたのに。もう数ヶ月、本を読んでいない。映画も観ていない。大好きな友だちにも会えない。へたくそな文章しか書けない。

 あの頃、わたしは、悲しかった。目が覚めて、悲しかった。起き上がって、悲しかった。息をして、悲しかった。服を着て、悲しかった。靴下の穴、悲しかった。伸びた爪、悲しかった。歩いていて、悲しかった。鞄の重さ、悲しかった。舗道で車とすれ違う、悲しかった。横断歩道のしましまの黒と白、悲しかった。信号待ちも、電車で座って窓の外、空も町並みも、悲しかった。目に映るすべてと、映るすべてを見つめる目と、目を持っている自分が、悲しかった。
 悲しかった。本を読んでいた。
 悲しかった。本が読めなかった。
 それはほんとうに、悲しかった。

 四年前、忘れもしない、上大岡の、今はもうなくなってしまった、あおい書店で。新刊文庫の棚に面陳されていた、津村記久子さんの『枕元の本棚』(実業之日本社)を見つけた。なにかすごく、だいじょうぶ、と思った。津村記久子さんの本なら、だいじょうぶ、と。つるつるの表紙が優しくて、すがる思いで手に取って、レジに向かった。
 その夜読んだ、津村記久子さんの文章の優しさを、わたしはずっと、おぼえている。

 もともと津村記久子さんの作品は好きだったけど、その日をさかいに、わたしは津村記久子さんのことが大好きになった。
 津村さんの本なら、しんどいときでも読めるという事実は、よすがになり、現在に至るまで、わたしを支え続けている。
 津村記久子さんの文章は、読みやすい。押付けがましいメッセージがなくて、ためになる情報を受け取る必要もなくて、ただそこにいて、気負いも覚悟もいらなくて、すっと心のかたちになじむ。

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 津村記久子さんの小説や文章については、また別の記事で書く予定。もともと、津村記久子さんの本の感想を書きたくて、このnoteを始めたので(でもアカウントを作って数ヶ月、放置したままだった)。好きな本の感想を書くことは、その本が好きであればあるほどすごく緊張するし、難しい。

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 津村さんの著作で未読の本が2冊ある。『八番筋カウンシル』(朝日新聞出版)と『ポースケ』(中央公論新社)だ。

 何も読めなくなったときにも、津村さんの本なら読める。それは、とても希望で、とても優しく、世界が怖いとき、その淵から落ちてしまう前に掴めるものとして、わたしを生かす。だからわたしは、この2冊をおまもり本として、読まずにいる。いつかは読むだろう。津村記久子さんの本をすべて読まずに死ぬのは、ぜったいに嫌だ。だけど今ではない。約束みたいな希望が、ここにある。わたしは今日も、少し悲しい。だけど、おまもりの中身を開ける日は、きっとまだ遠い。


 


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