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ひとりごと、見せたげる、つぎはぎの、きれいごとたち、地平を照らす。


 あなたがわたしの文章を読むことは、きっとないだろうけど。

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 今年も『十一月の扉』(高楼方子/新潮文庫)を読まずに11月を終えようとしている。毎年11月になったら読み返そうと思って、気づけば冬になっている、ということを繰り返して10年が経った。忘れないように、本が見つからなくて読めなくなることのないように、本棚のすぐに手を伸ばせるところにあるのに、実際に本を開いたのは数えるほどだ。読み始める前に本を閉じて、また本棚に戻す。この一連の流れが11月の恒例になってしまった。
『十一月の扉』を読むなら、冬になる前の11月がいい。秋の終わりと冬の始まりの薄い空白のさなかに読むのにぴったりな本なのだ。だから、すでに冬に入った今は、もう手遅れなのだった。

 小さい頃に好きだった本をおとなになって読み返すと新しい発見ができる、とはよく聞く言葉だけれど、あの頃の感受性を失っているかもしれないと思って手を伸ばせないことも少なくない。歳を取って本の受けとめかたが変化するのは当たり前で、初めて読む本に感動することと、内容や結末を知った上でその本に出逢い直すことは異なる体験だと頭では分かっていても、指先が躊躇してしまう。美しい思い出を損なうくらいなら、触れずに保存しておきたいと思ってしまう。わたしはとても臆病だ。

 それでも今年は、辻村深月作品と『図書館の魔女』を読み返すことができたので、ほんの少しは恐怖を克服できた気がする。なぜ”ほんの少し”なのかと云うと、今回は読書会がきっかけの再読だったのと、精神が弱っていてとりあえずなにも考えずに読み続けられる本を欲していたので、ちょうどよいタイミングだったのだ。辻村深月さんの講談社の作品たちは、登場人物がリンクしていて、本の帯にも読む順番が書かれているから、読む順番にも困らなかった。とてもありがたい。読書会の課題の『凍りのくじら』から始めて、いちばん好きな『スロウハイツの神様』まで読んで、いちおうは満足した(『スロウハイツの神様』にふるえるこころはちゃんと残っていた)。次に講談社文庫つながりで『図書館の魔女』を再読した。言語学系の本を読んだ経験からか、初めて読んだときよりも気付きの多い読書になった。
 もじもじぐちゃぐちゃせずに何でも読んでしまえばいいのに、とこの文章を書きながら思っている。本棚に並べたり積んだりしてる本を眺めて、自分はいつかここにある本をすべて読むことができるのだろうか、などとぼんやりしている。(ここ数ヶ月、わたしはずっとぼんやりしている)

 どんなときでも、本棚に本が並んでいる事実を見つめることは心身にやさしい。好きな本が手の届く場所にいてくれると安心する。たとえ未読の本であっても、自分で選んで買った、自分好みの本が並んでいるので、本棚に本を並べたり、背表紙を眺めたりするだけで満たされるものがある。読んでも見てもたのしいなんて、本ってすばらしいなと思う。

書物という情報媒体は人類の発明のうち最高のものの一つですから、いくら出版不況といっても、よほどすぐれた代替メディアが出てこない限り、なくなることはないでしょう。 持ち歩けて、電車の中でも、ベッドの中でも、トイレの中でも、お風呂の中でも読めて、書き込みができて、線が引けて、頁を折り返せて、破り取れて、必要とあらばものを包んだり、燃やして暖をとることもできる情報媒体なんて、ほかにないですよ。

内田樹『疲れすぎて眠れぬ夜のために 』P158(角川文庫)
 

 本ってすばらしいな、本があるって美しい事態だな、と感じるときに浮かぶ文章のひとつだ。内田樹さんのこの文章を読んだとき、頭の良いひとでもこんなことを考えるのか、とうれしくなってノートに書き写した。頁を折ったり書き込みしたりはしないけど、最近は半身浴をしながら本を読んでいる。

 ちなみに我が家には積ん読本は百冊以上ある。正確な数は把握していないし、長いものだと、いつ購入したものか覚えていないくらいの子も多い。本棚には読んだ本も積ん読本も区別をつけずに並べており、そこにいるのが当たり前になって、読んでもいないのにすでに妙な愛着が湧いている。積ん読といえば、大好きな漫画のひとつ、『バーナード嬢曰く。』の2巻の「積ん読」というコラムにすてきな一節がある。

 それでも買ってしまうのは「読みたい!」と感じた衝動を大切にしたいからだ。衝動は、紙も電子も関係なくやってくる。それはポジティブな予感とも言い換えられるだろう。 「この本が、自分に未知の何かを教えてくれる」「特別な感情を湧き上がらせてくれる」「ここでないどこかへ連れていってくれる」「もしかしたら自分を変えてくれる」「あるいは成長させてくれる」そういったポジティブな予感の集積によって、本は積み上がっていくのだ。自分は元々ネガティブな人間ではあるのだけど、世界に対して肯定的でなければその衝動は起こりえない。だからこそ大事にしたいと思うのだ。

施川ユウキ『バーナード嬢曰く。②』一迅社

 積ん読は世界を肯定している証しなのだ。この説を唱えてくださった施川ユウキさんのおかげで、心おきなく本を積んで並べて眺めることができるようになった(もちろん読んでもいる)。

 本を読むのも、眺めるのも、並べるのも好きなので、もちろん本棚も大好きだ。本棚をひとに見せることは、自らの恥部を曝すようで恥ずかしい、と云うひとがいて、その気持ちが分からなくもないけど、わたしはどちらかと云うと、わたしの秘密基地を披露します、こっそりですよ、どうでしょう、趣味合いそうですか? という気持ちのほうが大きい。そして、嫌じゃなければ相手の秘密基地も覗かせてほしい。土足で踏みこむなんてことはしない、ただちょっと、部屋の窓からどんな本が並べてあるのかを見せてくれるだけでいい。

 それから、本棚といえば、部屋にある本棚のほかに、頭のなかに言葉をしまってある本棚がある。いつでもどこでも好きなときに、そこから言葉を取り出せて、ときどき、言葉が勝手に出てくることもあり、すると世界が少し、やさしくなる。空の青さを見つめていると私に帰る場所があるような気がしたり、明るい七月の午後七時に、うんって答えてもらって夏を感じたりする。いつも帰り道にいて、私の最も好きな場所、私の最も好きな場所、と開けた視界いっぱいに広がる夕焼け空をぼんやり見つめたり、冷たい風に頬を刺される夜の空にオリオンを見つければ、参星がきた! この麗はしい夜天の祝祭……とじんわりと胸に冬が沁みわたる。
 繰り返し唱える言葉は安心毛布のようだ。呼気や歩幅にそっと添う。目に見えない秘密基地と抱きしめることのできない安心毛布。わたしが紙の本から電子書籍に移行できない理由のひとつは、実体のない秘密基地や安心毛布にかたちを求める心を託せる場所を、書物という目に見える存在に見いだすからだろう。
 自分のお金で自由に本が買えなかった時代、本屋さんで銀色夏生さんの詩集を立ち読みし、その場で好きな詩を覚えて、帰宅後にノートに書き写す、ということをしていた。あの頃は今よりずっと、頭のなかの本棚に言葉があって、好きな言葉を唱えることは幸福だった。あの頃の必死さはもうないけれど、今も昔もしていることに変わりはない。いまだにわたしは、好きな文章や言葉に出逢うと、ノートに書き写し、頭のなかの本棚から出したり閉まったりして、言葉と遊んでいる。

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 あなたは、どんな本を読んでた?
 本を読むわたしは、あなたの目にどんなふうに見えてた?

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 今年はいつもより『十一月の扉』のことを想う日が多かった。せっかくnoteを始めたので、季節ねたにもなるだろう、などとちょっと前から考えていたのだ。
 せっかくなので高楼方子さんとの出逢いについても書いておこうと思ったのだが、記憶がかなりおぼろげで、自分の記憶力ほど信頼できないものはないなと改めて感じている。初めて読んだ作品はたぶん、『時計坂の家』だった。小学生の頃だっただろうか。親友のTちゃんに教えてもらって、図書館で借りて読んだ。そのあとに『十一月の扉』『ココの詩』『ルチアさん』を読んだ。それから新潮社から文庫化している『十一月の扉』を購入し、10年前の11月に再読し、それ以来ずっと本棚から見守ってもらっている。
 
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 本棚から見守ってもらっている、と書いて、文章を書く手がとまった。
 ほんとうは、こんなつぎはぎだらけの文章を書くつもりはなかったのだけど。
 いつも思考が散らかっている。いつのまにか思考が散らばっている。いつからか思考を散りばめている。いつかの思考が散り散りになって、窓の向こうに消えてゆく。

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 わたしは本を擬人化しすぎる傾向がある。ほかのひとにとっては、それが漫画だったり、ピアノだったり、サッカーボールだったり、ラジオだったり、数字だったりするのだろう。あるいは、同種の友人なり何なりがいて、無機物を擬人化する必要がなく生きているひともいるだろう。わたしには擬人化が必要で、その対象が本だった。
 これはアニミズムというか、神道的な考え方なのだろうか。わたしはいつも、本や文学のことを考えるとき、自分の信仰について考えずにはいられなくなる。
 文学の神さまのこと。本のこと。言葉のこと。文章のこと。本を読むこと。文章を書くこと。
 わたしの信仰はこれらのなかにあると思う。上に挙げたもののことを考えるとき、それは世界について考えることと同義であり、本を経由せずに何かを考えることのほうが難しい。
 最近読んだ、北村薫さんの『秋の花』に、

こういった現実の問題を考える時も、行き着くのが本のことになるのは私の弱さだろうか。そう思えば後ろめたい気もする。しかし、私は水を飲むように本を読む。水のない生は考えられないのだから仕方がない。

北村薫『秋の花』P112(東京創元社)

 という主人公の独白があったが、この感覚をうまく実感できない。小さい頃から持っている感覚で、誤解なく伝えられる自信がないのだけれど、読書が現実を生き抜く手段になっても、現実逃避の道具にはならないのだ。
 現在と大差ない気もするが、わたしは友だちが少なく、内向的な子どもだった。現実は厳しく、世界は脅威で、「本を読んでいる子」になることで自分を守っていた。
 母からよく云われた、おまえは現実逃避をしている、という言葉が、まったくぴんとこなかった。本を読むことは現実に起こっていることだ。わたしはまぎれもなく現実にいて、本がなければわたしの現実は成立しないし、本を読むことが好きなので、本を読んでいたい。ゲームをする弟や友だちと遊ぶ姉と同じように、現実で本を読んでいるだけだ。それなのに、姉や弟にはおまえのやっていることは現実逃避だ、と責めないのだろう。どうして本を読むことだけが現実逃避になるんだろう。本って現実にあるものでしょう? 現実にあるものを読むには現実にいないといけないでしょう? なのにこのひとはどうして現実逃避、なんて言葉を使うのだろう、などと真面目に考えていた。こういうことを云うと、今度は、理屈っぽい、頭でっかちな子だと云われた。

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 あなたの好きな本を訊ねればよかった。あなたとわたしの共通語彙に、あなたの好きな本の題名が加わればよかった。そうすれば、あなたに見えないものに夢中になっているわたしが、けれども現実をしっかり見据えているということを、ほんのすこしでも、理解してもらえたかもしれない。

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 この違和感が少し解消されたのは、小学四年生になって、エンデの『はてしない物語』を読んだときだった。物語の序盤で、バスチアンが本の虫であることが書かれるところで、気づいた。わたしの本の読みかたはバスチアンとは違う、わたしはバスチアンのように本が好きなのではない、と。そして、世の中の多くのひとがバスチアンのように本を読んでいるのかもしれない、だから母はわたしに現実逃避をするな、と云うのかもしれない、と。
 たとえば、わたしは、物語の登場人物に自分を重ねるという感覚がわからない。主人公の冒険を自分の体験のように感じるということがわからない。バスチアンのいうように、自分が物語の主人公になって、本を読んでいるあいだは現実を忘れて無敵になる感覚、というのを持ったことがない。現実を忘れて物語の世界に没入する感覚がわからない。旅行記を読んで旅した気分になったことがない。だって、本のなかの出来事と、現実の自分はまったく違うもの、現実と物語は交わりようがないものだから。むしろ本の世界に自分を無理矢理介入させることに違和感を覚えるから。本を読んでいて感情が働くのは、そこに書かれている物語に感動するからである。わたしはあくまで物語の外の傍観者でしかない。

 お気に入りのフレーズを繰り返し読んだり、それらをノートに書き写して悦に浸ったり、好きな本のタイトルをひたすら箇条書きしたりするのが好きだった。文字のならびや語感のしっくりくる感じがうれしかった。書かれている文字が好きで、文字で書かれているものが好きで、紙に文字が書いてあるだけなのに、こんなに感動できるなんてすごいことだ、と本を閉じたり開いたり眺めたりしていた。

 自分だけの安心できる世界があって、それは本を読んだり文章を書いたりすることだった。それをひとは現実逃避と云うことができるかもしれないけれど、自分としては、ものすごく現実を生きている・読書も創作も現実でしていることだ、と頑なにその言葉を拒否し続けていた。現在進行系で続けている、わたしのこの行為は現実逃避だろうか。
 本を読んで、小説を書いて、文章のことを考えていれば、そこがわたしの秘密基地だった。だけどわたしの秘密基地は目に見えず、独自の世界のルールはわたしにしか適用されず、ひとに分かってもらうことはあきらめていた。とくに「現実逃避をするな」と云う母親に対して「このひととは使う言葉がちがう」と思って、自分の世界にこもるようになった。内向的な陰湿な反抗期の始まりである。

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 わたしがほんとうに再読すべき辻村深月作品は『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』だった。でも、怖くて、読めなかった。

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 本にまつわる、母との忘れがたい思い出がある。
 小さい頃から、母とわたしはまったく理解し合えなかった。家族とはいえ相性というものがあり、わたしたち母娘は、相手を思って言葉を紡ぐことをせずにひとつ屋根の下で日々を重ねた。母は幼いわたしの語彙不足や、それゆえに発話に時間がかかることを考慮せず、言葉が出てくるまで辛抱強く待つことをしなかった。わたしも母から投げかける問いに対して「何を答えれば叱られないか」ばかりを考えて、自分の気持ちを正直に誠実に吐露することをしなかった。園児の頃から習慣化された不誠実な言動が積み重なり、限界を迎えた結果、わたしは沈黙した。何を云われても訊かれても見当違いなことを云われても、ずっと黙っているという姿勢を貫いた。コミュニケーションの基本である対話を放棄したのである。
 ある日、母は沈黙するわたしにしびれを切らし、「家での読書禁止令」を出して、わたしから、わたしのいちばんたいせつなものを取りあげた。
 だけど、今なら、母がどうしてあんなことをしたのかを考えることができる。おそらく母は、沈黙する娘から反応を引き出すために、極端な手段に出たのだった。実際わたしは泣きながら抗った。無駄なことだったけど。このひとはわたしのことを何もわかっていないと思っていたのに、母はわたしのいちばんたいせつなものをわかっていた。それは、わたしを傷つけるのに最適な方法を知っていた、ということだった。
 いま、わたしが思うことは、母をそうさせたのはわたしだ、ということ。そんなふうに自分の子どもを深く傷つけるような言動を母親に取らせたのは、わたしだ、ということ。3人きょうだいのなかで、わたしはやっぱり少し変わっていて、こんな子どもを育てるのは母だって初めてだったのだ、ということ。何よりも深く深くわたしの胸に影を落とすのは、あんなに本を読んで、文章を書いていたのに、母に伝えるための言葉を紡ぐ努力を怠ったということ。
 その後、読書禁止令は、小学6年から高校生になって自然消滅するまで続いた。高校生になって、家で本を読んでいたある日、「まだ読書禁止令は続いてるはずだけど?」と母に云われて無視したことを覚えている。母もそれきり何も云ってこなくなった。

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 本の話がしたいと思ってる、いつも。言葉の話がしたいと思ってる、いつも。わたしがなぜ現実逃避という言葉を嫌ったのか、その理由を説明したいとは思えずにいる、今も。あなたがわたしの言葉に真摯に耳を傾けてくれる姿を想像できずにいる、あの頃も今も。わたしは臆病で、わたしには想像力がない。

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 あなたが嫌になるほど見た、本を読んでいるわたしの姿は、自分では見ることができない。本を読むことで得られる感情に触れることはできない。ノートに書き写し、一字一句違わず覚えて反芻しては深呼吸する、その一文がどんなに愛しくても触れられない、印刷された文字をなぞることしかできない。

 言葉とは、実体のないものだ。文字は言葉の仮の姿に過ぎない。見ることも触れることもできないものに執着し、よすがにし、これがなければ生きることは難しいとさえ感じている。言葉はいつも、ここにある。だけれどここがどこなのかわからないのだ。ここが何を指すのか、心なのか脳なのか、遺伝子なのか歴史なのか。どうして言葉がここにあって、わからないまま文章を書き続けているかを知りたい。最近は、言葉とはいったい何なのか、自分の好きなものの正体が知りたくて、言語学系の本を読み始めた。そこで見えてきたことは、言葉とは何かをとてもたくさんのひとが考えていて、その答えはまだ出ていない、ということだった。言葉とは何かとはとてつもなく大きな問いなのだと遅まきながら知った。本を読めば読むほど、わからなくなった。
 専門用語を覚えることや、偉人の名前や業績を知ることは、知識を蓄えていることにはなるだろうけど、表面にあるものを掬っているだけで、言葉に近づいている実感を得られなかった。その知識をもって何を考えるべきなのか、何に触れようとしているのか、その自覚と実感が足りないのだった。自分が何に触れたいのかも判然としないまま、闇雲に虚空に腕を伸ばしている状態。だけど腕を伸ばさないと、指先が何に触れるのか、何に触れないのかもわからない。わたしは自分の指先が何を掴むのかを知りたいし、何を掴めないのかも知りたい。何を掴んでも掴まなくても、そのときどうやって腕を伸ばしたのかを、言葉にしたい。
 言葉とは何かを知るためには、どこまで行けばいいのだろうか。その場所はどこにあるのだろう。その場所にたどり着けたなら、実体のないあなたの言葉が、実体のないわたしのこころに刺さって抜けない、このたしかな痛みの正体を知ることができるだろうか。

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 いちどだけ、聞いたことがあった。
 ブロンテの『嵐が丘』だったか、それとも『ジェーン・エア』だったか。どちらもだったか。
 夢中になって読んだって云っていた。訊いてもないのにあなたは話しだしたんだった。趣味が合わないなあと思って、黙っていた。 
 ブロンテ姉妹が好きだった。数少ない、あなたが教えてくれた、本のこと。
 たいせつなことは、忘れてしまう、いつも。

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 わたしの秘密基地に、鍵はかかっていない。そもそも扉がない。そこらじゅうに紙が溢れ、文字が漂い、余白の壁と余韻の天井が広がり、そしてひとつの窓がある。その窓からは世界を眺めることができる。それは、架空の国の景色だったり、同じ国で生活するひとの日常だったり、小説家の考えごとだったり、学者の研究の成果だったりする。書くことは世界に風を送ること。読むことは風を呼び込むこと。わたしはひとり、硝子の揺れかたや、雨粒がつくる細い線や粗い線、カーテンのひらめきかたや布越しに感じる陽の暖かさや床にできる影の模様を文字にする。はっとするような月の光の明るさや、物干し竿に増えた錆の色、結露にそのひとの名前を書いた明け方のことを文字にする。
 いつかわたしの小さな窓辺から送った言葉が、あなたの窓辺にたどり着き、あなたの前髪を揺らすかもしれない。あるいは窓辺には届かなくても、窓の外にある木の葉を揺らし、その木洩れ日をあなたがふと見つめる、そんな日がくるかもしれない。
 それってすごく、やさしいことだと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない。話はしないけど、これを読んでいる君は、すでに、わたしと言葉を交わしている。それってすごく、不思議なことだと思いませんか? わたしは思う。そうして窓の外に、冬の星座をひとつ、見つける。

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